8-4
8-4.王烈(叔従父)
しばらく上機嫌のまま酒を呑み、大いに酔う。
ふわふわと頭が揺れ、心地よい眠気に座っているのが面倒になってきた。いつものように李遼の膝を枕にしようと思って名を呼ばうが、そこに居ないことを思い出す。
「遼のやつめ、いつまで弟にかまけているつもりだ。早う膝を貸せと言うに」
「王烈様、私の膝でよろしければお貸しましょうか?」
むすりと呟くと、潤玲が笑いながら己の膝を叩いた。俺の未来の花嫁は本当に愛らしくも優しい。
潤玲の申し出に俺は頷き、潤玲の膝に頭を預けるようにして長椅子に横たわる。
まだまだ妙齢の女のようなふくよかさは無く、薄く固めの膝ではあるが、李遼のような分厚い筋肉の硬さではない。何より、未来の花嫁の膝と思えば最高に愛おしい。
今夜はなんと良い夜かと潤玲を見上げると、その瞳に僅かに陰りがあることに気づいた。
俺は目を細める。潤玲はあまり自分の気持ちを吐露することに慣れておらず、憂いがあっても口に出さずに抱え込む。
まだ出会ってから半年余りだが、従姪の性質が控えめであることは重々承知していた。
俺は腕を伸ばして潤玲の髪に触れる。以前は短く痛んでいた髪は、今や艶やかでさらりと指通りのよい絹髪へと変貌している。義母が毎日せっせと手入れをしているらしい。
「潤玲、浮かぬ顔をしているぞ。悩みがあるのなら言ってみよ。翳ったお前の顔も悪くはないが、俺は花の如く笑顔を咲かせるお前のほうが愛おしい」
指通りの良い髪に指を絡ませながらそう言うと、潤玲は少し困ったように笑い、やや間を開けてから話し始めた。
「私は非常に恵まれています。李遼様をはじめ李家の方々には大変よくしていただき、奥方様は不義の子である私に気をかけてくださっています。
もちろん、王烈様にも過分なるお心遣いを賜っています。その上、思っていたよりもずっと早く、海にまで連れて行っていただける」
潤玲は年齢にそぐわぬ苦笑いを零した。
「この上で望むものはないほど恵まれている、恵まれすぎている。感謝しなければならないことなのですが、私はどうすればいいのか判断が付かないのです」
「なんの判断だ?」
「これからどう生きるべきか」
おおよそ八歳の少女が悩むようなものではない内容を告げられ、酔いの回った頭が一瞬停止した。何も返せずにいると潤玲は月を見上げた。
「李家に来る前は生きることに必死でしたが目標がありました。海に行くこと、働いて一人で暮らしていくこと、心の望むままに生きること。
今の私は働かなくても衣食住の全てを保証され、何不自由なく生活できています。そしてもうすぐ海に行く願いも叶う。
今の私はあまりにも恵まれすぎて『心の望む』ものが見えないのです」
贅沢すぎる悩みです。とため息を吐いた少女に俺は納得した。
人間は満たされれば満足する者と、欲に駆られて次から次へと求め続ける者に分けられる。潤玲は父親似で欲が無い性質であるため前者に属する。
しかし、ただ与えられるだけで満足するような性格ではない、というか今まで何も与えられることがなかったが故に、このままで良いのかと不安に思っているのだろう。
「潤玲、それは元々お前が持つ権利なのだ。不安になることは何もない。むしろお前はもっと欲深になったほうがいい」
父親に似て清廉なのは悪いことではない。欲にまみれた人間などよりも、人としてずっと好ましい。
しかし、清いだけでは実につまらない人間になってしまう。その匙加減が難しいものだが、と俺は笑って提案する。
「欲がないのであれば、将来の目標を持つといい」
「目標ですか?」
「例えば、元服を待たずに俺の花嫁になるというのはどうだ?とりあえず婚約だけでもしておいて…」
「それは無しの方向でお願いします。私は王烈様の妻になることは欠片も望んでいません」
「こやつめ、呵呵呵」
素気無く断られてしまい、笑いながらも心の中でしょんぼりと肩を下す。
俺の未来の花嫁はこの歳で貞操観念がしっかりしている。いずれ花嫁になるのだから、元服など待たなくてもよいではないか。
この国の元服は早くて十三歳。肉体的、精神的に幼く成人に満たないと判断されれば十五、六で元服を行う。潤玲が元服を迎えるまで、どんなに早くとも後五年はかかる。
不貞腐れてむうと顔を顰めていると、流石にハッキリと断りすぎたかと、潤玲が気遣いの目を向けてくる。
「申し訳ありません王烈様。ですが王慎様に『兄者はすぐに付け上がるから嫌なことは嫌と断言せよ』とご助言いただいていたので」
「さすが俺の弟、兄に対してこの辛辣な評価」
王慎は李兄弟に対しては非常に素直だが、何故か実兄である俺に対しては辛口である。
それも信頼している証、と思うことにしている……が、それにしたって付け上がるって酷くないか?
さらにしょんぼりとしていると潤玲はどうしたものか、と困ったように眉を下げて笑う。
何その顔めっちゃ愛い。早くお嫁においで。
「いえ、王烈様のお嫁には行きません」
「呵呵呵!案ずるな潤玲、俺が必ずやお前を幸せにしてみせる!」
「私はすでに幸福です。ご心配なく」
非常につれない――が、そんなところも意外と悪くないかもしれない。
潤玲はまだ幼く、俺の魅力がわからないだけだ。もう少し成長すれば、きっと俺の花嫁になりたいと自ら望むようになるだろう。
というか現時点で幸福ということは、俺の花嫁になる未来を知って幸福ということではないだろうか。本当に愛いやつよ。
そう思いながらケラケラと笑うと、潤玲がこちらを見つめていることに気づいた。
やはり潤玲は口では否と言っているが、俺の魅力に惹きつけられている……というわけではなかった。
「王烈様、先程目標を持つのが良いと仰られていましたが、王烈様は何か目標をお持ちですか?」
「ん…?俺か?」
「はい。将軍にまで登り詰めた王烈様ならば、何か目標があって人生を歩まれて来たのではないのですか?」
そう問われて俺は幼い頃の夢と、未だに胸にある焔を思い出す。
祭りの日夜。
父と母に欲しい物を問われてアレが欲しいと天に伸ばした、何も知らず清らかだった幼い頃の夢。
両親の仇が処刑された日の夜。
世の不条理と悪辣さを知り、己の力の無さに絶望し、血を吐くように李遼に語った野望。
思い出したそれに目を細め、子供にゆっくりと聞かせる。
「俺には目標、というか夢、というか……野望があってなぁ。世の理を変えることだ」
「世の理?」
潤玲の目が丸く見開かれる。唐突過ぎただろうか、と思わず笑う。
「この世は皇族だの貴族だの名家だの名門だの、そういった者たちが幅を利かせている。だが、それは先祖の力があってのものだ。己に才も実力も無いくせに、先祖が築き上げたものを盾に喚き散らす無能のなんと多いことか」
この国の身分制は無能を蔓延らせ、貧富の差を激しくさせた。
平民は学ぶことを奪われ、家畜の如く飼われている。そして無能なだけで権力を振りかざし欲に溺れる阿呆共は、平民から税を搾取し、のうのうと生き、贅の限りを尽くす。
宮中であっても現皇帝が即位するまで、汚職が蔓延していた。金で官位を買った凡愚だらけの腐った宮中など、何の役にも立たない。
まさに糞のような世だ。
「俺はな、そういった輩、妄執を悉く葬り去る。そして身分を問わず、誰もが己が才を活かし、輝かせることの出来る世にする。
それが俺の野望よ」
平民の中にも頭の良い者や、目を見張るほど武術に長けた者がいる。
だが平民だからとその才能を発揮する場を与えられず、育つことなく枯れ、散っていく。俺にはそれが耐え難い。
俺の護衛や配下の多くが平民、もしくは下級の家の出の者だ。
彼らは初めこそ学は無いが、学びさえすれば乾いた土地が雨を吸い、豊かな実りを与えるが如く成長していった。
つまり環境さえ整えれば、元々才のある人間は成長することができる。そこに身分に関わらず活躍できる場を設ければ有能な人材は埋もれることはない。
「多くの人が己の才を咲かせ、その力を伸ばし、存分に振るうことができる世。それによって人はさらなる高みへと昇る。やがて、月にも手が届くだろう」
俺は煌々と輝く月に両手を伸ばす。
今はまだ力が足りない。しかし届かぬと知りながらも、なおも挑み続けることが重要なのだ。
「つまり王烈様の望みは月自体ではなく、誰かが月に届くまで、誰かが届かせるという目標を持ち、その力を培うための土壌を作ることなのですね」
黙って俺の話を聞いていた潤玲が発した言葉に俺は息を飲んだ。俺の望み、夢、野望の形を聞いて、正しく理解出来たのは李遼だけだった。
荒唐無稽な話をまともに聞く大人は殆どいなかったし、まともに聞いたとしても彼らは理解できなかった。
両親の仇が処刑された夜、黙って俺の隣にいた李遼だけはそれを理解し、それを肯定した。
だから理解者は李遼だけでいいと、弟たちには触りだけしか語ったことはなかった。
久々に語った野望の形を、従兄と同じ黄金琥珀の瞳を持つ少女が正しく理解したことに、俺は泣きそうになった。
「そうだ、俺が生きている間には到底月には辿り着けぬ。それに届くだけの才を持ち得ておらん。
だが俺が敷いた世の理の先に、限界へと挑み、到達する者が必ず現れる。必ずだ」
俺は月に向けていた両手を少女の顔に向ける。まろやかな頬を包み込むと、そこには温かな血のぬくもりがあった。
俺を見つめる月にも似た黄金琥珀の瞳は、いつだって俺に勇気を分けてくれる。
「俺はやるぞ、遼、潤玲。権力にしがみつく塵芥共を排し、世の理を変える。
それに至るまで多くの困難や争いが起きようと、誰もが己が望む道を歩み、挑み続けることができる世を、俺は作ってみせる」
子供の戯言のような、人に聞かれれば世迷言と吐き捨てられるような夢を、酔いに任せて俺は語っていると、いつの間にやらとろりと眠気が忍び寄ってくる。
今眠れば、俺の花嫁の輝ける瞳がしばらく見れなくなってしまう。
必死に瞼を閉じることを拒んで瞬きを繰り返していると、潤玲の手が俺の瞼を覆った。傷だらけで包帯と薬に塗れていた手は、今や肉刺と剣蛸ができていた。
この娘はいずれ女傑になるだろう。そんな花嫁もまた、好い。
呵呵呵と笑って、俺は緩やかな眠りに落ちていった。
「ああ、そうか。父は、そんな貴方の志を支え、護ることを夢としたのか」
小さく呟かれた少女の言葉は、眠りについた俺の鼓膜を微かに揺らした。
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