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6-3

6-3.徐桂華(義母)


 部屋の中に沈黙が落ちた。

 しかし、それは決して冷たいものではなく、むしろ火照るように熱い。


 そう、熱い。顔がひたすらに熱い。

 胸がどきどきと鳴り続けている。目頭に熱い雫が溜まりそうになる。想いを寄せる殿方に真っすぐに愛を向けられることが、こんなにも幸福なこととは知らなかった。


「今更だがほとんど言葉にしたことはなかったな」


 すまん、と眉を下ろして謝罪する李遼様の姿にキュンっと胸が鳴る。まさかこの歳になって思春期の小娘の如く胸をときめかせることがあるとは。

 両頬に手を当てるととんでもなく熱い。私の顔も同じように赤くなっているのだろう。本当に熱でも出ているのかもしれない。

 あれ程自分には魅力が無いと嘆き、鬱々としていた感情はこの熱に吹き飛ばされてしまった。

 ついに目から涙が溢れ出す。喜びで涙を流すなど、生まれて初めてだった。


「泣くな桂華。お前に泣かれると、俺はどうすればいいかわからん」


 いつの間にか、李遼様の精悍で整ったお顔が至近距離にあった。名を呼ばれ、頬に当てていた両手に夫の大きな掌が重なる。武骨な手の温かさにまたぽろりと涙が落ちる。


「李遼様は、私などが妻で、よろしいのですか…?」

「無論だ。何度でも言おう。お前は俺の隣に立つに値する女だ。そして俺にはお前が必要だ。

俺は不義者だが、どうか、この心を預けさせてほしい」


 黄金琥珀の瞳が真っすぐと愛を囁く。

 私はこの方の心を預けて貰えるような人間ではない。そう思うが、それでも、私は愛されていたのだと更に涙が溢れた。

 ぼやけた視界に黄金は柔らかく輝く。それがゆっくりと近づき、私は瞼を下ろそうとした――瞬間、


「ははうえ!けんがおしょくじをおもちしました!!」

「「………!?」」


 勢いよく開いた扉と共に長男の李健が入ってきた。私と李遼様はバッと音がつくような速さで身を離した。

 どうやら部屋の外で待機していた侍女が息子に知らせてくれていたらしい。心配をかけていたであろうが、今は子供に見られかけた羞恥心で顔が熱い。

 涙を袖で拭い、赤い顔を子供に見られぬよう掌で覆って我が子に注意する。


「健、部屋に入るときは必ず声をかけるようにといつも言っているでしょうッ」

「申し訳ございません奥方様!ご嫡子をお止めできなかったことをお許しください」


 叱る声を聴いて慌てて入ってきたのは潤玲だった。李健は振り向いて「あねうえ」と嬉しそうに声を上げる。

 李健は姉を紹介されたその日のうちに彼女にすっかり懐いてしまった。五歳になったばかりの長男は腹違いということがよく理解できておらず、父親似の彼女にいつもべったりとくっついている。

 ここには居ないが二歳の次男も同じように、やってきたばかりの姉によく引っ付いている。


 潤玲に続き家令の呂雁が盆を持って部屋へ入ってくる。李遼様が寝台で使用する用の卓を用意し、呂雁から受け取った盆を乗せる。

 盆の上にはほこほこと湯気を上げる粥の入った大き目の碗と副菜の皿。私が好きな海鮮の香りが湯気と一緒に鼻腔をくすぐる。匂いにつられて空腹を感じ、今日はまだ朝食を食べていなかったことを思い出した。

 李健がニコニコと笑い、ははうえと呼ぶ。


「けんがあねうえと、いっしょにつくったのです!」

「貴方たちが?」

「李健様が奥方様は朝食を摂られていないと心配されて、何か作って差し上げたいと仰られたので」


 少女は腹違いの弟に穏やかな琥珀の眼差しを向けている。

 私も驚いて息子に視線を向ける。顔だちは父親に似たところは一つもなく、目の色は私と同じ只々黒いだけの子供。けれどもこの歳で母親を気遣えるほどの優しい心を持って生まれてきてくれたのだ。

 ジン、とまた目が熱くなった。今日はどうにも涙腺が弱くて困る。

 相変わらずニコニコと笑いながら李健は父親の服を握った。


「ちちうえもです!」

「旦那様も…?」

「ああ、健がお前にどうしても粥を作ってやりたいと言うのでな。潤玲は厨に入ったことが無いというから煮込む前まで一緒にいた」

「へへへ」


 李遼様が唇の端を釣り上げて笑い、息子の頭をぐりぐりと撫でれば李健は嬉しそうに声を上げる。


「そういえば遠征で野戦料理を作ることもあると言われていましたね」

「遠征もだが…王烈たちと狩りに行けばその場で俺が調理を任されるからな。一通り調理はできるが味は保証せんぞ」


 後ろ頭をガリガリと書く李遼様に、潤玲が首を横に振る。


「問題ありません。作り方は李遼様にご教授いただき、火を扱う際は料理人の方々も付いて下さっていたので」

「そうだよ。あじみ?どくみ?もね、けんとあねうえでしたからだいじょうぶだよ!ちゃんとおいしかった!」

「坊ちゃま、大鍋の半分を食べることは味見とは言いませぬよ」

「ちうがうよ、みんながしょーしょくなんだよ」


 李健と呂雁の会話を聞きながら匙で粥を口に運んだ。柔らかく煮込まれた米は甘く、ほんのりとした塩味と海鮮の出汁の味がする。


「美味しい……」

「奥方様は海鮮を好むからと李遼様が貝の干物で出汁を取ってくださったのです」


 そう言って少女が父親を見上げ、私も李遼様に視線を移すと彼はまた後ろ頭を掻く。

 好みの味を覚えていてくれたとは知らなかった。李遼様に礼を言えば「まあ、夫婦だからな」とぶっきらぼうに返される。

 自分の夫は意外と照れ屋なのだなと思いながらしばらく粥掬っていると、ふと少女の腕に巻かれた包帯に気づいた。この家に来たときに負っていた怪我はほとんど治っていたはずなのにおかしいと眉を顰める。


「潤玲、怪我をしたのですか?」

「いえ、これは……」

「あねうえはねぇ、ははうえのしたにはいってくれたんだよ」


 言い淀んだ姉の代わりに李健が元気よく答える。「李健様、それは言わない約束で」と腹違いの弟の言葉を止めようとするも、幼子はにこにこと笑う。


「ははうえとおとうと?いもうと?が、けがしないように、すべりこんだんだって」


 すごくはやかったってききました!けんもみたかったです!と興奮気味に言う李健に潤玲は額を抑え、李遼様は苦笑している。

 それを聞いて思い出した。気を失ったとき、誰かに呼ばれたこと。床にぶつかる硬い衝撃ではなく、温かく柔らかい物に当たる感触。

 前のめりに倒れた私を庇って目の前の少女が下敷きになってくれたのだ。

 血の気が引いた私は慌てて潤玲の手をとり、傷の具合を確認する。


「痛みは!?傷跡など残らないのですか!?」

「は、はい、少し捻っただけですので傷は残りません。手当をしていただいたので痛みもほとんどありません」


 その言葉を聞いて胸を撫で下ろす。

 まだ七歳の嫁入り前の少女だ。継母を庇って一生身体に残る傷など出来ていたなどとなれば、私は自分を許せなかっただろう。

 義理の娘に対して言いようのない感情が胸を刺す。この子供も義母やその腹の子までを庇い、怪我をするような優しい心を持っている。

 しかし湧き上がる感謝の念と共に、自分の体を気遣わぬ少女に対して怒りがわいた。


「潤玲。私と腹の子を庇ってくれたこと、心から感謝しています」

「勿体ないお言葉です」

「ですが淑女として、いえ、人として貴女は色々と学ぶことがあるようですね」

「は、はい……?」

「朝の掃除よりも大切なことを――李家の者として学ぶべきことを明日より学んでいただきます。別に貴女のためではありませんよ。これは李家として、旦那様のお子として当然のことなのですから」


 よろしいですね?と確認すると、少女は黄金琥珀の目を丸くした。

 その隣で息子が首をひねり、李遼様は苦笑を漏らしていた。



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