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この星空がキレイなのはなぜと、キミが問うから(5)

 −−−−−−パキィっ。

 気に留めなければ、気づかないほどの小さな音。

 1限目と2限目の間の休み時間に講師たちが控える講師室内で生じた不釣り合いなその音は、小百合の目の前にいた女子生徒の振り向きざまに、彼女の抱えるカバンが小百合の顔スレスレに動線を描いた時に発せられた。当然、小百合の顔の大半を覆っていた大きなフレームのメガネはいとも簡単にその生徒のカバンに引っ掛けられ、そのまま物理法則に逆らうことなく床へ向けて放物線をなぞり、、、無情にも小さなヒールに踏みつけられたメガネの行方が先ほどの音となり、小百合はため息をこぼした。拾うに、拾えやしない。

 小百合が今、両手に抱えているのは、決して紛失してはならないと厳命された教材プリントの原本に、仕上がった印刷物。

 今日は厄日か。メガネ記念日とは厄日のことだったのか。小百合に一体、なんの落ち度があったというのか。これは決して、因果応報なんてはずはない。旧約聖書のヨブ記よろしく、まさに理由なき試練ではないのか。現実逃避に走りたくなるのを我慢し、講師室の隅に設えられた机の、目的の場所を見据える。あそこにたどり着いて、この書類一式さえ渡せば、この災厄全てからもう逃れられる。違いない。

 しかしながら。

 目の前に立ちはだかる壁が、、、綺麗に着飾って話に花を咲かせる女子生徒たちの壁が、今の小百合にそんなささやかな行動を許さないでいる。

 先ほど小百合のメガネを踏みつけた女子は、小百合の姿を見るとメガネを壊したことを謝るでもなく、小百合を頭のてっぺんから足の先まで眺めると口元で嗤ったまま、元の会話へ戻ってしまった。

 フワッと立ち込める甘ったるい香水の匂いに、囁くような黄色い話し声。ここは、講師室だったっけなぁ。それとも、夜の蝶が舞う煌びやかな夢の空間だったっけ。

 安価でデザイン性の高い洋服がインターネット経由で手に入るようになってから、明らかに予備校へ通う女子たちの服装は全体的に垢抜けたと思う。加えて、雑誌やTVなどの伝統的な媒体がなりを潜め、代わりにSNSが「皆んながなりたい姿」の中心になってから、ティーンエイジャーのトレンドが大人の世界の装いとの境界線を甘くしたというのも情報として耳にしていたし、実際、校舎で目にして「なるほどな」と思うことがこれまでなかったわけでもないけれど。

 今日のこの集団は、控えめに言っても度が過ぎている。

 確かに今日の小百合は、倉庫のお片付けバイトで埃っぽくなった上、印刷機の紙詰まり解消の作業までして油っぽさも追加。生徒に配る資料を持つ手前、精一杯、手指はきれいに洗ったけれど。印刷機をいじった際に触らざるをえなかったインクは、残念なことに転々と黒い斑点を小百合の服で存在を主張している。加えて、あちこち駆けずり回っているからシワだらけで。野暮ったさの頂点だと自分でも思う。けれど、相手の身なりがなんであれ、ここは予備校でましてや講師室内である以上、相手が誰であれ、鼻先で笑って見下し、メガネを破壊した挙句に謝りもせず、バカにして嗤っていい相手がいる場所ではないはずだ。

 行動は、装いに引っ張られるのだろうか。

 湧き上がる不愉快さを必死で押し込み、異様な空間の中心をチラッと見て小百合は絶句した。知ってる。。。数学科の講師の仕事になぜか就いているけど。元アイドルの西館ニシタチ貴法タカノリ−今は西橘ニシタチバナの本名を名乗っているけれど−じゃないか。「声は抑えめにね?」なんてそれらしいことを言ってはいるけど、こんなに大量の女子で自分を囲ませ、満更でもない顔をしているうちは講師の責務なんて果たしてないに等しいように思えてしまう。女子の数がそのまま講習希望者数や彼が書いた教材の売り上げに直結していて、数を稼ぐという意味では充分すぎる「人気講師」。だからだろうか、そんな彼の行動に何か物申す人はおらず、好き放題しているところも含めて、相変わらず。容姿を崩すことなく保っている努力は褒めてやらないでもないけれど、呆れるほどアイドルだった頃と変わっていない。品のない言い方をすれば、侍らせる女性の趣味も変わっていない。

 なぜ小百合がそんなことを知っているかって、調べたから。断じて、彼自身に興味があったわけではない。熊守が「TATSU」でいられなくなった理由を探していったら、講師の西橘ではなく、元アイドルの西館の方に行きついてしまったのだ。当人たちがどこまで知っているのかはわからなかったけれど、この小さい予備校の世界でまでの不必要な因縁を知らされた時、小百合はこれ以上にない苦いものを口にしたような気持ちにさせられたのだ。

 それに、、、と思わず手に力が入る。印刷機に紙を詰まらせたのに、教務室に声をかけず、しれっとコピー機を使いやがって。先ほど印刷機と油塗れになりながら散々格闘して、やっとの思いで取り出した詰まっていたプリントの内容に絶句したのが思い起こされる。授業に明らかに必要ではない「今日の俺様情報」みたいな印刷物が、職員の目に触れたくなかったからかもしれないが、一言声をかけてくれなかったことでどれだけ迷惑を被ったことか。少なくとも小百合が今、こんな事態に陥っている元凶は、このニチタチと言っても、言い過ぎにならないはずだ。

 今はただのアルバイトの身分の小百合には、こうやって相手を不愉快に思うことは生意気なのかもしれないけれど。思いっきり抗議したい、このやり場のない怒りをどうしてくれようかとも思うけれど。

 床に無残に打ち捨てられた壊れたメガネと小百合の心情を理由に、熊守がこの講師室に足を踏み入れる事態は念のため避けたい。別にメガネはなくても視力に支障をきたすようなものでもない。あのてんやわんやの騒ぎをなんとか乗り越え、ようやく配布物を隅に鎮座する目的の人物に渡すだけの最終段階まで漕ぎ着けたのだ。小百合は、騒がずにやるべきことを強行することにした。


 「お疲れ様です。ご依頼賜りましたプリントをお持ちしました。どうぞお納めいただけますか?」

 透明のプラスチックのファイルに入れた原本を印刷物の上に重ねると、目的の人物が待機する机の上においた。相手が無言なのをいいことに、視線は下げたまま、小百合は矢継ぎ早に言葉を重ねていく。

 「原本は、確かにこちらにあります。どうぞ併せてご確認いただけますか。」

言外に「早くしろよ」と滲ませてしまったのを大人気ないとは思ったけれど、罪悪感は不思議と少ない。

「ありがとう。」

「いえ、どういたしまして。」

小さな小さな声なのに、やたらと弾んだ返事があった。嫌な予感がした。

「やっぱり、水島先生のとこのコだけあるね。さすがだよ。これからも、ぜひお願いし、、、。」

「恐縮ですが、」

最後まで相手に言わせる気は、さらさらにない。お行儀の悪さは百も承知で、小百合は強く遮った。

 何を言ってるんだろう、この人は。呆れと共に先ほどまでの、戦場さながらの様子が一気に思い起こされる。小百合が今、ここでこの配布物を手にしているのは、ありとあらゆる奇跡が重なったからで。いろんな人間の好意が、偶然にもいい方向に作用したからというだけで。1つでも何か欠けていたら、今ここで行われているのは職員総出の謝罪祭だったはずだ。表面的には小百合一人で対応したように見えるかもしれないけれど、小百合一人でできたことなどたかが知れている。そういうことくらい理解した上で、想像した上で、仕事をするものではないのだろうか。

「承れません。」

小百合は言い切った。皆で仕事したあの時間を、無駄になんてしたくない。

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