4-1
4-1.李遼(父)
速足で廊下を渡る。
手の中に握りしめたのは、読み終わった文と掌ほどの大きさの木製の短剣。短剣は燃え上がるような恋をした女と別れる際に、彼女にお守り代わりに渡したものだ。
趙春蓮は花のような女だった。
大地に根を下ろし、天から落ちる冷たい雨に耐え、顔を上げてひたむきに陽に向かう。しかし、暴風の前では花弁を散らしてしまう、儚い花のような女だった。
無実の罪を着せられ、各地を放浪していた最中、一晩だけ宿を借りるために訪れた屋敷で出逢ってしまった彼女と恋に落ち、気づけば十日も滞在していた。
しかし、追われる身では親切な趙家の人々に迷惑をかけることになる。
後ろ髪引かれる思いで彼女に別れを告げた。木を彫って作った短剣を春蓮に渡し「身の潔白を証明して身分を取り戻したら、必ず迎えに来る」と約束して。
その二年後、従弟である王烈の力を借りて真相を突き止め、無罪放免となってから約束を果たすために彼女に会いに行った。
二年前に訪れた屋敷は無くなっていた。調べると火事で趙家の当主と妻、息子は亡くなっていた。
財産を失い家が傾いたため、娘である春蓮はその土地の有力者の家に嫁いでいた。すでに子供も生まれており、二人目も胎の中にいるのだと聞かされた。
王烈はそれに激怒し、娘を攫うかと唆してきたが断った。遠目で見た彼女が、腹を摩って微笑んでいたからだ。
確かに約束はしたが、己の一方的な思いだけで彼女の幸福を潰したくはなかった。
胸が抉れるような思いで花のような女を諦め、当時まだ李家の族長だった父に勧められた他家の娘の中から、次期族長の妻に相応しい者を娶った。
しかし、手渡された文を読み終えたころには、後悔が胸を埋め尽くした。
何故あの時、王烈の言うままに彼女を奪わなかったのか。
何故、もっと彼女の身辺や子供について調べなかったのか。
せめて春蓮が最初に産んだ子だけでも保護できていたら、彼女はもっと穏やかな心で生きていけたはずだ。
妻――桂華を娶ったことは微塵も後悔していない。彼女は李家の女房として一族全体を把握し、不在にしがちな家を切り盛りしてくれている。
丈夫な男児を二人も産んでくれ、更に今現在も胎の中に子がいる。共に人生を歩む伴侶として、これ以上はないほど優れた妻だ。
しかし大切に思う者を、春蓮に対して最善を尽くさなかった己に対して失望が胸を抉る。
あの日別れてから、彼女はどのような思いで過ごしたのか。
一向に迎えに来ぬ男を待ち続け、死に至った女の人生を思い、奥歯を噛み締めた。
鬱々とした気持ちのまま、突き当りの客間の扉を開けると卓を囲んだ弟と少年――否、少女が何やらもさもさと頬張っていた。
扉が開いたのに気付いた李翔が、こちらに手を挙げる。
「おっ、兄貴!おかえり!」
「……ああ、戻った」
お帰りも何もここは俺の家なのだが、とやや脱力する。
李翔はそのままもさもさと食べ続ける。おかげで張りつめていた気が少々抜けた。
二人が座っている卓まで歩を進めると、少女が椅子から降りて礼をする。
先ほどよりかは顔色は良くなっていることに安堵した。しかし、礼をした際に挙げた手は赤切れと薄くなった青痣、袖の奥には白い包帯が巻かれているのが見えた。
「お招きいただきありがとうございます。呂雁様に茶と菓子でもてなしていただいておりました」
卓の上に湯呑と大量の焼き菓子が置かれている。部屋の隅で待機していた家令が、客人にと出したのだろう。
少女に席に着くよう促し、己は二人の対面の席に座ると、すぐに呂雁が俺にも茶を出した。
呂雁は李翔と少女の湯呑にも茶を注ぐとスッと部屋の隅に戻る。長年李家に仕えているだけあり卒のない動きだ。
茶には手を出さず少女の顔を見た。母親の面影はまるで無く、幼くして病死した末弟によく似ている。
しかし末弟はあまり物を食べることができなかった。固形のものはほとんど消化できず、いつも旨くもない薄い粥を飲み込んでいた。
間違っても、もさもさと焼き菓子を頬張り続けるようなことはなかった。どちらかと言えばその様子は隣にいる李翔の仕草に似ている。
「食いすぎるなよ。晩飯が食えなくなるぞ」
「甘いものは別腹だろ」
兄貴も食ったら?と呑気に勧められ、後ろ頭を掻きながら己も焼き菓子に手を伸ばした。
子供のころからよく間食に出されていた菓子だ。少し塩味のある生地はさくりとした歯ごたえで、中の甘藷の餡はさっぱりとしている。
己ももさもさと菓子を頬張り、茶を啜る。それで逸っていた気持ちが完全に落ち着いた。がさつに見えて気配りの巧い弟は、いつもさり気なくこちらを補佐してくれる。
全く、良く出来た弟を持ったものだ、と思いながら一つ二つと胃に送り込み、三つ目になる菓子を口に放り込む。思いの外、腹が減っていたらしい。
しかし、食ってばかりもいられないと茶で菓子を流し込み、再び少女に視線を向けた。
「お前が潤玲だな」
「ふぁい、…失礼いたしました。仰る通り、私は潤玲と申します」
潤玲も菓子を食べるのを止め、居ずまいを正した。文に書いてあった通り、礼儀正しい子供だ。
「お前は、自分の両親が誰なのかはわかっているのか?」
「存じ上げております。知ったのは最近ですが」
「そうか」
その言葉に、言いようのない苦みが胸をよぎる。
目の前の少女は、自分の両親が誰かも知らされずに使用人として育った。
母親は我が子に接することを禁じられ、子は不義の子として粗末に扱われ、時には暴力も受けていたそうだ。
実際、手は赤切れと治りかけの青痣にまみれて痛々しい。先ほど見えた腕に包帯が巻かれていたことから、服の下はもっと酷い状態の可能性もある。
「もうわかっているとは思うが、俺がお前の父親だ」
「はい。理解しております」
「俺は趙春蓮――お前の母と約束を交わしたが、其れを果たさなかった不義者だ。故に、お前とお前の母の望みに最大限応えるつもりだ」
「恐れ入ります」
恭しく頭を下げる潤玲に頷き、質問を続ける。
「先ほどお前はこの家に入ることを拒んだが、それは何故だ?他に行く当てがあったのか?」
「いえ、行く当てはありません。ここまで送ってくれた徐薛殿――趙春蓮様の侍女だった周夫人のご子息は別件でも仕事を抱えていたため、すでに帝都を離れておられます。念のために宿は取っておりますが」
「なるほど。しかし、帝都には頼る宛もない状態ではないのか?」
「はい。しかし李遼様にはすでに妻子がおられることは存じ上げております。故に、不義の子である私が踏み入れるべきではないと思いました。それに」
潤玲の口から出た「不義の子」という言葉に眉をしかめるが、続きを促した。
「それに、なんだ?」
「海に行こうと思い」
「海だと?」
急に出てきた海という単語に疑問が募る。李翔も同感だったのか、潤玲に顔を向けた。
「んんん?潤玲、何でまた海に行きたいんだ?」
「私は今までほとんど外に出たことがないのですが、人に聞いた海というものを一度見てみたいと思ったので」
少し照れたように言う少女に李翔と顔を見合わせた。
帝都は海からかなり離れた場所にあり、一番近い沿岸へ馬を走らせたとしても、五日以上かかる。子供の足で辿り着くには十日以上、否、ひと月掛けても辿り着くのは困難だろう。
馬車を使うならばもっと早く着くだろうが、馬車を長期間借りれるような金額を潤玲が所持しているとは思えない。
しかも、これからの時期は益々寒さが厳しくなり吹雪く日も続く。子供が長期間旅をするには時期が悪すぎる。
その事実を告げると、潤玲が困ったように笑った。
「それほど距離があるとは知りませんでした。教えていただきありがとうございます」
軽く頭を下げ、再び卓上の菓子に手を伸ばして頬張った。
ひたすらもさもさと咀嚼している。その様子に再び弟と顔を見合わせた。
「えっとな、潤玲?お前さん、どうするつもりなんだ?」
「春までの間、どこかで働きながら旅の準備を整えようかと考えています。宿代が尽きるまでに雇っていただけるところを探さねばなりません」
帝都は宿代が高いので節約しなければ、と李翔の問いに、あっけらかんと答える潤玲に米神を抑えた。
目の前にいる男が父親と認識しているはずなのに、一切頼ろうとしてこないとは。
突然現れた父親なぞ信用できないと思っているのだろうかと思っていると、菓子を飲み込んだ潤玲が視線を向ける。
「李遼様、李翔様、お願いがあるのですが」
「おお、なんだなんだ!おいちゃんたちに言ってみなって!」
お願いと言われて李翔が目を輝かせる。
ようやくこの娘が自分たちに頼ろうとしているとわかり、俺も力強く頷いた。愛した女の忘れ形見、それも己の子の頼みであれば力になりたい。
「真に厚かましいのですが、私でも雇っていただけそうな働き口を紹介していただけませんでしょうか」
出来れば住み込みだと嬉しいのですが、と言う琥珀の瞳に、俺たち兄弟はそろって天を仰いだ。