どうでもいいわ(2)
教室のマイク音が中途半端にぽわぁんと響く。音の反響のし易さから何やら読経のようにさえ聞こえてしまう廊下は、どうにも馴染めない不思議な空間のまま。生徒であった頃には決して知ることのない、神聖ささえ纏ったように思えるこの音のある静寂さはどこか落ち着かなくて、自分と何かを隔てる境界線のようにさえいつも感じている。
小百合は自身のピンヒールがパンツの裾を踏まないように注意を払いつつ、カツン、カツンとそっとヒールを数回鳴らす。スッと自分の中に何かが整っていくのを感じると、スーツのシワを体の隅々まで確認して伸ばして行く。最後にジャケットのボタンを止めてグッと息を吸い込む。一度そっと目を閉じて、ふっと短く息を吐き出したら、眉間に力を込めてぱっと目を開ける。端末で今日の連絡事項が書かれた箇所を軽くおさらいして、スピーチ内容をざっと頭の中で確認したら、あとはなるようになる。大丈夫、抜けはないのだから。
りっちゃんが教室のドアの前で準備を進める様子を、キラキラした目で、息を殺して律は眺め続けた。律の手にある生徒に配るための大量の封筒の束が音を出して「りっちゃん」の邪魔をしないように、一切の雑音が出ないように。
こんなにりっちゃんの横にいるのにも関わらず、後から追いかけて到着した律の存在にりっちゃんは気づかない。けれど、律はそれでいいと思うし、それだから良いのだと思う。「りっちゃん」は、これから教室にいる皆のための「りっちゃん」になるのだから。
そう、それでいいと思っていた、はずなのだ。
最近、律は思う以上に欲張りになってきた気がしていた。元生徒だから、あれこれ声をかけてもらえて、色んな話が聞けて、いつだって「りっちゃん」の側に呼んでもらえて。律の名前を呼ぶ「りっちゃん」は自分がよく知る、いつも教室で見上げ続けてきたあの「りっちゃん」で。なのに、生徒だった時に律に向けられた視線を思い出してしまうと、今はどこか律自身に視線が注がれていないような気がして、ほんのわずかだけれど、苛立ちに似た焦燥感が顔を出すのだ。もう律はりっちゃんが面倒を見るべきである担当の生徒じゃない、だから、多分、それでいいはずなのに。
この小さなトゲは一体、何なんだろう。
いつもの教室のドア前での準備のルーティンを終え、視線を教室のドアから離すことなくまっすぐ前を見ているりっちゃんの姿が、輪郭を失ったようにぼやけて見えて、律は怖くさえなる。りっちゃんは今、何を見ているのだろう。そして自分は今、何を見ているのだろう。
ふと律は耳を澄ましてみた。りっちゃんがなんとなく、そうしているような気がしたのだ。教室から漏れる音の切れ目が、気になる。講師の言葉が、ぼんやりとだけど拾える。言葉の途切れ目に、「あ、今だ」と、咄嗟にそう思った。何が今なのかはっきりとはわからないまま、自然に足が一歩前に出て、確かな思いとともに礼の姿勢をとった。
と、囁くような声と共に、チューターの端末が封筒の束の一番上に重ねられる。
「律、よろしくね。」
慌てて顔だけを上げると、りっちゃんの目が、自分の目を射抜いた。一瞬、律の呼吸が止まる。
端末を「配布物を手伝って貰うから仕方なく」と言うタイミング以外は絶対に誰にも渡さないと言われているあのりっちゃんが、自ら先にその端末を手放したのだ。
任されたのだ、と思えた途端に、よくわからない震えが背中に走る。
何事もなかったように礼の続きに戻った小百合に、律は倣った。
「ありがとうございました。」
講師に小百合は和やかに頭を下げたのち、全力で声を張り上げる。
「はぁい、1限目、おつかれさまでしたぁ!」
もはや当たり前のように、小百合を迎えてくれるようになった愛しい生徒たち。
「いつも通り、初めの3分間だけちょーだいね!そうそう、今日もお手伝いに、私の昨年の担当生徒で、現チューターの律が来てくれてます。彼がこれから例のブツを配るので、封筒の名前を必ず確認したのちに受け取ってねー。残りの7分では、せっかくなので律にも積極的に話を聞いてみて!ひとまず今日の連絡事項、行きますよー!」
模試の結果の入った封筒の影に、クラスに嫌な緊張感が走る。
律の喉に、クッと力が入った。
お手伝いに教室に一緒に上がった時はいつでも気づいたタイミングで発言していいのだと小百合に言われていても、クラスの雰囲気に戸惑ってこれまでずっと声が出せずにいた律だったけれど。大丈夫だ、と思えたのだ。
だから、間違いないと思ったこのタイミングで、自信を持って声を出した。だって、律は「知っている」のだ。自分はちゃんと「りっちゃん」の生徒だったのだから。
「りっちゃん、例のブツとか言わない!皆の模試の結果と採点された回答用紙です。僕からサクッと受け取って下さいね。残念ですが、受取拒否ができないんです。よろしくお願いしますね。」
ふふっと笑い声が起きたのを律が確認してそっと小百合を見遣ると、小百合がニパッと笑って律に頷き返してくれた。唐突に、律は自分の欲を具体的に自覚した。生徒の時に、りっちゃんのことは充分もう見上げたではないか。だったら、やるべきことが、1つ。下から見上げるのではなく、横に並びたい。
小百合が緩急つけて話題をねじ込みながらツマラナイ連絡事項を伝え始めると、その横で律が模試の結果を配布し始める。律があらかじめ封筒を座席順に整えているあたり、仕事に頭を使い始めてくれていると小百合は微笑ましく思う。
ついに彼がこの教室で声を出せたと言うのも、嬉しい第一歩。少しずつでいい。「元生徒」から「チューター仲間」に、ゆっくり育ってくれればいいと改めて思う。
お腹に気合を入れて、教室を見渡す。さて、ここからが小百合の勝負の時間。このトピックで生徒の目を覚まさないと、1年間を棒に振ってしまうから。
「ではこれから、残りの2分で今日のテーマ、模試の結果の活用法!喋るよっ!」




