伝説の誕生~カール・クリンケの死
カール・クリンケ(ソルブ語名/カルロ・クリンカ)(1840年1月15日~1864年4月18日)
防壁は迫り来る兵士の波を見つめている
壁は困惑する。正義はどちらにある?
彼は平行壕から飛び出す
"我はクリンケ!門を開くぞ!"
肩から下げた爆薬包を掴む
パイプから火を点ける
閃光。破壊。 ―道が拓ける―
彼の魂に神の御慈悲を!
クリンケよ永遠に
神は御自ら天国への扉を開く
テオドール・フォンターネ
「デュッペルの日」一部分(筆者意訳)
フォンターネ(1860年)
カール・クリンケはソルブ人(ドイツ南東部に居住するスラブ系少数民族)のコミュニティ、ボースドルフ・フォアベルク(ドレスデンの北東85キロ)でマリー・クリンケの息子として生まれ、生後6日目、生家の隣町ホルンオーのプロテスタント教会で洗礼を受け、カールと名付けられた。
この時、母マリーは未亡人で、カールの父となるマシー・クリンケはマリーの妊娠中に亡くなっていた。母はカールが3歳の初夏にヨハン・メットケと再婚、しかし継父となったメットケも自分の土地を持っていたとはいえ貧困に喘いでおり、家族は飲まず食わずの生活を送っていた。
それでもカールは6歳で学校に通い始める。幸いにもプロシア王国は子供の教育に熱心で、既に小学校制度は国土の隅々まで機能していた(その理由は兵士が読み書き出来ないと困るため、とも言われてはいるが)。
教師の記憶ではかなりやんちゃな子供だったと言う。同級生の記憶では「意欲的な子供で勤勉、国に奉仕する準備は十分に出来ていた」とのことだが、これは第一次世界大戦直前、1914年に行われたドイツ=デンマーク戦争50周年を記念してのインタビューであり、プロパガンダであろう。
実際の彼は家族のため物心ついた時から実家の畑で働き、それでも一家が食べるには畑地は小さ過ぎたため小学校卒業(12歳)と共に「フェリクス」と名付けられた近郊の露天掘褐炭田で働き始める。この炭田では当時、露天掘りだけでなく坑道掘削による採炭も行われていた。言うまでもなく鉱山労働は危険と隣り合わせで、カールも何度か危ない目に遭っており、崩落による事故も頻繁で、カールも救出作業に駆り出され活躍した、と伝わる。
カールは21歳で結婚(1861年11月30日)。相手は同い年のマリー・ブリッツェ(9月26日生)。ザーゲン(ボースドルフ・フォアベルクの北9キロ)出身、ブリッツェ家の一人娘だった。これは所謂「授かり婚」で、12月中旬には長女ヨハンナ・クリスティアンヌが生まれている。
クリンケ家は小さな木造小屋に住んだが、カールの死後、未亡人が引っ越した後に売却され、現在では小さなレンガ造りの農家になっている。
カールが家族と共に過ごす時間は非常に短かった。
結婚式の一ヶ月前、10月27日。身長1メートル73センチ・心身共に健康だったカールはトルガウ(ライプチィヒの北東50キロ)に駐屯するプロシア王国陸軍工兵第3「フォン・ラウフ/ブランデンブルク第1」大隊の第4中隊に選抜徴兵されたのだ。カールは部隊に頼んで生まれたばかりの娘がクリスマスに洗礼を受けるまで入隊を待って貰った。
63年10月4日。カールは2年間の従軍期間(法律上は3年だが当時は実質2年に短縮されていた)を終え、予備役として帰郷した。ところが、ドイツ連邦とデンマークとの間でシュレスヴィヒ=ホルシュタインを巡る緊張が高まり、プロシア王国軍は局地動員令を発し、工兵第3大隊にも動員召集が掛かったためカールも12月21日に親部隊が移動したシュパンダウ(ベルリン西郊)へ向かわなければならなかった。
この時、妻マリーのお腹には新しい命が芽生えていた。しかし、カールはこの二女(64年7月29日生)を見ることは無かった。
「伝説」はこうだ。
第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の「デュッペル堡塁の戦い」最中、工兵カール・クリンケは30ポンド(独ポンド。15kg)の爆薬包を抱えてデュッペル堡塁群の第2堡塁へ突進し、堡塁に接近することを困難にしていた防柵に取り付くと起爆、命と引き換えに後続へ道を開いた。自爆の直前、クリンケはこう叫んだ。「我はクリンケ。門を開くぞ」(Ick bin Klinke. Ick öffne dit Tor.)
デュッペル堡塁の戦い記念碑にあった工兵クリンケの像(現存せず)
デュッペルの戦いは戦争勝利を決定付けた戦闘として誇大に宣伝され、同時にクリンケは英雄としてその後80年間讃えられて来た。
工兵カール・クリンケの英雄伝説が何時・どのようにして語られるようになったのか。今日では辿ることが出来ないと言う。
はっきりしているのは、プロシアの詩人テオドール・フォンターネが1866年に出版した詩「デュッペルの日」と、それに触発されて描かれた多くの記事と挿絵が「伝説」の誕生に貢献したとされる。
ドイツ帝国を経て第二次大戦までの80年間、ドイツの小学校教科書には必ずデュッペルの戦いの記事と共にクリンケの英雄的な死が記されていた。あるドイツの戦史家は言う。
「かなり以前から、伝説は不正確であることが分かっていた(のに語られ続けた)」
1864年の戦場に従軍記者の資格で観戦していたテオドール・フォンターネは同年、「1864年のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」という記事を出筆する。この記事は前述の「デュッペルの日」と共に66年に出版されるが、その内容は詩と違い戦闘を美化しているようには見えない。
「工兵中隊と襲撃歩兵2個中隊が敵堡塁に接近すると胸壁に並んだ敵が矢継ぎ早に銃撃を仕掛けて来た。我が軍の尖兵は大地に伏せると堡塁目掛けて猛烈な銃火を浴びせた。この援護射撃に守られ、ディナー工兵中尉は数名の工兵と共に堡塁前で放棄されていた塹壕に降り、突破口を開くため堡塁前の防柵に爆薬包を仕掛け爆破した。爆薬を仕掛けた工兵クリンケは爆風で大火傷を負い、暫く後、彼らが開いた突破口の近くで息絶えた」
ところがフォンターネはこの先、第2堡塁で英雄的な防戦を行ったため、独軍が生きて捕縛するよう仕向けて捕虜になったと伝わるデンマーク軍のアンカー中尉についての件になると、突如クリンケが自らを犠牲とした「いけにえの死」の話に脱線し、更に1頁先で「アンカー中尉捕縛の話同様、クリンケが自らを犠牲とした話も真偽意見が分かれる」と書いている。
フォンターネはこの本で第2堡塁突入の詳細を次のように記した。
「報告書によれば、ディナー中尉が部下に取らせた突撃時の密集隊形は現実的でなく、障害物を除去するための重い土木工具や装備を背負った多くの隊員が落伍し、この堡塁攻撃時には多くの者が突撃初期に行動不能となった。ディナー中尉が堡塁に取り付いた時、彼の周りにはラーデマン伍長、大斧を手にしたジードシュラーク一等兵、爆薬包を抱えたキト工兵、起爆装置と導火線を持ったクリンケ工兵だけだった。
ディナー中尉は、堡塁への接近を阻む外柵が激しい銃砲撃でも殆ど無傷で大斧などの土木工具では簡単に破壊出来ないことを悟る。時間を無駄に出来ない中尉は、直ちに爆破することを選択、キト工兵は爆薬包を両手に持つと、クリンケ工兵が導火線を繋いで火を点け、それを防柵直下の塹壕へ投げ入れた。しかし、皆が地面に伏せるより前に爆発が起こり、同時に4本の柵柱が塹壕へ倒れ掛かった。一番左にいたクリンケ工兵と右端のディナー中尉が吹き飛ばされ、中尉は手に火傷を負っただけで助かり、直ぐに塹壕をよじ登ってその間に到着した隊員と共に突破口を広げに掛かった。
程なく堡塁は占領され、ディナー中尉が塹壕に戻ると、顔に大火傷を負い腕と胸に銃弾を受けたクリンケ工兵が瀕死の状態で中尉を迎えた。銃創は塹壕を這い出した後にデンマーク兵から撃たれたものだ、とクリンケは中尉に語っている。その後、野戦病院への搬送中、クリンケ工兵は死んだ。」
デュッペル第2堡塁の戦い
ベルリンの参謀本部戦史課が1887年に出版した公式戦史「1864年のドイツ=デンマーク戦争」では第2堡塁の戦闘について「尖兵となったフュージリア(散兵)2個中隊の銃火による援護下、工兵が防柵を爆破し突破口を開いた。この突破口からザウス=ヤウォルスキー中尉率いるムスケディア(小銃歩兵)小隊が堡塁の南側に侵入した」とある。
この段落には脚注があり、「工兵大隊のラーデマン伍長が15キロの爆薬包の導火線に点火し、キト工兵が防柵に投げつけた。その時の爆風で防柵前の塹壕を跨ぐ2本の桟橋が倒れた。クリンケ工兵は柵のごく近くにいたため大火傷を負い、更に塹壕から脱出する際に銃撃を受け致命傷を負った」
工兵第3「ブランデンブルク第1」大隊の隊史でもクリンケの話が出て来るが、「クリンケ工兵は突撃中に導火線を喪失し、直接マッチで爆薬包に点火したが、爆発で火傷を負い、吹き飛んだ際に(残った)防柵に持たれ掛かったため銃弾を胸に浴び、暫く後に息を引き取った」と、銃撃は味方からの誤射だった可能性も示唆している。
このように、公的な記録上、カール・クリンケの自己犠牲的な死について記述されたものは無い。プロシア軍の公式死傷者リストでクリンケの項は「左肩甲骨への銃創にて死亡」という簡素でありふれた記述となっている。
つまり、フォンターネの詩と、それに続いた無数の新聞記事の上だけでクリンケは自分自身を犠牲にし、それによって仲間たちの襲撃を可能にしたことになっている。
シュプレムベルク北郊のカントドルフ(クリンケの生地ボースドルフ・フォルベルクの西南西12.5キロ)出身、工兵のヴィルヘルム・キトは戦後、シュプレムベルクの古老メルベ牧師にこう告白している。
「私はボースドルフ出身の工兵クリンケと一緒に戦っていました。我々はブランデンブルクの第3工兵大隊第4中隊に所属しており、彼と私は防御柵を倒す鈎棒を扱っていました。我々の小隊長ディナー中尉は『志願者を募る。堡塁の壁を爆破するため爆薬包を扱いたい者は前に出よ!』と言いました。私とクリンケは一歩前に出て『中尉。私もお連れ下さい!』と答えました。
私は30から35独ポンド(15~17.5kg)の火薬が入った爆薬包を持って、ディナー中尉、ラーデマン伍長、クルッコ軍曹に続いて進みました。目標だった第2堡塁の防柵から18、9歩のところで爆薬を地面に降ろします。その時は銃弾飛び交う激戦の最中で正に生か死か、といったところでした。我々は導火線を試しましたが火が点かなかったためラーデマン伍長が葉巻に火を点けて私が持つ爆薬包に押し付け着火ました。私は爆薬包を掴んで直ぐに第2堡塁の防柵に向けて爆薬を投げると、それは直ぐに爆発しました。私は動かずに立ったままでしたが火薬の滓が私の軍装に焦げ目を付けたくらいで、掠り傷ひとつ負いませんでした」と。
元工兵キトの告白は一部を除いて公式記録と一致しているため、クリンケの死は、時間遅延信管がなく導火線も付いていなかった爆薬包に直接着火したための過失(損害覚悟)による事故だった可能性が高い。
占領後の第2堡塁
国民的詩人であったフォンターネは、当時のプロシア王国に漂う高揚感に乗ってクリンケを英雄に祭り上げたのかも知れない。
通説では、「この戦争の記事を起こす際、フォンターネの目が報告書の隅に載っていたクリンケという変わった名前に留まり、詩の一節で自己犠牲の英雄クリンケを産み出した可能性が高い」と言われる。
愛国心が高かった当時のフォンターネが「デュッペルの日」を書き、その一節で一工兵が「私はクリンケ!突破口を開くのは俺だ!」と叫ぶ情景はプロシアの、そしてドイツの一般市民の胸を打った。
当のフォンターネ自身は前述の「1864年のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の中で、冷静かつ修飾せず第2堡塁襲撃の情景を描いているものの、クリンケの「伝説」はあっという間に全ドイツ中に広がってしまった。
19世紀も中頃、それまでは皇帝や国王、軍の指揮官たちが戦争の英雄であったが、ブルジョワジーばかりか一般民衆が力を付けたこの時代、遂に民衆からクリンケという戦争の英雄が生まれ出たのだ。
彼は貧乏ではあったものの地元では愛する妻と二人の幼子を残して逝った真面目な働き者として認知されており、これが記事になると「伝説」に更なる重みを加えた。この物語は大変人気があり、様々に変容して語り告がれて行った。
しかし疑問は残る。
軍は何故、一般民衆が知るクリンケの死を異なる説明で終始させているのか。
なぜ50年以上もクリンケが爆薬包を投げて死んだことになったのか。
元工兵のキトや、ディナー、そして後に中将にまで昇進したフェルディナント・ヴィルヘルム・エルンスト・ラーデマンが、なぜ自分たちの大隊の歴史と異なる「伝説」に異を唱えなかったのか。
これは彼らが墓場まで持って行ってしまった「沈黙」のため永久に明らかにはならない。
結局、クリンケの「伝説」は国家や軍にも都合が良かった。
英雄であるカール・クリンケは時代に合致した「お話」であり、無私の犠牲は軍が兵士に望む最大の貢献だからだ。
クリンケの死の真相、その間違った伝聞は当然ヴィルヘルム1世国王も知っていた訳で、王、そして後の皇帝は「民衆から自分たちの英雄を奪うことは忍びない」と考えたに違いない。
歴史の「真実」なるものを解き明かすことは、歴史家にとって最大の目標に違いないが、真実は時として一般民衆のニーズに適したものではないことは、あの時代でも現代でも同じと言うことだ。
最後に「真実」を知っていたフォンターネが書き残した一文を記しておこう。筆者にはこの一節こそが全てを物語っていると思えるのだ。
「そうですね、犠牲者の数は深刻でした。しかし伯爵夫人、犠牲はこの際関係ありません。まあ、犠牲は誰であってもそれを強いられる当人にとって重大ではありますがね。しかし私は今、犠牲について語っているのではなく無私について語っています。戦争では無私こそが重要であり、犠牲の大小は重要ではありません。
……ある男が堡塁の斜堤を登り、男はその手に爆薬の詰まった薬包と雷管を持ち、堡塁の防柵に忍び寄り、そして躊躇なく雷管を作動させる。もちろん爆発が起こり男は吹き飛ばされる。しかし防柵にも突破口が開く。そうです伯爵夫人。これこそが重要なのです。それが工兵クリンケが為したことです。それは無私そのものなのです。伯爵夫人、貴女が彼のことを聞いたことがあるかどうかは存じませんが、それは人がなぜ生まれて死んで行くのか、の疑問に対する重要な真理なのです。
個人が出来ることなど全体からすれば実に小さなものです。ですが全体の中で個人が犠牲を厭わない行為、そう、名も無き英雄がたくさん登場する場面。それが私の思う『偉大な戦争』です。
爆薬包を持つクリンケ、彼は普軍の中ではその他大勢の一人に過ぎません。しかし、その行為により大きな存在になった、と言えるでしょう」
テオドール・フォンターネの絶筆「シュテヒリン」1898年。英雄についての会話(筆者意訳)
第2堡塁跡にあったクリンケの顕彰碑