6-2
6-2.徐桂華(義母)
見慣れた天井が目に入った。背中には布の感触。
何故か自室の寝台の上にいる。
「桂華、気がついたか」
低い声がした方を見ると李遼様の姿があった。
寝台の側に置いた椅子に腰掛けておられ、どこかほっとした様子で私を見ている。
「りりょう、さま?」
「突然倒れたと聞いて血の気が引いたぞ。腹の子には影響ない」
貧血だそうだと言った彼の手が私の頬に触れる。剣鮹のある硬く分厚い手のひらは温かい。
ぼう、と夫を眺めながら言われたことを頭の中で反復する。
倒れた?貧血?誰が?
その時、邸の入口であの子供を見た後から記憶がないことに気づいた。慌てて起き上がろうとすると李遼様に肩を押さえられた。
「急に起き上がるな。まだ横になっていろ」
「今は何時ですか!?」
「昼を過ぎた頃だ」
昼を過ぎた頃、と聞いて呆然とする。そんな時間まで布団の中でぬくぬくと寝ていたなど、李家の妻としてあってはならないことだ。
そしてそんな時間に国の高官である夫が邸いるなどありえない。
「……旦那様、お仕事は?」
「休暇を取った。繁忙期でもない、気にするな」
恐る恐る尋ねた問いに、李遼様は何でもないように答えた。
そこでようやく状況を飲み込む。どうやら私が倒れたと知らせを受け、李遼様は出仕したというのに邸へ引き返したらしい。
腹の子に影響ないという事実に安堵しながらも、自分の不甲斐無さに頭を抱えたくなるのを我慢して、横たわったまま謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ありません…体調管理を怠り、お手を煩わせました」
「謝るのは俺の方だ。身重だというのに家のことはお前に任せっぱなしにして負担を強いてしまった」
すまない、と頭を下げる夫の姿に首を振る。確かに家内のことは任せられているがそれは妻として当然の務め。
むしろ夫は何か問題はないか、抱え込んでいないかとよく訊ねてくれ、負担になりそうなことは共に考えて必要があれば李遼様自ら動いてくれる。むしろ腹の子のことを考えずに体調管理を怠ったことを責められても仕方ないくらいだ。
それを伝えれば李遼様の顔に翳りが浮かんだ。
「では、やはり潤玲のことか」
「い、いいえ!そうではありません!」
李遼様の指摘に急いで半身を起して否定する。
「おい、急に起き上がるなと…」
「お言葉ですが旦那様!例え我が子でなくとも、旦那様の子、李家の血を引く大切な子です!決して疎んじるなどありえません!」
「急に義理の娘が現れて戸惑うのは当然だ。今回のことは俺の不義が招いたこと。案ずるな、お前にも潤玲にも悪いようにはせん」
私の言葉に李遼様は眉を顰めて苦笑した。その眼には婚姻前に見せた憂いの色。
カッと顔に血が上った。この方は妻を重んじて我が子を、否、己の想いを切り捨てようとしているのだ。
そのような顔をさせるために私は李遼様の手を取ったのではない。
肩を押さえようとする李遼様の手を両手で握りしめ、私はその琥珀の瞳を正面から見返して捲し立てる。
「まさか余所に出すおつもりですか?確かに今はまだ本人に李家の子としての自覚が足りないかもしれませんが、あの子は貴方様と同じ高潔さと聡明さを持っています!それをどうして放り出せましょう!?」
「お、おう…」
「そもそも旦那様の愛した女人の子!それを受け容れられずして李家の妻は務まりません!この件に関して私に気遣いなど無用!」
「だがな桂華」
「だがもしかしもありません!断じてあの子を養子に出そうなどと、ましてや追い出そうなどとお考えになられぬよう!」
「うむ……」
「よろしいですか!?よろしいですね!!」
「わかったわかった、十分だ。お前の考えは理解した。だからそう気を立てるな。また倒れるぞ」
荒い息で言い切った私の身を案じ、背中を支えるように腕を回した李遼様は降参だ、と言ってまた苦笑を浮かべた。しかしその眼には先ほどの憂いはない。
ほっと安堵の息を吐いた後、先ほど自分が捲し立てた言葉を思い出して背筋が凍る。あのような偉そうな物言い、貞淑な妻が吐くようなものではない。
内心冷や汗をかいていると背中に回った逞しい腕に引き寄せられ、私の体はすっぽりと李遼様の胸と腕に納まってしまった。
それに驚いていると、くつくつと愉快そうな笑い声が聞こえた。
「だ、旦那様?」
「いや、俺は良き女房を持ったものだと思ってな」
俺相手にあのような啖呵を切れる女はそうおらん、と言われて私は羞恥に顔を伏せた。帝に仕える将軍相手に真正面から捲し立てられる女人など殆どいないだろう。
「も、申し訳ありません、あのような物言いを…」
「何を言う。俺や潤玲を想うお前の心が知れて良かった。お前の心の広さ、懐の深さに感謝している」
蚊が鳴くよう声で謝罪すれば、朗らかな低い声が返された。
私は泣きたくなった。私の心は広くなどないし、懐も深くなどない。どちらかと言えば狭量な人間だが見栄ばかり張るから周りが勘違いしているだけだ。
そして、それを訂正しない卑怯な女。清廉潔白と言われる李遼様の妻に本来ならば相応しくない。
「旦那様」
「ん?」
「何故、私を妻に選んでくださったのですか?」
李遼様に抱えられたまま、私は常々思っていることを口にした。
「急にどうした?」
「私は自分が貴方様の妻として相応しい人間とは、とても思えないのです」
私の言葉に李遼様は少し体を離した。見上げると訝しげに片眉を上げて顔を顰める。
「何を言っている。お前ほど俺の妻に相応しい者はいないだろう?お前は俺の理想の妻だ」
莫迦を言うな、と少し怒るように鼻を鳴らした李遼様の言葉に私は驚いて夫の顔を直視した。
「旦那様の理想、ですか?」
「ああ、年上で誠実、勤勉、特に管理能力に長ける。俺一人では五千人にも及ぶ一族へ細やかな管理なんぞできようはずもない。お前は俺の隣に並ぶのに何の遜色もない女だ」
誠実、勤勉、管理能力の高さはわかる。しかし年上という点が引っ掛かった。
私は李遼様より一つだけ年が上だ。しかし自分より年上の妻など欠点にしかならないのではないだろうか。男性は皆若い女人の方が好きと聞いたことがある。
それを言うと李遼様は後ろ頭を掻いた。
「李家の長子として産まれたせいか、どうにも俺は年下の身内に対して甘く、過保護になる性分らしくてな。だが夫婦となるからには甘やかすだけではなく、時には妻に頼ることも必要になるだろう」
つまり年上の頼れる女人を妻にするのが理想なのだという。
「俺は護り支えることには馴れているが、俺自身が支えられることには不馴れだ。だが少しでも年上の女房であれば、支えられることにも馴れるだろうと思った。実際、お前は妻として俺をよく支えてくれている」
以前からの疑問がゆっくりと解かれていく。
なるほどと納得した途端、表情の変わらぬ吊り目の女、と蔑む声が耳の奥で鳴った。李遼様の恋人はたいそう美しかったと聞いている。私は奥歯を噛み締め、首を横に振る。
「私は美しくありません」
「俺は外見の醜美を判断する目は持っておらん。正直に言うと王烈が見目麗しいと言って侍らせる女達は皆あまり変わらんように見える。というか見分けがつかん」
「…それは如何なものかと」
「仕方あるまい、興味のないものを見分けるだけの能力がないのだ。勿論、必要であれば見分けもするが」
その言葉通り、李遼様は王烈様の妻になった方々はきちんと個別に認識はしている。
それはそれでどうなのだろうかと思っていると李遼様はしかし、と続けた。
「しかし俺はお前を好ましく思う。良き妻、良き母であろうと努力を重ねるお前を、俺は尊敬している」
真正面からそう言った李遼様の瞳は柔らかく笑っている。
春の陽だまりを思わせるのような穏やかさに私は目を伏せた。過日、その穏やかな目を向けられていたであろう女人の存在は忘れることなどできない。
「昔、愛した女性を、今も想っておられるでしょう?」
「そうだな…忘れようにも忘れられるものではない」
胸に鋭い棘が刺さったような痛みが走る。この方が今も愛しているのは、その女人ただ一人だけなのだろうと思うと視界が歪む。
「だがな桂華。俺はお前と彼女を比べることも、重ねることもせん。そもそも人への想いなど比べるものではない」
傷つくだけと知りながら問いかけた己の言葉を後悔していると大きく硬い掌が私の髪を撫ぜ、低く心地よい声が耳に届き私は目を見開いた。
「お前は息子二人を平等に愛し、慈しんでいるだろう。だが息子たち各々への想いは違うはずだ。確かに彼女のことは今でも心にある。これからもあり続けるだろう。
だが、だからと言ってお前への想いが消えるわけではない」
思わず顔を上げる。穏やかな琥珀の瞳に私が映っていることに、唇が震えた。
「私への、想い?」
「見合いのあと何度か茶会を設けたが、お前はずっと同じ髪飾りを着けていただろう。女は普通、茶会には毎回違った装いをするものだと聞いた」
その髪飾りは亡き母から貰ったものだ。
許婚者が決まる前、まだ装飾品の価値もわからぬほど幼い私に「いつか想いを寄せる方ができたら髪に挿してね」と病床の母が贈ってくれた銀色の髪飾り。水神の加護が宿された青い玉のついたそれを私はお守りのように持ち続け、李遼様とお会いするときは必ずつけていた。
「あれは義母上からの贈り物だろう?それを見て徐桂華という為人がよく分かった。贈り手の想いと共に贈り物を大切に、相手を思いやることができる人間。そんなお前を俺は好ましく思ったし、お前ならば俺の生涯の伴侶として情を傾けられると思った」
胸に刺さった棘が抜けていく。傷ついた個所を柔らかい声が覆い、傷口を塞ぐ。
「いいか?俺は徐桂華という妻を持てたことを幸運に思っている。お前は俺の隣で共に歩むのに相応しい女だ。そして俺を支え慮るお前を、その……だな……」
堂々と話していた李遼様が急に口ごもる。その頬が少し赤くなっており、視線が左にずれた。
李遼様の様子に私は胸を押さえた。先ほどの棘とは違う、こみ上げるような苦しさに息が詰まらせながら李遼様の言葉を待つ。
やがて、黄金琥珀の視線が正面から向けられた。
「俺は……お前を愛おしく思っている」
顔を赤く染めたまま、はにかむ様に紡がれた言葉に、私の心臓は一瞬だけ時を止めた。
書いてて一瞬ジャンルを恋愛に変更しようか悩みました。




