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5-5.王烈(叔従父)
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糸のように細い月が空に浮かぶ寒い夜。薄暗い野営場を人影がよぎる。
薄く白粉を叩いた肌と美しい曲線を描いた柳眉、鮮やかな紅を指した唇。艶やかな長い髪を頭の高いところで結い上げ、黒地に蝋梅の描かれた着物を纏っている。絹で織られた襟巻は麗人が歩くたびに風にふわりと舞い上がる。
しなやかで気品のある所作は身分の高い女性のそれ。
野営場にはまったく似つかわしくない麗人はしなりしなりと歩みを進め、やがてまだ灯りの点いている天幕の前にやってきた。
「団長、入るわよ」
女性にしてはあまりにも低すぎる声――明らかに男性の声を投げかけ、麗人が天幕の中へと足を進めた。
温かい天幕の中には団長である黄潤と安慈の他に、隠密部隊に所属する傭兵団最年少の桃花の姿があった。
大白熊の妖魔の毛皮をなめした敷物の上に黄潤は座って書簡片手に蜜柑を頬張っている。側には蜜柑が入っている大きめの籠と蜜柑の皮が大量に入っている籠。
安慈と桃花は黄潤の傍らで寄り添うように寝転がり、寝息を立てている。
黄潤は天幕に入ってきた麗人を認めると、小さく手を上げて挨拶する。
「高遥香、何かあったか?」
「いえ、少し様子を見に来ただけよ」
高遥香と呼ばれた麗人は眠っている二人を起こさぬようそろりと近づき、黄潤の傍に腰を下ろした。ふかふかとした毛皮の敷物は温かい。
「様子を見に来ただけと言う割に、しっかりと酒を持ってきているようだが?」
「ええ、様子見がてら一緒にお酒を呑もうかと思って」
酒瓶を掲げ、いけなかったかしら?と低い声で笑う高遥香に黄潤は首を横に振った。
高遥香は第三部隊の部隊長を務めている。第三部隊は主に補給や糧食を受け持ち、資材や兵糧、金銭の管理といったことも行っている。
その長たる高遥香が呑んでいいと持ってきた酒を断る理由はない。
黄潤が食べている蜜柑も高遥香が夕餉の後に渡したものである。
ここ最近、兵糧の減りを気にして食事量を減らしている黄潤を心配してのことだったが、すでに半分以上減っているところをみると、やはり夕餉だけでは足りていなかったのだと高遥香は胸の中だけで嘆息した。
高遥香はあらかじめ用意しておいた杯に酒を並々と注ぎ、黄潤と小さく乾杯した。
寒い地域では温めた酒が支流だが、温かい地域で産まれ育った高遥香はどのような場所でも冷やした酒を好んで呑んでいる。
黄潤も特にこだわりがないようで、高遥香に出された酒を旨そうに呑む。酒の肴は蜜柑と安慈と桃花の寝顔だ。
傭兵団最年少の桃花は遥か東の島国で育てられた元暗殺者だ。
暗殺の道具として育てられた少女は異国に買い取られ、傭兵団の二団長のどちらかを殺すように命じられたが暗殺に失敗し、破棄されかけた所を黄潤と安慈に助けられた。
二人は帰る場所のない少女に桃花という名前を与え、安慈が統括している隠密部隊の一員として迎え入れた。
今では諜報員として活躍しているが、世話焼きな二団長に可愛がられ、暗殺の道具ではなく人間として成長している真っ最中だ。
高遥香と他愛ない話をしながら相棒と幼子を見守る黄潤の顔は穏やかだ。時折ずり落ちる掛毛布を二人の肩にかけ直している。
高遥香も幼い桃花の顔を眺めた後、安慈の寝顔に視線を移し、ほうとため息を吐いて白い頬に朱を登らせた。
「安慈団長もイイ男よねェ。まあ、私は劉覇派だけど」
「確かに、劉覇の肩から上腕に掛けての筋肉には惚れ惚れする。だが安慈の背筋もなかなかに見ごたえがあるぞ」
「え、ほんと?」
「ああ、今度見てみるといい」
黄潤の許可を得た高遥香の目が肉食獣の如くギラギラと輝いた。
その不穏な空気を感じたのか安慈の額に汗が滲ぶが、目を覚ますことはなかった。
「黄潤団長もとても好みなんだけど……女性だから範囲外になっちゃうのよね」
頬に手をやり、高遥香は実に残念そうに柳眉を下げた。
「流石にそこは変えようがないな」
「そうね。変えられるものではないわね」
そう言って高遥香は襟巻に隠れた喉を摩った。そこには男性特有の硬く飛び出た喉仏がある。
女性の恰好をしているが高遥香の肉体はれっきとした男のものだ。黄潤ほどではないが身長も高く、話せばすぐに男と分かるほどに声は低い。
しかし心は女性だったため、一致しない心と体に翻弄される人生を歩んできた。
周りの人間は勿論、家族にも理解されず、特に領主だった父親からの抑圧は凄まじかった。
本名である高厳と呼ばれていた頃から管理能力に長け、跡継ぎとして有能であったが故に父親から虐待と言っていい程の圧力を掛けられて育った。
どんなに説明しても、どんなに訴えかけても耳を貸してもらえず、男としての振る舞いを強要され、遂には無理やり女性と婚姻を結ばされた。
悲嘆にくれた高厳だったが、そこで転機が訪れる。無理やり妻にされた女性が理解を示してくれたのだ。
自室で隠れて歪な化粧をしているところを妻に見られ、慌てて言い訳を考えていると「その紅は高厳様のお顔に似合いません!」と言って自分が使用している紅や化粧道具を持ってきた。
彼女は高厳に綺麗に化粧を施し、高厳の体格に合う女性物の服も用意してくれた。
妻は高厳が『性同一性障害』であると言い、それを恥じる必要はないとも言った。
心と体の性が一致しないような男に嫁いだというのに、彼女は嫌な顔一つせず高厳と共に暮らし、人前では妻として、二人きりの時は気心知れた友として接してくれた。
妻が隣にいる日々はとても穏やかで、高厳はそれまでの人生で初めて安らげる日々を得た。
そして間もなく、彼の国によって故郷を焼かれ、心の拠り所だった妻を喪った。
高厳は全てを喪ったところを黄潤と安慈に拾われ、高遥香―――妻が二人きりの時だけ呼んでくれていた名を名乗り、女性として生きることを選択した。
周囲に受け入れられずとも、いつか妻のように理解してくれる人に出会えるはずだと信じて。
高遥香はチラリと黄潤を見る。この団長は歪な精神を持った高遥香を受け入れてくれた人間の一人だ。
「完全に理解することは難しいだろう。だが、理解しようと努力はできるはずだ」
俺はその努力をしたいと思う。
日の光を受けて黄金色に輝く琥珀の瞳でそう言った黄潤に高遥香は惚れそうになったが、この団長は女性だった。
男性的な端正な容貌を持ち、体格も義兄弟である安慈とそう変わらない。武勇に関しては傭兵団でも一、二を争うほどの実力を持つ高潔の士。これで男性であれば確実に恋に落ちていただろう。
しかし残念なことに黄潤は女性で、高遥香は男としての操は妻に捧げていた。
蜜柑を肴に旨そうに酒を呑む黄潤の姿を見ながら勿体ない、と高遥香は心の中でため息を吐く。
そして化粧っ気の全くない横顔を眺め、ふと疑問が頭に浮かんだ。
この団長は姿形もだが考え方や仕草、振る舞いも男性的だ。今も敷物の上で堂々と胡坐をかいており、女性らしさなど欠片もない。
さらに言うと黄潤はよく安慈と一緒に真っ裸で水浴びしたり、蒸し風呂に入ったりしている。いくら義兄弟とは言え、そう簡単に異性に裸を見せるものだろうか。挙句、男性陣の猥談にも加わることさえある。
もしかして、黄潤も『性同一性障害』というものなのではないだろうか。
「ねえ、黄潤団長」
「む、ほうひは?」
「黄潤団長は『男になりたい』とか『自分が男だったら』とか思ったことはない?」
もきゅもきゅと蜜柑を頬張っていた黄潤は首を傾げた後、ゴクリと喉を鳴らして嚥下し、即答した。
「ないな」
「…ないの?」
「ああ、ない」
「そう……」
黄潤の答えに少し肩を落とした高遥香だったが、続けられた団長の言葉に目を見開いた。
「見てくれはこんなだが一応自分の性別は理解している。たまに不便と思うこともあるが、それを嫌だと思ったことはない。そもそも男だったらここにいない」
産まれてすぐに殺されていただろうからな、という黄潤の言葉に息を飲み込む。
生家では碌な扱いを受けていなかったとは聞いたことがあったが、まさかそこまでだとは思っていなかった。
黄潤は蜜柑を剥きながら続ける。
「もし殺されなくとも、ここにいたかわからん。父方の家でも確実に跡継ぎ問題になる。俺は弟たちよりも父に似ているらしいから遠い縁者に養子に出されていた可能性が高い。そうなれば俺はここにいなかったな」
蜜柑を半分に割って口に放り込んだ黄潤を見ながら、高遥香は背筋が冷たくなるのを感じた。
黄潤と安慈の二人がいたからこそ、この傭兵団があるのだ。どちらかが欠けていたいた場合、傭兵団は結成されず、高遥香を含めた団員たちは救いを得られずに失意を抱えたまま生きた屍になっていただろう。
「むぁふぁら……だから俺は女の性で産んでくれた母に感謝している」
俺が女でよかっただろう、とにやりと笑い、もう半分の蜜柑を口に放り込む黄潤に暫し見惚れる。
そして高遥香も杯を置き、蜜柑を手に取り皮を剥く。爽やかなで甘酸っぱい柑橘の薫りに、自然と笑みが溢れた。
「ええ、そうね。貴女のお母様に感謝するわ」
でも蜜柑は一房ずつ食べましょう?
そう言って剥いた蜜柑の一房を黄潤の口元に運ぶ。一瞬、キョトンと黄金琥珀の目を丸くした黄潤は、すぐに口をパカリと開いて蜜柑を受け取った。
「む、ん…蜜柑は旨いな。いくら食っても飽きがこない」
「黄潤団長、それ、拉麺食べた時も、麻婆豆腐食べた時も、干し芋食べた時も、劉覇の月餅食べた時も言ってたわよ」
クスクスと笑いながら高遥香が指摘すると黄潤は首を傾げる。
「そうだったか?」
「ええ。いつも、何だって美味しそうに食べてるわ。そもそも団長は嫌いなものってあるの?」
何でもかんでも食べてしまう黄潤に嫌いなものなどあるとは思えなかったが、糧食を受け持つ部隊を率いている高遥香は参考として訊ねた。
黄潤はうーんと唸った後、蜜柑の皮の入った籠をチラリと見た。
「そうさな、食えないものは好きじゃない。蜜柑の皮とか」
「あら団長。蜜柑の皮はお酒に漬けたり、油で揚げれば食べられるのよ?」
「ほぉ、それはいいな。是非食わせてくれ!」
少年のように黄金琥珀の瞳を輝かせた黄潤は、蜜柑の皮が大量に入った籠を高遥香に差し出す。
高遥香は呆気に取られたが、途中から目を覚ましてタヌキ寝入りしていた安慈はブハッと吹き出した。
また少し間が開きます。




