光の屈折は、グラス越しに(2)
柔らかな明るいオレンジ色の灯り。そっと奏でられている、ゆったりとした様々なジャンルの軽快な音楽。色鮮やかな絵やオブジェクトも随所におかれ、完璧に背景に溶け込んでいる。ランダムでいるようで計算されつくした配置で観葉植物がそこかしこに存在をそっと主張し、その場に居る者の目を派手にならないように控えめに楽しませているのは、気づく者は気づくだろう。完璧な計算が生みだす、調和の美。和気あいあいとした笑い声で、気にならない程度に賑やかなこの場所は、まるで一等地で人気を誇るカフェのようだ。実は某社の社食だなんて、言われなければ誰にもわからないだろう。
手元には、目にも美しい今日のランチプレート。味はもちろんだが、栄養価も相当に考え尽くされているのだろう。暁史は舌鼓を打ちながら、先ほど書き終えた大学提出のレポートを思い出しそうになって、慌てて思考から追い出した。今は目の前にある美味しいご飯を、シンプルに美味しく味わって食べたい。本当はこのランチを写真に撮っておきたいのだが、社食のみならず建物内での個人の携帯の利用が一切許されていないので、暁史は仕方なく諦めている。
黒塗り車で小百合によって暁史が大学構内から連れ去られたのは、そう遠くない日の出来事。以降、悲しいかな、暁史の大学内での人間関係に当初の暁史の想像と少し違う影響が出始めてしまった。ただただ騒がれたり、揶揄われたりするだけだと思っていたのは甘かったようだ。なんと、暁史の研究室の実験器具利用申請が、大学院生の利用を理由に通りにくくなってしまった。大学院生の研究は、学部生よりは優先されるのは以前から知っていたけれど、故意かなと疑うには十分な頻度で暁史の利用申請の度に大学院生が予定を被せて利用申請する。頼みの綱は実験器具を融通させて一緒にこれまで実験してきた学部の研究室仲間だったけれど、暁史の実験室の利用頻度が落ちて研究進度が合わなくなってしまい、なかなか一緒に実験するスケジュールも合わせられなくなってしまった。実験ができなければ、レポートが書けない。レポートが書けなければ、進級出来ない。進級できなければ、将来的には卒業もできないかもしれなくなって、、もしかしたらその前に大学院受験もできない、かもしれない。
最速で事件になる前に物事を解決させるためには、あの時は致し方なかったのだと暁史は自らを納得させているけれど。あれが恐らく最善の方法だったのだろうけれど。せめて公衆の面前で黒塗りの車を停めなくても良かったんじゃないかと、暁史は小百合を少しだけ恨めしく思ってしまうのを心のどこかで止められないでいた。
それを知ってか否か、小百合がどこか申し訳なさそうに、ネットで偶然見つけたというこちらの会社のインターン制度で実験室を始めとする研究施設が使えそうなことを遠慮気味に教えてくれた。なんでも、小百合自身の大学院進学に関して出願条件を調べているうちに、希望の大学院に設定されている寄付講座の会社として見つけたのだそうだ。申し込みに論文を1件出す必要はあったが、問い合わせてみれば学部生なら卒論に向けた研究内容の簡単なレポートで良いとのことだので、「ラボ探しだと思って気軽な気持ちで応募して見れば?」と言う小百合の言葉にのって、気軽な風体で、、、本音はどこか藁へもすがる思いで応募してみたのだ。暁史自身でも会社について調べてみれば、世間一般にはさほど知られていないものの、新興のベンチャー企業で若い研究者が多いことが分かり、応募からかなり早いタイミングで嬉しい返答があったのは願ったり叶ったりだった。無事にインターン生として採用され、利用許可を得てこの場所を使うようになって、今に至っている。
最近の暁史は、大学で講義がある時以外は寝食を含めてほとんどインターン生として過ごしているように思う。実験設備だけじゃない。24時間サポート体制の揃った生活全ての充実度に、こちらに来た初日は高揚感が抑えきれなかった。充実した社食のおかげで1日3食しっかり食べられ、間食もいつでもとれる。ジムをはじめとするリラクゼーションの施設も使いたい放題。泳ぎたければ泳げる、サッカーしたくなったらフットサルのコートに張り出されたレッスン時間に行けばプレイできる。図書室に至っては、もはや図書館レベルの蔵書を誇っている。文献がなければ、依頼して購入もできる。この施設内で使う限りは備品購入さえも全て無料。本来は社員向けの福利厚生サービスで、社員の場合はきっちりサービスアパートメントの寮が完備。インターン生は、寮の代わりに小さい個室だが、個人の持ち物は当然、個室置いておけるし、ちゃんとベッドで寝ることもできる。洗濯室も充実。十分だ。まさに天国のような場所だなと思っているし、結果的には大学をねぐらにする日々より良かったのではとさえ思い始めている。恐らく意地悪だっただろうことをしてきた院生に対して、どこか見返してやった気持ちがないかといえば、嘘になるだろう。
暁史は自分の首に下がった、自身の緑色に縁取られたIDカードを誇らしい気持ちで見る。これはインターン生の色だと、人事部の担当者から初日のイントロダクションで説明があった。IDカードの色によって、この場所にいる全員の所属や役割が分かる人には分かるようになっているらしい。
建物への入館や退館、PCの起動、各部屋への出入り、社食の利用や備品購入などのため、カード認証を行う必要が随所にあるから必ずIDカードを首から下げて携行するように指示されている。実際、どこにいくにも、それこそトイレの出入りまでカードがないと許されないほど、IDカードでの各所への認証は徹底されていた。首からカードを下げ忘れて廊下のなんでもないところで盛大に警報を鳴らし、叱られている社員を暁史も見たことがある。詳細な仕組みは暁史には分からないが、会社の予算管理や機密情報の保持にも多いに役立っているのだそうだ。
今日はこの後、フットサルのレッスンにでも顔を出すかな、とランチを食べ終えた暁史がのんびり考えていると、突然、食堂に浮き足立った囁きが走った。周りに釣られて暁史も視線だけその方向へ投げれば、社食の出入り口の一画に、目立った3人組がいるのが見えた。
会社創設時の中心メンバーで、役員の3人だった。この会社に勤める社員達には、どうやら憧れの存在らしい。彼らに羨望の眼差しが向けられているのは、この場所に身を置いて日の浅い暁史にも充分に感じ取れた。滅多に食堂に顔を出すことはないと言われているから余計に、視線も熱いのだろう。暁史には彼らは雲の上の存在すぎて、どこか遠い話だ。
そういえば彼らのカードの色は何色なんだろうと興味本位に思って、ふと、彼らがICカードを身に付けないことを暁史は思い出した。彼らはどこでも社内は無制限に出入り可能で、なんでもICカードの代わりに、黒い指輪をはめているらしい。暁史はまだ、噂の指輪の実物を拝んだことはないし、そもそも彼らに至近距離でお会いしたこともない。指輪の中のチップ含めてどんな構造の指輪になっているのか、どういうセキュリティーシステムを組んでいるのかは非常に興味があるけれど、あれだけ目立つ人たちにお近づきになったりするのは苦手だし、会いたいか希望を聞かれても避けたいなと思ってしまう。
暁史はさっと視線を下げ、食べ終えた空の食器を返そうと席を立った。
こんな遠くなのに、なぜだか件の3人からチラッと見られたような気がしたのは自意識過剰か、気のせいだろうか。




