8-5
久々の投稿です。年度末と初めの忙しさが憎い。
8-5.王烈(叔従父)
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日が落ちた薄暗い砦を見回る兵達に紛れ、乾永は黄潤とのんびりと散歩をしていた。
第二部隊の副将で、傭兵団最年長の老兵でもある乾永は髪も髭も白く、顔に刻まれた深い皺はその生涯の長さを思わせる。白く長い眉に隠れた目は穏やかな光を湛えており、傭兵団の団員達からは好々爺として慕われていた。
そんな乾永は日が暮れた頃、こうして誰かと一緒に散歩するのが日課だ。今日はたまたま居合わせた団長の黄潤が見回りも兼ねて随行している。
二人は篝火を焚いた砦を見回り、砦の修復具合を確認していく。時折すれ違うのは傭兵団の団員ではなく、領主が率いてきた兵だ。
砦を落としてから二日。今昼にこの地の領主であり、傭兵団の雇い主でもある呉圭を迎え入れた。
補給拠点も兼ねていた砦は通常拠点の規模とは比べものにならないほど大きく、堅牢でもあった。呉圭もまさか二百騎程度の傭兵団が、たった数時間でこの砦を制圧できるなど考えていなかったのだろう。
率いてきた兵は三千余りであったが、その兵は完全に無傷で砦へと収容された。
戦闘を覚悟していた兵たちは気が抜けたような、しかし命のやり取りをしないで済むことに安堵したような顔をしていた。
防御壁へと上がり、黄潤と乾永は壁の外に目をやる。
辺りはすっかり暗くなっているが、若い頃から強弓使いとして名を馳せる乾永の目には、星明りだけでも三里先まで見通せる。
今夜の空には三日月が浮かんでいる。乾永はその光だけで攻撃できる距離に敵がいないことを確認できた。
「ほっほっ、よい夜ですなぁ」
「そのようだ。いい風も吹いている」
短い髪を遊ばせる冷たい風に、黄潤が目を細めた。
黄潤は義兄弟の安慈ほどではないが風を読むことができ、大気の緊張感から周囲に敵が居るかどうかを探れる。昨日までは敵の密偵が幾人か砦の周囲を見張っていたが、それもすでに去っているようだ。
死臭も随分薄れてきている。死臭の大きな原因だったのは防御壁や櫓に吊るしていた妖獣だが、それを見た民兵が何人も腰を抜かしたため、昼過ぎには下ろした。
砦を取り戻そうとやってきた敵軍が吊るされた妖獣の死骸に恐れ慄き、矢の一本も放たずに逃げ帰った後だったため、今のところ支障はない。
妖獣の皮や骨、牙や爪などは武具の材料となる他、肉も適切に処理をすれば食べられる。明日は朝から豪勢な食事が出るだろう。
そんな取り留めない話していると、第三者が防御壁に上ってくる気配がした。
黄潤も乾永も身構えることはしない。殺気も悪意もなく、足運びの音も素人のそれだ。曲者であれば足音を立てることはない。
見張りの兵だろうかと目を向けると、そこに居たのは髭を生やした中肉中背の男の姿。この地の領主である呉圭が、いそいそと梯子を登ってくる最中だった。呉圭は供を連れておらず、篝火に揺れる影は一つしかない。
思わぬ登場人物に黄潤も乾永も眉を顰める。戦の最中、日の落ちた時刻に護衛も連れずに歩き回っていいような人物ではない。
黄潤は防御壁に上がってきた呉圭に歩み寄り、声を掛けた。
「呉圭殿、如何された?大将ともあろう者が供も連れず、このような場所に足を運ばれるとは」
「貴殿が此処に上がるのを見て、居ても立っても居られず出てきてしまいました。それにこの砦には害をなすような輩はいないのでしょう?」
柔和な笑みを浮かべる呉圭に、黄潤は顎を撫でた。
確かにこの砦は制圧済みだ。間者がいないか隅から隅まで確認し、捕虜達も数箇所に分散させて見張りを付けている。下級兵たちは逆らうような愚行はせず、比較的階級が上の者たちも今更歯向かうだけの気力はないようで大人しくしている。
さらに傭兵団の団員を各所に配置し、異常がないか目を光らせている。
確かに大将一人で出歩いても問題はないだろうが、それでも用心に越したことはない。味方に裏切らない者がいないとは限らないのだ。
黄潤の渋い顔を見た呉圭が苦笑する。
「黄潤殿の懸念は最もなことです。ですが今、どうしても貴殿と話がしたかった」
その言葉を聞いた乾永は防御壁へ登るための梯子の前まで移動し、黄潤と呉圭に背を向けた。
雇い主は僅かではあるが危険があるのを承知の上で、供にも聞かれたくない話を態々しにきたのだ。ならばそれを邪魔する無粋はせぬと乾永は白い髭を撫で、暗闇に目を向けたまま二人の会話に耳を傾けた。
「此度の戦、見事なお手並みでした。私ではこのようにうまく制圧はできなかったでしょう」
「長らく戦も無く平和な土地に住む者たちと、戦場を渡り歩く我らとではそもそも練度が違う。
むしろ短期間で三千もの若い兵を用意できるとは、呉圭殿は領民から信頼を寄せられていると見える。良い面構えの者ばかりだ」
呉圭の称賛に黄潤は首を横に振る。
兵一人一人の強さはもちろんだが、戦を知る者と知らぬ者ではそもそも覚悟が違う。しかし呉圭が連れてきた兵たちは皆、真剣そうな面持ちをしていた。
黄潤がそう返すと呉圭は苦々しくため息を吐いた。
「仰る通り、我々は戦などしたこともない。我が一族が治めてきた地は幸運にも平和な時代が長く、剣よりも筆に、槍よりも鍬に親しみがある者ばかり。剣を扱うことができる者の方が稀で……そんな我々でさえ、剣を取らざる負えなかったのです」
暗闇を睨みつける呉圭の眼は悲壮感に満ちていた。
乾永はこの戦の根本理由である後継者争いを思い出し、この状況は領主の本意ではないことを改めて認識した。
この地を納めていた前領主には優秀な跡取りがいた。よく働き、よく学び、領民たちにも真摯に向き合うことができる、前領主の弟である呉圭にとっても自慢の甥だったという。
しかし前領主が病に伏せると、跡取りであった長男は落石に巻き込まれて死亡、その後すぐに次男と四男も火事で死亡した。残ったのは前領主の三男・呉条だけであった。
続けざまに息子たちを失った前領主はしかし、病の床でも冷静であったという。
呉圭は顔を伏せ、唸るように言葉を紡ぐ。
「兄に命じられて落石事故と火事について調べると、すべて人が故意に起こしたものだとすぐにわかりました。呉条が事件の背後にいることも」
落石事故と火事を起こした犯人たちは口を割る前に全員死亡している。毒を盛られ者もいれば、後ろから刺された者もいたらしい。
それも呉条が口封じのために殺害したとすぐに判明した。
「跡取りの長兄を事故に見せかけて殺害し、邪魔な次兄と弟も焼き殺し、配下であっても邪魔な存在は殺す。そんな男が領主になれば、民草は地獄を見ることになると考えた兄は息子を廃嫡し、私を後継者に指名しました。そして、逆上した呉条に殺されました」
呉圭が血を吐くように語った内容に乾永はひっそりと目を細めた。
後継者争いにはよくある話だ。身内同士で醜く争い、血で血を洗い、殺し合う。しかし戦がほとんどなく平和な土地では別なのかもしれない。
「黄潤殿。情けないことだが、私は誰も殺したくなどない。例え兄と甥を殺した男と言えど、呉条もまた私の甥なのです。私を叔父と呼び、慕ってくれていたあの子を手に掛けたくなかった。
その結果が、この戦です」
愚かなことです、と自嘲する男に黄潤は首を振る。
兄弟たちを暗殺したことが分かった時点で呉条に手を下していれば、少なくとも前領主は息子に殺害されることはなく、領地で内乱も起きなかっただろう。
だがそれは結果論だ。悩みながらも甥の善性を信じた呉圭を責めるほど、黄潤も乾永も善人ではなかった。
「呉圭殿、過去を悔いることができるのは生きる者の特権だ。そして過去に囚われるのではなく、未来に目を向け、進むことが今を生きる者の務めでもある」
「私の判断の甘さ、意気地の無さのせいで多くの民を巻き込み、死に追いやり、悲しみと憎しみを撒き散らした。黄潤殿、不幸の元凶は私なのです」
「貴殿は確かに愚かだったかもしれない。だが今こうして剣を取り兵を上げ、民と土地を守ろうとする男を、俺は称賛はすれど軽蔑などせぬ」
黄潤の言葉に、乾永も小さく頷いた。
傭兵団は戦で大切な人や居場所を喪った者たちで構成されている。乾永はもちろん、清廉潔白と言われる黄潤や明朗快活である安慈でさえも、怒りと憎しみで剣を取り、敵を殺してきた。
憎しみではなく苦悩の末に戦うことを選んだ者を、誰が責められようか。
「兵たちを見れば貴殿の人柄はよくわかる。彼らの目は戦を恐れるそれではなく、何かを守るために歯を食いしばって立ち続けている者の目だ。そんな兵が貴殿の下に三千も集まっている。呉圭殿と共にならば故郷を守れると信じて剣を取った者たちがだ」
呉圭が連れてきた兵の大半は義勇軍だ。金をばら撒いて集めたのではなく、自らの意思で呉圭の元へと集ってきたのだ。
ひたり、と黄潤は真正面から呉圭を見つめた。
「自責の念に駆られるのは結構。反省も後悔もせぬ人間など碌なものではない。
だがそれに囚われ、貴殿を信じてついてきた者たちがいることを忘れてはならん」
篝火の光が黄潤の黄金琥珀の瞳に赤みを与え、夜闇の中でも燦然と輝く。
その瞳を受けた呉圭は息を飲み、暫くしてから深く息を吐きだした後、苦笑しながら額に手を当てた。
「黄潤殿、弱音を吐いたこと、お許しいただきたい……私は貴殿であれば叱ってくれるかと思ったのです」
もう、私を叱ってくれる人間は誰もいないので。と呟いた呉圭に黄潤はふん、と鼻を鳴らした。
「期待が外れたな?」
「いいえ、貴殿の言葉で気合が入りました。まるで目の前の靄が晴れたようです」
首を横に振った呉圭は晴れやかな声でそう言った。迷いが無くなったようで何よりと乾永は何度も頷く。
流石は我らが黄潤団長殿、清涼潔白で質実剛健、そして天然の人たらし。時に厳しいことも言うが、相手や相手の周りを思いやっての言葉は聞く者の胸を打つ。
呉圭も雇われた当初は頼りなく、戦略戦術の無さが目に付いていたが、悩み抜いた上で覚悟を決めた男になった今、乾永には好ましい人物に見えた。
黄潤も呉圭の人となりを知ってか、敬語ではなく随分と砕けた様子で雑談を始めた。
傍から聞けば雇い主相手に横柄とも取れる口調だが、それは黄潤が呉圭を身内と認めた証でもあった。
長くなったので今回は青年期も前半後半で分けます。




