その体で感じて(5)
ç っっっ。―――っっっ。
「はぁ、、、っ、あぁ。。。。は。。。っ。夢。。。。夢か。。。」
粘つくような、冷たい汗が背中に張り付く。
もう、どれほどの過去になったこととは言え、時々、今の平和な自分を嘲笑うかのようにあの日が夢で追いかけてくる。
たいしたことはない。淡い期待に胸を膨らませていた少年が、その期待がどれだけ恵まれた事態だったのかを理解できずに、あっけなく暗闇へ落とされただけのこと。よくある話、ではないが、珍しい話でもない。
こんな過去に振り回されている姿を見たら、生徒はどう思うか。「西橘先生らしくない」と十中八九言うだろう。自分自身では、生徒にどんな感想を抱かれようがどうでもいいや、としか思えないが。勝負は授業内容でしたいから。
悪夢を振り払うように頭を振ると、今は少しでも早くこの汗を流してしまいたくて、シャワーへと足を引きずった。日常生活には、全く支障はない。きっと、誰も気付いていない。もう、踊れない、自分のこの脚に。
ド派手な金髪に、紫のカラコン。芸能人時代のケアのおかげで、ヒゲはなく、年齢を感じさせない肌感。鍛え続けているから、この年齢でも締まっている。シャワーを終えて鏡で自分の姿を確認すると、リビングに目を向けた。
テーブルに置かれた作り置きの朝食と、きれいに畳まれた洗濯物。きっちりしているのは、性格も、仕事もか。あれだけ熱いシャワー後も、どこかまだ冷え切っていた心が、姉の心遣いに温まってくる。
「迷惑、かけっぱなしだよな。。。」
あんたなんて産んだ覚えはない、と当たり前の事実を文句に、絶望から生きる気力もなにもか失っていた自分を、それでもなんだかんだ面倒見てくれたのは姉だ。あの日、何も言わずに自分を迎えにきて、「まっとうに生きる」、それだけを約束させられた。以降、生存確認も含め、こうやって時々面倒をみにくる。自身の家庭もあって忙しいだろうに。
染み渡るような優しい味に感謝しながら、箸を置く。
思い出した甘い香りに、あの悪夢はこのせいか、と何となく一人で強引に納得した。
あの日。いつも通りに、いつものグループメンバーで事務所の練習室で踊って。それを、師匠があーでもない、こーでもないと指摘して。この場所を出たら、今日は何人の出待ちがいるんだろうね、可愛い子いるかな、ヤラカシからは今日も逃げたいなんてバカ話をしていたら。
スーツを着た集団が乗り込んで、メンバーの数人を連れていった。
その場で、残った全員が自宅謹慎。師匠も含めて、だった。そして後日、グループの解散を人伝に告げられ。二度と人前に出ることなく、キャリアが終わった。もはや、呆気なさ過ぎて、他人事のようだった。
本当に何も知らなかった。何が起きたのかはもちろん。自分がどうしてここにいたのか、どうやって生きてこれたのか、世の中がどうなっていて、ビジネスがどうだったのか。無知にも程があるだろう、と今の自分からは言えるけれど。世間知らずだからこそ、重宝されてもいたのだろう。生馬の目を抜くような世界で、アホは生きられない。
あの時、1つだけ理解していたのは。自分は、「売られた」と言うことだけ。本当に何かをしたメンバーに「売られ」、素っ気なく対応したファンに「売られ」。してもいないことが、すぐに、さも事実のような顔で語られ。それを誤りだったと否定するニュースは、数ヶ月後に小さく載っただけ。人々の目に止まったのは、世間の関心を買ったのは、誰もが覚えたのは。面白おかしく掻き立てられた、全く自分とかけ離れた「西館貴法」の姿。
グループ内の未成年による常習的な喫煙・飲酒の責任を取って、グループが解散し傷心のところ、一番人気のメンバーは女性関係の派手さを指摘されたこともあって心を病んでしまい、古傷が再び悪化したことも重なって引退。
いつ自分が心を病んだ?と思うけれど。古傷って何?とも思ったけれど。最後、どこかに連行されていたメンバーとの挨拶でまさかの膝を蹴られて、全治3ヶ月になったのは事実だ。結果、踊れなくなったことに絶望して引きこもったから、心を病んだのも事実かもしれない。いつ派手だった?と聞きたいけれど。そう言うキャラだったのは事実だし、「写真一緒に撮って」とお願いされたらから、彼女たちの王子様的ポジションで写真撮ってあげたのも事実。それが全部、数股交際疑惑になるとか、どうやって火のない所に業火をでっち上げたのか。
引退も怪我も疑惑も到底受け入れられずに、失意のどん底にいる自分に光を与えてくれたのが、この姉と。意味不明なほどはまっていた数独。
数字を一心不乱に眺めるのが好きで、結果、その数字を相手に今の自分がこう言うキャリアを積んでいるのは、自分でもびっくりだ。
「学生時代、こちらの予備校でバイトしている友人から聞いて。自分にも師匠がいて導いて貰って、そんな師匠のように、今度は自分が何かを教えたいと。」と言う職務の志望動機に、嘘偽りはない。流石に教員は、過去の自分が邪魔をして教育実習ができなかったから。そして、師匠はあの日ただ一緒にその場にいてしまったと言うだけで、表舞台からは遠ざかるを得なかったから。
そもそもは、こんな「西館」を思い出させるような格好をするつもりは髪の毛の毛先ほどもなかったのだ。必死で仕事に向かい、隅っこで大人しくしている予定だった。実際、黒髪、デカメガネ、だっさい格好、ちょっとだけ緩めの体型で、いかに目立たないかに気を使った。「昔はアイドルだったのに影も形もないなんて」陰口も講師同士で叩かれたけど、放っておいた。どうでもよかった。けれど。ある程度の経験年数を経て、周りが見えるようになったころ。
「なんでそんな冴えないおっさんに、いいように転がされてんだ!!」
と思ってしまったのだ、講師室で。自分が余計ないろいろを見てきて、汚れきっているのは自覚している。ただ、いくらなんでも、生徒も無防備すぎる。
大学生になったと言ってお礼に来て。SNSのアカウント。メッセージアプリの連絡先。それでも充分に危ういのに。
生徒でいる期間にさえ、親身の指導で恋愛に。
「違うだろ!!」と言う自分の叫びと共に、不愉快さが上回った。
アナウンサー職希望者が多いと聞いた、授業のネット放送組のアルバイトたちにも、疑問符しかわかなかった。そこに目を向ける講師陣にも、その肩書で持ってあちこちにつまみ食いを虎視淡々と狙うバイトたちにも。
余談だが、唯一、お?と思ったのは、どっかの校舎にいたチューターの一人だけ。何も手をかけずにあそこまで磨かれてる人材は、正直いない。本人さえ希望すれば、どこの事務所からも引っ張りだこになるだろう。ただ、見る限り、本人にまったくその気配がなかった。そんなもんだと思う。自己承認欲求の先を知らない人間にわざわざ求められなくても、十分に自分の周りで愛情に満ちる環境にいるんだろう。
よく分からない苛立ちから一念発起。なぜ、それをするのかをわざわざ教務部長に告げて許可を得た上で、徐々に「西橘先生」を「西館」に寄せていった。体を絞って、コンタクトにし、服を整え、もっさい髪型もゆっくり、ゆっくり変えて。
くだらない「今日の俺」のプリントのコーナーで、情報は全員共有分フェアに。全員を「子猫ちゃん」呼びすることで、個別認識の第一歩である名前は絶対に呼ばない。SNSはプロの運営に任せて、自分では一切関与しない。連絡先は完全に秘匿。「西館」に寄せるなら、姿形だけでなく、そう言ったところも。
その中で気づいた。ちゃんと自分は異性に線引きしていた過去に。していないことを言われすぎて何もかも背負いそうになってたけれど、自分は無実だと主張したかったんだと。誇りを持って踊って歌ってバカやって、あの頃の精一杯を、無知なりにやってたんだと。
「ようやく、吹っ切れたのね」と言う姉の言葉が、重かった。
重い足取りで向かって出講先の校舎の講師室で、手元のスマホを見る。
先日遊びに来ていたやけに派手な大学生がつけていた、独特の香り。忘れるもんか、あの唯一の香り。自分だけの調香だと、交際相手にも狂ったようにつけさせてたから、よくわかる。こんなところまで、と思うと困惑するが、今なおこんなことやってんのかと思えば、怒りが強い。
自分の、このキャリアは奪わせない。絶対に。何もかもわからないあの日の自分とは違う、酸も甘いも経験して、ちゃんと理解して、自分の足で歩いてきたこの、キャリアは。
ただ、今の自分には、この不気味さを告げる先がない。昔の仲間なんてもう、とっくに切れている。あんな形での引退とは、そう言うことだ。
グッとした唇をうっかり噛んだところ、声がかかった。自分とほとんど歳が変わりないのに絶対的に安心する、懐かしい声。
「よぉ。。。お前このまま、魔法使いにでもなんの?」




