3-2
3-2.李翔(叔父)
家令が淹れた熱い茶を啜る。冷え切った体に染み、ほっと息を吐いた。
俺の隣に腰掛けた少年は湯呑の湖面に息を吹きかけて、冷ましてから飲んでいる。五歳くらいかと思っていたが、所作の丁寧さや、しっかりと受け答えできているところを見ると、実年齢はもっと高そうだ。
兄は少年に渡された包みを持って自室に消えた。中に何が入っているかは知らないが、文の一つくらいはあるだろう。
茶を啜りながら夕飯はどうしようか、と間の抜けたことを思う。そもそも兄の邸宅へは酒を呑みに来たというのに、完全にそれどころではなくなってしまった。
先ほど兄の奥方への挨拶はしたが、身重である奥方に負担をかけたくなかったため、同族の使者が来たとしか伝えていない。
兄には奥方との間に五歳と二歳の息子がいる。さらに今腹の中にいる子は医者の見立てでは双子ではないかとのことだ。
夫婦生活四年目に突入しても、未だに子がいない自分と妻から見ると、子宝に恵まれて羨ましい限りである。
「李翔様、いかがされました?」
琥珀の瞳が心配げにこちらをのぞき込んでいた。どうやら自然と不満が顔に出てしまっていたらしい。
何でもないと言って、ふと袖の中にあるものを思い出した。甥っ子に渡そうと持ってきたものだが構わないだろうと、袖から取り出した紙の包みを少年に渡してやる。
「これは?」
「干し葡萄だ。食ってみろよ旨いぞ」
少年はおずおずと包みを開き、黒い干し葡萄を一粒口に運んだ。よほど美味しかったのだろう。小さい粒だというのにひたすら咀嚼している。
痩せこけた体と傷だらけの手を見て察するに、元に居た家ではあまり良いとは言えない境遇だったに違いない。
「まだあるんだから、たくさん食えよ」
少年に対する哀れみと、その置かれていた環境に対する怒りを隠しながら必死に笑顔を浮かべ、少年の頭をぐりぐりと撫でる。
頭を撫でられた少年がはにかむ様に笑った。その笑顔に、あれ?と首を傾げる。
「ん?お前さんもしかして女か?」
「はい、男か女かでいうのであれば女です」
俺の疑問にきょとんとした顔で答えた少年――否、少女に、俺は頬を掻いた。
女物の羽織と襟巻を身に着けていたが、それ以外は男物の服を着ている。それに少女の顔立ちは幼いため中性的、むしろどちらかと言えば男っぽい顔立ちをしているし、髪も女子ではあり得ぬほど短く刈り揃えられていた為、完全に男だと思い込んでいた。
そのことを素直に謝れば、よくあることなので気にしていないと返された。実に達観している。
「そういえば、まだお前さんの名前を聞いてなかったな」
「はい、そういえば名乗っておりませんでした。私は潤玲と申します。両親がいないため姓はありません」
「そっか」
両親がいないという潤玲の言葉に、脳裏に浮かんでいた想像は確実だろうと内心冷や汗が出た。
弟に似た兄と同じ色の瞳を持つ子供が、兄の元恋人の趙春蓮の遣いでやってきた。それがどういう意味なのか分からないほど鈍感ではない。
しかしあの清廉潔白といわれる兄に隠し子がいたとは。
青天の霹靂とは正にこのことだ。
潤玲が女子だったことは幸いだろう。男子だった場合、無用な跡継ぎ問題が起きかねない。
この国ではよほどのことがない限り、基本的には長男が家を継ぐ。
長男では不都合がある、もしくは長子以外の子の才能が飛びぬけている場合は例外だが、少なくとも、女子が跡継ぎに選ばれることはない。
兄と瓜二つな瞳が訝しげにこちらを見てくる。
肌は先ほどのような白さではなく、健康的な色になり、青かった唇も赤く色付き引き締まっている。頬が痩せこけているが、凛々しい顔立ちはよく見ると弟よりも兄に似ている気がしてきた。
本当に、本当に女子でよかった。この子がもし男子だったら、気位の高い義姉がどんな反応をしたことだろう。
頬が引きつるのを感じながら干し葡萄を摘まみ、おそらく血の繋がっている姪っ子(仮)の口に運んだ。
******
「劉覇、どうした」
「……黄潤殿」
団長に呼びかけられ、蒸籠の前で項垂れていた砂色の髪の偉丈夫が振り向いた。
彼の国で大将軍を務めたこともある劉覇は、将としての知識と経験を活かし、傭兵団では第二部隊を率いる部隊長を務めている。
武勇に優れ、純粋な武術では団長である黄潤を上回る。分析力や判断力も備わり、更には忠誠心も強いため黄潤や安慈からの信頼も厚い。
そんな武人として完璧である劉覇でも叶わないことがあった。
蒸し上がったばかりでホカホカと湯気を立てる蒸籠を覗き込んだ黄潤に、チラリと視線を寄越され、劉覇は目を逸らした。
「今度は何を作ろうとしたんだ?」
「包子を…肴にしようと思い……その」
気まずそうに言い、劉覇はため息を吐いた。蒸籠の中身は包子ではなく、甘い香りの湯気を上げる蒸し菓子。
「どう見ても蒸し面包だな」
しかも干し葡萄入りか、と表面の黒い斑点を見止めて苦笑する黄潤に、劉覇は情けなさそうに無精髭の生えた頬を掻く。
武人として天賦の才を持ち、完璧超人と仲間から呼ばれる劉覇の唯一の欠点は料理下手ということだ。
決して料理ができない、というわけではない。それどころか作ったものは美味しい部類に入る。
しかしどういう訳か、毎回思ったような料理にならない。劉覇はいつも酒に合う塩辛いものを作ろうとするが、出来上がった料理は何故か甘いものになっているのだ。
塩味の効いた揚げ面包を作ろうとすれば、中に小豆の甘煮が入った甘い面包に。
ぷりぷりとした水餃子を作ろうとすると、胡麻団子になる。
一番酷かったのは麻婆豆腐を作ろうと鉄鍋を振っていたのに、完成したらひんやり冷たい杏仁豆腐になっていた時だ。完全に材料が違うのに、どうしてそうなったのか。
しかも、ちゃんと肉を炒め、唐辛子まで入れているところを数人の団員が目撃していたのにも関わらずだ。
鍋に放りこまれた肉は、豆腐は、唐辛子は、生姜は、ニンニクは、大量の胡椒と塩は一体何処に消えたのか――この事件は一種の伝説、否、怪談話として団員たちの間で語られている。
軍師の海瑠には劉覇が持つ土神の加護の影響、おそらく遥か西に存在するという錬金術の類の可能性があると言われたが、作りたいものを作れないのなら、むしろ呪いの一種ではないかとさえ思える。
甘味の錬金術師とか、絶対に呼ばれたくない。
「ひおはらひももはほひいはら」
「黄潤殿、口にものを詰めたまま話されてもわからんよ」
出来立ての干し葡萄入り蒸し面包を、もふもふと頬張る団長に苦笑しながら注意する。
しばらく咀嚼して蒸し面包を嚥下した黄潤は、改めて劉覇に言う。
「塩辛いものが食いのなら俺が作ってやると言っただろう」
「気持ちはありがたいが…」
黄潤は料理ができる。特に子供の頃に父親から教わったという野戦料理は絶品で、食べたいと強請る団員も多い。
しかし、この若き団長は忙しい。結成当初は数人だったという傭兵団も、今や二百人を超える。
団員たちを食わせるために、毎晩遅くまで働き続けている黄潤の手を、自分の願望のためなどで煩わせたくないと劉覇は考えていた。
「そうか?さすがに忙しいときは断るが、手の空いているときであれば腕を振るうぞ」
唇を歪めて笑いながら、黄潤は二つ目の蒸し面包を頬張る。この団長は凛とした見かけによらず、意外と食い意地が張っている。
「お前が食わんようだからな。その分を消費しているだけだ」
それに干し葡萄は好物だ、と二つ目もぺろりと平らげて三つ目に齧り付く黄潤の姿に、劉覇の唇から小さく笑い声が零れる。
この団長に嫌いな食物があるなど、聞いたことがない。
甘かろうが辛かろうが、旨かろうが不味かろうが、すべて等しく綺麗に平らげてしまうのだ。
気持ちのいい食いっぷりに、劉覇も蒸し面包を一つ手に取って齧りついた。口に広がるのはふんわりとした甘みと干し葡萄の甘酸っぱさ。
不味くはないが、やはり塩辛いものの方が好きだと劉覇は思う。
「あーッ!!!黄潤団長と劉覇隊長がおやつ食ってる!!!」
「ズルいっす!!オレたちにもおやつくださいっ!!!」
わーわーと叫びながら走ってくる若い団員たちの姿に、劉覇と黄潤は顔を見合わせて笑った。