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夏よこい(2)

誰かにとってのいつもは、違う誰かにとってのいつもではなく、時には特別な意味を持つことがある。そんなことを感じながら、律は大量のパンフレットを抱えて、そっとりっちゃんを見つめていた。

 スーツのシワを確認して隅々まで伸ばし、見慣れたピンヒールがパンツの裾を踏まないように細心の注意を払い、最後にジャケットのボタンを止めて息を吸い込む。一度、目を閉じて、そっと開ける。初めて目の前で生で見た、りっちゃんのチューター前のルーティーン。受験に向かうに当たって、気持ちを切り替えるための儀式めいたこの動作のことは生徒の時にりっちゃんから聞いてはいたけれど、実際に目にするのは初めてだ。不思議なことに、りっちゃんの一連の動作を眺めるうちに、何度もバイトに入ったことで教務室で見慣れたはずの優しい先輩の姿が、何か神聖さを感じるほど別の雰囲気を帯び始めたような錯覚に陥る。けれど、その少し違う緊張感をはらんだ姿こそが律が生徒の時から一番良く知るりっちゃんの姿でもあって、律はりっちゃんとは一体誰なのか、どこかで混乱し始めた。

 チャイムが鳴り、教室の扉が開く。

「はぁい、皆さん、授業、おつかれさまでしたぁ!」

 あぁ、律が一番良く知る、この声。これが、これこそが「りっちゃん」だ。彼女が教室に入りながら、声を張り上げる。この人数に、この教室の広さでも良く通る声。変幻自在に教室の雰囲気を自分の色に染めてしまう、何かが込められた声。

「いつも通り、初めの3分間だけちょーだいね!今日はサクッといくよ。あ、ちなみに今日はお手伝いに、私の昨年の担当生徒で、現チューターさんに来てもらいました。彼に初めて会うーって子は、りっちゃんの使い方とかを残りの7分で積極的に話を聞いてみて!律くん、です。あれ?律ってフルネームなんだっけ?」

 律が懐かしさに浸っていると、突然現実に引き戻された。やっぱり、タダでは聞かせてくれるつもりはないらしい。自分が生徒としてりっちゃんを見上げていた時も、彼女が誰かをサポートとして教室へ連れてくる時はいつも夫婦漫才のようになっていた。今日もきっとそうなるのだろう。

広井律ひろいりつ、理工学部建築学科の1年生です。昨年は、りっちゃんのクラスに在籍してお世話になっていました。」

 りっちゃんの話の勢いに追いていかれてしまわないよう、律もマイク無しのまま懸命に言葉を紡ぐ。未だ自分のクラスでも、生徒との距離感を掴み損ねているけれど、りっちゃんはそんな律にお構い無しに先へ先へと話を進めていく。

「そうそう。そうだった、そういえば、広井さんだったね。でもなんか堅苦しいから、皆も律って呼べばいいよ、今日から。んね?」

 ねって言われてもと言葉に出すよりも先に、律の表情が雄弁に物語っていたらしい。

「そんなに盛大に戸惑わなくてもいいのにねぇ?理系の質問とかあったら、私ってば実はお役にたてなかったりしちゃうので、私の代わりに彼に聞いてね。じゃぁ、律、後はよろしく。あ、これって話題のパワハラとかになっちゃうのかな?」

クスクスっとりっちゃんの生徒たちが楽しそうに笑う。つられて気づけば自分も笑いながら告げていた。

「同じりっちゃんの担当生徒経験者として、精一杯応えられたらと思います。よろしくお願いします。」

 人を巻き込んだまま、りっちゃんは次々に連絡事項をさばいていってしまう。時にりっちゃんの無茶振りに返事をしながら、律がなんとか講習会のパンフレットを教室の生徒全員に配り終えた頃には、スピーチの時間きっかりになっていた。この時間配分が、神がかっていると生徒の時も思った記憶がある。

「さぁて、皆の手元にパンフレットは揃ったかな?5月の真ん中なのに、何を沸騰したか今から考えましょうと降って湧いてくる夏期講習。一番先に言っておくんだけど、今ここで話せるようなりっちゃんからのオススメのパーフェクトな受講プランなんてありません。」

パンフに目を落としていた生徒が、ギョッとしたように顔を上げた。

「だって、そうでしょー?ここ、国公立私立文理系、全部混ざってるクラスよ?場合によっては、英語だけ得意だったり苦手だったりって人もいるのよー?そんな全員に共通して適応できるたった1つのプランがあるなら、それこそもはや信仰レベルだって。」

生徒の視線が、一気に集まる。りっちゃんが片手に、1冊の分厚い本をヒラヒラさせたのだ。

「ちょっとこれ見て?これって、私の大学ではRegistration ナンチャラBook、通称レジ本って呼んでる、大学の履修科目一覧の本なの。他の大学だと、シラバスとか言うのかな?ここにはね、何年次までに何が必要、3年からは大学院のこの授業が履修可能とか、めんどくさい細かいあれこれのルールとこの1年間の開講科目全部が載ってるんだ。」

 集まっていた生徒たちの視線が、まだ見ぬ世界への扉を感じて熱を帯び始める。

「毎年新しいレジ本がもちろん出るんだけど、だいたい中身は一緒だから、学生はこれに基づいて卒業までの履修計画を立てていくのね。つまり、私の大学の例だと、1学期が13週x(かける)期x(かける)4年間。一度に全部決めるわけじゃないけど、ある程度先の自分の専攻を見据えて毎学期始めに授業を選んで学校に授業登録の申請をしていくの。」

 こうやってちょっと先の、頑張った人にだけ見える未来の姿を垣間見せるのがりっちゃんは上手だと、律は改めて思う。

「ここで、皆、自分の手元を見て?夏の講習のパンフ。似てない?実は私も皆も、やってることの基本は同じ。受験を終えても、今度は大学で授業を吟味して選択をし続ける作業は、果てしなくどこまででも付いてくる。つまり、今はその練習期間で、そこも含めて受験勉強だと思って欲しいな。」

聞いている生徒の顔色が、次々に真剣味まで帯びていく。

「じゃぁ、ここで、受験生の皆は夏期講習のパンフを前に何をするべきなのかって言う本来の話をしよっか。今やるべきことは、どこの大学に行きたいって言うまだぼんやりでいいから定めた到達点を見据えて、夏までには何ができているようになっているべきで、その上で夏期講習では何が必要そうかを、今、考えて決めることです。今の目標と少し先の計画の両方を一気に決めちゃう感覚かな。当然、到達点や必要事項は、ここにいいる皆全員違うの。違って然るべきなの。だから、安易に私からオススメの計画例なんて挙げられない。」

じゃぁどうすればいいのという空気になった時に、りっちゃんが声をワントーン下げた。

「そこで、りっちゃんのクラスでは、これから言う3つを中心に考えて行こっか。1つ目、自分の頭で計画を立てて、自分で決めること。誰かが決めた計画は、近い未来に何かができなかった時の言い訳になっちゃうからダメ。2つ目、必ず、頭の整理整頓期間を設けること。計画を詰め詰めにすると、消化不良分が溜まってどこかで破綻する。一度崩壊すると、あとはなし崩しになっちゃうから。新たな知識を詰めたら、次は詰めた内容の整理整頓。いつもの勉強もなんだけど、この2つをセットにして考えよう。3つ目、パンフの案内文読んでも意味不明なコースもたまにあるから、そう言うのは私に聞いて?分かんなかったら、一緒に先生に聞きに行こう。その上で、夏までにこうなっていたいので、夏はこんな受講計画で考えてみたんですけどどうでしょう?って相談にはいつだって乗ります!皆さん、おっけぃですか?」

不安な雰囲気の中、ふわっと声のトーンを戻してりっちゃんが笑った。

「もちろん、ヒントもちゃんとあるから!1階教務室前には、各チューターが作った計画書も貼ってあったりする。自分の志望に一番近いものを探して、それをベースに計画を立ててみよう。」

ごっくん、と生徒たちが息を飲んだような気配がした気がした。

「はい、と言うことで今日のお話はここまで!残り、、、ごめんなさい、6分になっちゃった、思い切り羽を伸ばして休憩してください。聞きたいことは、もちろんこの瞬間から受け付けるから、私やそこにいる律に聞いてね!。」

え、俺も巻き込むんですか?と律が抗議する間もなく、りっちゃんはさっさと談笑の輪の中に入っていってしまった。

 仕方なしに黒板を代わりに綺麗にしようかとした矢先、「律さん」と生徒に声をかけられた。まだ自分の担当クラスでもなかなか話しかけて貰えない状況の中、ここでは早くもまさかの「律さん」呼び。懐かしい母校の制服の生徒数人に、あっという間に囲まれる。喜びに早鐘を打つ心臓の音さえ心地よく、彼らの質問に一生懸命に答えていると、あっという間に次の授業の開始時間になっていた。

「ほーらー。次の授業が始まるよー。神聖な時間はどこ行ったんだー?って、スミマセン、今日は私が先陣切ってはしゃぎましたー。私も律も別に逃げやしないから、今は、席について次の授業の準備をしてください。」

慌ただしく席に戻る生徒たちに、りっちゃんがいつものように告げる。

「はーい、それでは2時間目開始となります。パンフは次の時間の教科書じゃないよ?とっととしまって!」

笑いをとったら、チャイム。「よろしくお願いします」と先生に一緒に頭を下げると、懐かしさと嬉しさとがさらに律の中に込み上げてくる。あぁ、これがやりたくてチューターになったんだったと改めて感じた時間。どこか夢見ご心地のままの律に、りっちゃんがいたずらっ子のように笑いかけた。

「どう?楽しかった?」

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