5-3
5-3.王烈(叔従父)
誰となく呟いた言葉はどうやら子供の耳に入ってしまったようで、ひどく困惑した顔をしている。
気にするな、と言う前に子供がやや戸惑うように名前を呼んだ。
「王烈様、その、初めてお会いした身ですが、差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか?」
困ったように眉を下げる潤玲の表情が彼女の父親と重なり、気づけばうなずいていた。
潤玲は子供の戯言と聞き流していただいても構いませんし、お気を悪くされれば罰も受けましょう、と前置きしてから少し俯き気味になっていた顔を上げ、口を開いた。
「私は、まだお会いしたばかりの王烈様のお心を知っているわけではございません。しかし、ご自身を貶めるようなことは、お思いにならないでいただきたいのです」
子供の言葉にピクリと片眉を上げる。
戯言と聞き流すには、潤玲の声はあまりにもしっかりと耳に届いた。
「李遼様と李翔様から王烈様のことは伺っておりました。お会いしてまだ三日しか経っていませんが、お二人が王烈様のことを、心から敬愛しておられることは存じております。
王烈様がご自身を貶めるような思いは、李遼様、李翔様お二人のお心をも貶める行為にあたるのではないでしょうか?
何より、王烈様ご自身にとって益になりません」
真っすぐに黄金琥珀の瞳の奥に、煌々と迸る雷が見える。
この娘は今、怒りを感じているのだと気づいた。
「王烈様ご自身のためにも、王烈様を大切に思う方々のためにも、ご自愛なさってください」
幼い頃、初めて従兄に雷を落とされた日を思い出し、何とも言えぬ感情がじわりと胸に広がる。
この娘は見た目だけではなく、性格まで父親に似てしまっているらしい。
「俺相手にそこまで言えるのは李遼くらいのものと思っていたが……なかなか、どうして言うではないか」
「申し訳ありません。もし御気に障ったのであれば、すぐに出ていきましょう」
琥珀の瞳を伏せてそう言い、椅子から立ち上がろうとする子供を手で制する。
もともとその程度の言葉で怒りを覚えるほど狭量ではないし、何より罰を受ける覚悟で申し立てられた忠言に耳を傾けぬほど、愚かでもない。
それに、他人から何を言われても響かなかっただろうが、李遼に似た子の言葉であれば聞き入るに値する。
―――そうか、アイツは、俺のために怒ってくれていたのか。
気付けば唇の端が持ち上がっていた。
憎らしいと思っていた女は、それを払拭するほどに良いものを遺したようだ。
座り直した少女を見下ろし、ゆっくりと語り掛ける。
「潤玲、まだ幼いお前にはわからぬかもしれんが、長年思い続けていたことを今更変えることは容易ではない」
「……はい」
苦い顔で俯いてしまった従姪にしかし、と続けて笑みを浮かべた。
「容易ではないが、変えようと努力はできるだろう」
その言葉を聞いた潤玲が勢いよく顔を上げる。
見開かれた黄金琥珀の双眸が眩しく思え、自然と目を細めた。
己の考えはなかなか変わることはないだろう。それに考えを改めることができたとしても、ふとした瞬間に同じ想いが脳裏を掠めることは必ずある。
しかし目の前の少女が言うように、大切に思ってくれている従兄弟たちの為に努力することは、きっと無駄ではないはずだ。
「忠言、感謝する。俺はお前やお前の父たちの為に努力してみようと思う」
少女の頬がほんのりと赤く色付き、少し照れたような柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みを見て瞠目する。
髪は短く刈り揃えており、父親似の凛とした顔立ちであるため一見すると男児にしか見えないが、笑顔は年頃の少女らしさがある。
意外と、否、なかなかに愛らしいではないかと気を良くした俺は、今更ながらに卓上に置いていた土産の籠の上に掛けた布を取る。
「蜜柑だ。今が旬だから甘いぞ」
蜜柑は素朴な果物だが最近美容効果があると知られ、帝都にいる女たちは皆好んで食べている。土産として持参すれば大抵の女は喜ぶ。
幼いながら聡明で思い遣る心を持つこの娘は今は父親そっくりかもしれないが、十年後はどうなるかわからない。
成長するにつれて、母親のように美しい大輪の花となる可能性は大いにありうる。
女と花は美しければ美しいほど好い。
まずは栄養を摂らせ、太らせて髪を伸ばす。そして教養を身に着けさせれば、帝都一の令嬢となることも不可能ではない。
きっと将来は「理想の令嬢」「琥珀の君」「李家の黄金姫」等と呼ばれるに違いない。
籠から一つ取り出して潤玲に渡してやろうとしたが、差し出された手が包帯でぐるぐる巻きにされていることに気づいた。
「その手はどうした?」
「赤切れが酷いと、李遼様と李翔様が薬を塗ってくださったのですが」
勿体ないことです、と呟く潤玲に眉を潜めた。
勿体ないとは二人の気持ちのことなのか、それとも塗られた薬のことなのか。そして薬を塗り包帯を巻かねばならぬほどの赤切れとは、どういうことか。
自分を大切にしないといけないのは、この娘も同じことではないか?
そう呆れながらも蜜柑を剥いてやる。包帯が巻かれた手では剥けないだろう。
柑橘の甘酸っぱい薫りを楽しみつつ、白い筋を丁寧に取る。そして一房取り分け、潤玲の口に運んでやった。
潤玲は一瞬驚いたように目を見開いたが、特に抵抗することもなく口を開いた。その口に蜜柑を入れてやればモキュモキュと咀嚼する。
「美味いか?」
「む、ふぁい……美味しゅうございます」
コクリと頷いく娘にそうか、と笑ってさらに一房、さらに一房と食べさせてやる。
これが中々に面白い。雛鳥に餌をやる親鳥になったような気分は意外と悪くない。
それに潤玲は李遼の幼い頃に似ている。まるで幼い李遼に世話を焼いてやっているようで実に愉快な気持ちだ。
一つの蜜柑を食べ終え、再び蜜柑を剥き、一房ずつ与え、更に蜜柑を剥き、といった作業を繰り返す。
流石李家の血筋、無限に食べ続けるその姿、まさに吸引力の変わらない唯一つの……と思っていると潤玲が声を立てて笑った。
「先程の言葉、訂正させてください。王烈様は李遼様と李翔様に似ておられます」
「何?」
「王烈様、お二人と全く同じ表情で同じことをなさるので」
どうやら李兄弟も事ある毎に、潤玲にこうして食べ物を与えているらしい。
しかしあの二人に似ていると言われたのは初めてで、胸のあたりがモニョモニョとくすぐったい。
それを誤魔化すように、また蜜柑を剥いて与える。
潤玲はにこにこと笑いながら蜜柑を咀嚼する。その姿は最近若くして妻となった第四夫人に劣らぬほど愛らしく思えた。
この少女はきっと美しくなるだろう。
父親に似た高潔な精神と、母親にも負けぬ眩いばかりの美貌を兼ね揃えた令嬢になった時、李家の花に群がる男がどれほどいることか。
その全てを排除し、相応しい男を見繕うのが潤玲の為だろう――或いは、誰かに奪われる前に手折ってしまうか。
「あと十年、否、五年……」
「王烈様?」
「潤玲、大きくなったら俺の嫁に」
「嫁に、なんだ?烈」
来いと言いかけたとき、後ろから床を這うような重低音が聞こえ、びくりと肩を震わせた。
恐る恐る振り返れば、パチパチと雷電を纏った偉丈夫の姿。
爛々と燃え上がるのは対の黄金琥珀。
「続きを言ってみろ。言えるものならな」
あ、ヤバい。
「自由への疾走!!」
「逃さん!!!」
卓を飛び越えて疾風の如く出口に向かおうとしたが、即座に羽織の襟首を掴まれ引き倒される。背中が着くよりも早く腕で床を叩き、倒れ込むことを回避する。
掴まれた羽織を脱ぎ捨てて李遼の手から逃れるが、それは一瞬のことで後ろから大きな拳で頭をガッチリと掴まれた。
そのまま腕を上げられれば床から足が離れる。李遼とは身長差があり、腕を高く上げられれば簡単に持ち上げられてしまう。
ジタバタと暴れるが、逞しい腕は憎らしいほど揺るがない。
「遼!ちょっと待て遼!これには深い理由がだな!?」
「知るか。俺は仕事をしろ、と言ったはずだが?」
「ちゃ、ちゃんとしたぞ!」
「緊急のものだけな!執務室には決済待ちの案件が溢れて、文官たちが泣いておるわ!毎度毎度、お前が逃げ出す度に泣きつかれるこっちの身にもなれ!」
ぺいっと身体が投げ捨てられ、いつの間にか部屋にいた護衛たちに受け止められた。
そのまま身体を蓑虫のように縄でぐるぐる巻にされ、床に転がされる。
「すいません!すいません主公!」
「でも主公が悪いんですよ!俺たちを置いていくから!」
李遼様恐いんですから!とひんひんと泣きながら、護衛たちは手際良く己の主を拘束し、空いた手で頬をプニプニと突いてくる。
「ええい止めんか!」
「嫌です!主公が悪いんですから!」
「お姿を消される度に、死にたくなる俺たちの気持ちもわかってください!」
主人が悪いと言いながら、何故そうも頬を突くのか。普段も萌え等と言っているが、コイツらほんとによく分からん。
床の上で護衛たちに頬を突かれながら、従兄を見やる。
李遼は娘に近寄り、その頭をわしわしと撫でている。その表情は普段の将としてのものではなく、父親の顔だ。
「潤玲、王烈に何かされなかったか?」
「いえ、少しお話をして、蜜柑をいただいただけです」
「ならば良いが…身体はどうだ?」
「問題ありません。それに寝てばかりでは弛んでしまいます」
「わかった。無理だけはするなよ」
そう言って李遼は卓の上に転がっていた蜜柑を手に取り、一房ずつ摘んで娘の口に押し込んでいく。その顔は少し楽しげだ。
俺もあんな顔をしていたのか、と先程胸にあったモニョモニョとくすぐったいものが再び湧き上がる。
潤玲に蜜柑を全て食べさせた後、李翔がため息を吐いた。
「どこかの誰かが怠けたせいで今日は夕餉に間に合わん。その代わり翔を寄越す。しっかり食べて、しっかり身体を休めろ」
いいな、と潤玲の頭をポンポンと優しく叩き、李遼が此方へと足を向ける。
蓑虫の如く床に転がされていた身体を肩に担がれ、潤玲に挨拶をする暇も与えられず、馬車へと運ばれた。




