8-3
8-3.王烈(叔従父)
煌々とした月光に照らされた四阿に、低い唸り声と笑い声が響く。
「もう、やめだ。これ以上は呑めん」
「呵呵呵!どうした李遼、鎮北将軍ともあろう者がこの程度で音を上げるとは!」
珍しく酒で赤くなった顔を片手で押さえた李遼の背中をバンバンと叩きながら、李遼の杯に酒を注いでやる。
建州への遠征を明日に控えている李遼としてはあまり痛飲するわけにもいかないだろうが、酒を注がれては吞まぬわけにもいかない。
グウと喉を鳴らしながらも李遼は諦めたように酒を咥内に流し込んだ。それを機嫌よく眺めながら俺も杯を呷る。
李家の邸は華美な装飾はなく主の気質と同じく質実剛健としているが、広い庭には四季の草花が植えられており、どの季節でも四阿から花を楽しむことができる。
これは李遼の趣味というわけではなく、家内を守る細君の慰めになるように庭師に命じて整えているのだが、恋愛に関して不器用な従兄はそれを伝えていない。そのため細君は夫のささやかな気遣いに未だ気づいていない。
何とも不器用な夫婦である。しかしそのおかげで李家の邸ではいつも花を愛でながら酒を楽しむことができる為、文句など一度も言ったことはない。
それに春に双子が産まれてからは夫婦仲が益々深まっているようなので、庭のことなど気づかずとも差して支障はないだろう。
今の時期は年中咲いている赤や桃色の月李花は勿論、小さな池には俺が趣味で品種改良した涼睡蓮が見事に咲き誇っている。
この睡蓮は昼間は慎ましく花を閉じ、夜になると青みを帯びた白い花弁を開く性質があるため、この時間になると非常に見ごたえがある。
今日は満月だから花見酒兼月見酒だ。実に風流である。無数の酒壺と酔いつぶれて床に転がった王慎と李翔さえ見なければ。
李翔は呑むよりも食べることを好んでいるが、姪が海へと旅立ち夢を叶える喜びを抑えきれず、今夜は大いに食べ呑み、大いに笑って泣いて、早々に床に倒れ込んだ。
王慎は仲の良い従弟に付き合っていつも以上の速さで杯を空け続けた結果、酒瓶を抱えて李翔の横で転がっている。
光石の行燈に照らされた弟たちの寝顔を眺めてふうむ、と笑う。普段の将軍然とした姿とは比べられぬほど気の抜けた、どこか幼い表情で眠っている。
子供の頃から大柄で、人好きする笑顔をよく浮かべる李翔は兎も角、凶悪顔である王慎もこの寝顔であればいくぶんか可愛らしく思える。
王慎は幼い頃は小柄で、俺に似て非常に美しい容貌であった。紅顔の美少年とまで謳われていたのに、何故このように育ってしまったのかと首を捻るばかりである。
あのまま育てば俺に劣らぬほどの美男子になっていた――少なくとも兵や民から恐れられることもなかっただろうに。
弟たちから目を逸らして庭の花々と月を愛で、隣で唸る従兄の杯を酒で満たす。
今宵こそは徹底的に潰してやろうとニヤニヤ笑っていると、やや剣吞な光を帯びた黄金琥珀の瞳が向けられた。
「烈、お前は何を企んでいる?この前までは潤玲と共に海に行くと言って聞く耳持たなかったお前が、何故こうも上機嫌でいる?」
一体、何をやらかすつもりだ、と鋭い視線を向けられるも俺はそれを知らぬ顔で受け流す。
「さて、何のことか見当もつかぬ。が、そうさな、お前や李家に対して全く迷惑は掛からんから、そこだけは安心しておけ」
「まったく安心できん……まあいい、何かあれば翔に相談するといい。翔は俺と違って細やかな気遣いができるやつだ。俺が居ない間は翔を頼れ、必要であれば李家も動かせる」
そう言って杯を空にすると長椅子から立ち上がり、床に転がっていた弟たちを両肩に担ぎ上げた。
体格の良い男二人を担ぎ上げてもその強靭な肉体は少しも揺れない。
「母屋で寝かせてくる。お前も明日は仕事だろう、いい加減なところでやめておけ」
そう言って灯篭の光で仄かに明るい小道へと足を向ける。
うまいこと言って逃げやがた。もう夏なのだからそのまま寝かせていても風邪など引かぬだろうに、相変わらず李遼は弟たちに甘いというか過保護というか。
暗闇に消えていく従兄の姿を見送った後、酒を呷りながら上機嫌で月を見上げる。
今夜の月は随分と明るい。
月光に照らされた涼睡蓮を眺め、詩でも吟じてみようかなどと思っていると、李遼が去った方向とは逆の方から微かな足音が聞こえた。
俺は反射的に傍らに置いていた剣を引き寄せる。李家の邸には幾人か警備の者が設置されてはいるが、曲者が入り込む可能性が全くないわけではない。
柄を握った時、俺は月明りに照らされた小さな影を認めてすぐに警戒を解いた。
「王烈様?このような時間に如何されましたか?」
「おお、潤玲!我が未来の花嫁ではないか!いやなに、少しばかり酒を呑んでいただけよ」
両手で手招きすると、従兄にそっくりな少女は四阿へと近づいてきた。
潤玲は道衣姿で、手には木刀と手拭いを持っている。
そこでふと、母屋の逆方向にある修練所の存在を思い出した。どうやらこの娘はこんな時間まで木刀を振っていたらしい。
生家で早朝から夜中まで働かされていた潤玲は、李家に来た頃は掃除などの仕事をさせて欲しいと強請って聞かなかった。
しかし李遼の細君がそれを許すはずがない。
「使用人の仕事を奪ってはなりません。時間が余るというのなら勉学と教養を身に着け、適度な運動をして健やかな体を作ることを己が役目となさい」
李家の者として恥ずかしくないよう、という言葉に頷いた潤玲は勉学に励み、李遼に護身術――というか武術全般を教わることになった。
早朝には修練場で汗を流していると聞いていたが、まさか夜まで鍛錬に励んでいるとは思っていなかった。
「明日は早くに出発するのだろう。鍛錬もよいが、早く寝た方がいいぞ」
「お気遣いありがとうございます。しかし明日を思うとなかなか寝付けず……身体を動かして疲れれば寝付きやすくなると思ったのですが、逆に目が冴えてしまいました」
少し照れたように小さくはにかむ潤玲に「ン゛ッ」と一瞬だけ胸を抑える。俺の未来の嫁は今日も可愛い。
出会ったころに比べると表情豊かになった従姪はこうして笑うと非常に愛らしい。普段は凛々しい故に、その差異が非常に俺のツボに突き刺さる。何故かそのツボは身内や護衛たちには全く理解されない。解せぬ。
潤玲を隣に座らせ、余っていた水菓子の皿を引き寄せた。皿の上には俺が手を付けずにいた蟠桃が乗っている。果汁の滴る蟠桃であれば、体を動かした後の喉の渇きも潤せるだろう。
芳醇な甘い香りを放つ白い果肉の上で指を一つ鳴らせば、一瞬だけ白い冷気が立ち上がる。
氷神の加護をうまく使えば、果物を瞬時に冷やすことが可能だ。温い水菓子など食えたものではないから俺はよくこうして冷やしてから食べる。
皿を渡してやると、少女は嬉しそうに蟠桃を一切れ叉子で刺して口に放り込む。途端にパアッと顔を輝かせて笑った。
「王烈様、冷たくておいしいです」
「ン゛ン゛っ!そうであろう?夏場は凍らせて砕いたものを匙で食べるのだ。果肉を絞った果実水を氷で割って飲むのもいい」
もきゅもきゅと瑞々しい果肉を頬張る姿を見ながら俺も酒をチビチビと呑む。
こんなに喜んでもらえるのは気温が高くなる時期だけだ。できれば共に海について行って、蜜を掛けた砕き氷など馳走してやりたかった。
しかし皇帝陛下に戴いた仕事をしなくてはいけない。その仕事の内容に思いを馳せながらも、俺は隣に座る少女を見下ろす。
初めて会ったときから比べると、潤玲はずいぶんと健康的になった。
病的なまでに痩せ細っていた体には十分な肉が付いて身長も随分と伸び、五歳程にしか見えなかった身体は、今では同い年の子供とそう変わらない。
身体中にあった傷はずいぶん前に塞がっており、今は若々しく瑞々しい張りのある肌をしている。短く刈っていた髪は今では肩に触れるほど伸びた。
元々凛々しい顔立ちは程よく引き締まり、黄金琥珀の瞳は日々輝きを増しいるようだ。
実に喜ばしいことだが、今の潤玲を見れば見るほど、俺の中の黒く禍々しい感情が溢れ出そうになる。
それももうすぐ解消できるのだが、その前に従姪に確認しておかなければいけない。
「潤玲、お前は李家に来る前にいたところをどう思う?」
「私の生家のことですか?」
突然の問いに潤玲は小さく首を傾げる。そして少し考えてから口を開いた。
「良い環境でないことは確かです。こちらでお世話になるまで気づきませんでしたが、普通は使用人に暴力など振るわない。あの邸では使用人に暴力を振るうことが普通でした」
その言葉に俺は心の中で頷く。
部下に調査させたところ潤玲の生家――袁家では日常的に使用人や部下など目下の者に対しての暴力が横行している。それも「雨が降ったから」「食事が気に入らないから」「何となく気分が悪いから」という子供の八つ当たりのような理由でだ。
義理の娘だった潤玲に対しては特に辛く当たりつけていたことは、袁家で虐げられていた者たちから聞き取った調査書にも挙がっている。
毎日のように苛烈な暴力を振るい、罵声を浴びせ、食事も衣服も与えず、朽ち果てた小屋で寝るように強要した。日が昇る前から日が落ちた後まで働かせ続け、もちろん賃金など与えたこともない。
聞き取りに応じた者たちは皆口を揃えて「何故生きているのかと思うほど酷い状態だった」と言っている。
「私は自分の置かれていた境遇を嘆いたことはありませんでした。それが普通でしたし、奥様……母や母の侍女、使用人たちが私に心を砕こうとされていたことは知っていました。それに」
言葉を止めて、少し眉を顰める潤玲に首を傾げる。
「それに、何だ?」
「反抗心というか、反骨心というか…少し違うようで何と言えばいいのか……この程度で折れはしないと思っていた、確信していた…?申し訳ありません、自分でもよくわからないのです」
うーんと考え込んでしまう少女に、報告書にあった情報を思い出す。「どんな暴力を受けても、必ず自分の足で立ち上がり、時には睨みつけていた」という一文を。
どうにも、我が未来の花嫁は負けん気が強いらしい。その顰めた頬を撫でて俺は笑う。
「わからぬならばそう考えこむ必要はない。心というものは時に、自分でも理解できぬものだ」
「王烈様もですか?」
「たまにな。理解したい場合は違った視点から見てみたり、誰かに相談している。ほとんどは気にならない程度だから放っている。そのうち忘れるからな」
なるほど、と納得した潤玲はまた蟠桃を口に運び始めた。どうやら忘れることにしたらしい。
「潤玲、生家に対してだが他には何か思わぬのか?例えば、お前を冷遇した袁家の当主に対しての恨みなどは?」
「私個人としては特にありません。袁家から見れば私は血の繋がらぬ不義の子であり、冷遇されても仕方のないことでしょう」
「日常的に暴力を受けた者の言葉とは思えぬな。まるで他人事のようだ」
そう言えば潤玲は困ったように眉を下げながら桃を食べる。
「私にしてみれば過ぎたことです。今更どうとも思わないというか、正直興味がありません」
興味がない、という言葉に握りしめた杯が軋む。
数多の暴力を受けながらも顔に傷がなかったのは、苛烈な暴力行為を母親である趙春蓮に気づかせたくなかったからだ。一時は、気に食わぬ目だからと琥珀の瞳を抉られかけたこともあったと聞いている。
それすらも過ぎたことと言えるこの娘に、酷い苛立ちを覚えた。
なるほど、大切な者が自分自身を粗末にする行為は非常に腹立たしく、悲しいことだ。幼いころ、己の髪や生まれのことを嘆いた俺に李遼が向けた怒りはこれと同じものだったのだろう。
だが俺はその怒りを潤玲に伝えることはない。俺が矛を向けるべきは従姪を害し続けた者たちだ。
「母に仕えていた方々もその殆どが袁家から離れたと聞いております。
ただ周夫人、母の侍女はまだ赤ん坊の妹を案じて邸に残っているそうなので、それが気がかりです」
少し声を落とした潤玲が小さく嘆息した。
「周夫人は私を李家に送るために苦心してくださいました。妹も生まれてすぐ母親を喪った赤子で、母に似てあまり体は強くないとも聞いています。
袁家などよりも、二人が健やかに過ごしているのかが気になります」
「なるほど……お前の考えていることはよくわかった。
何、心配せずともよい。愚かな袁家当主と言えど、亡き妻の侍女と娘を冷遇などせんだろう」
潤玲を慰めながら、心の中でニタリと笑う。
母に仕え続け、また自らのことも案じ続けていた侍女、そして母親の忘れ形見で種違いの妹。
この二人さえ無事ならば、あとはどうなっても興味がないということだろう。
愚かな者共の暴力など、この娘は膝を屈するに値しない、気をかけるに値しないものだったのだ。
俺は怒りを綺麗に拭い去り、上機嫌で杯を呑み干した。




