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夏よこい(1)

 異常なほど、暑い。連日30度を超え、ひたすらに暑い。まだ5月下旬だというのに熱波が次から次へと襲ってくる日々に誰もが気持ちが萎えそうになる中、自分史上最大の悩みに面してため息の台風を作り出している人物がいた。このチューター土曜日シフトの新人、歩夢あゆむである。受験だって、ここまで悩まなかったんじゃないだろうか。過去に考えられないほど頭の中が熱いのが外気温の所為なのか、自分の心の問題の所為なのか、悩んでも悶えても回答が出ない。げっそりとしたまま既に数週間が過ぎ、再びこの土曜日を迎えてしまった。

 どんな時でも投げ出すことが出来ないのが仕事なんだよねーと言っていた本人の姿はまだ見えない。 授業が始まる3分前が神聖なら、仕事が始まる3分前だって十分に神聖な時間じゃないんですか、と聞いてみたくなる。が、もちろん言えるわけもない。こういう日に限って、同期が雑用のバイトに入っていて視界をチラチラ横切り、一呼吸置こうものならどうでもいい話題を持ちかけ、ただでさえなくなりかけている歩夢の集中の邪魔ばかりしてくる。

 何をしても同じことばかりぐるぐる考えて止まらないので、普段なら誰かとチェックしながら行う業務全般の準備を、自力で先輩分まで用意もしてみた。一人で全工程をするのは初めてだったので案外頭を使い、若干気は紛れたように思う。が、その準備も終わってしまえば思考は元に戻る。いっそ、念仏か円周率か何かを念じ続けたらいいのだろうか。止まらないため息をどうにか止める方法はないかと罪のない業務用の端末を睨んでいると、既に体で覚えてしまった甘い香りが柔らかに鼻腔をくすぐった。

「おっはよーございまぁす。」

独特のイントネーションで挨拶をしながら、りっちゃんが教務室の出欠勤を記録するタッチ式パネルへ突進し、時間ギリギリでIDカードをタッチさせている。もれなくして、もう一人、同じように駆け込んでくる姿がある。

「おは、、よう、、、ございま、、、、す、、、」

こちらは、日頃の王子然とした様子は何処へやら、もはや息も切れ切れだ。

「おおおお。よかったね、暁史。あと30秒じゃん。」

戯れながら荷物置き場へ向かう二人の背中を眺めると、躁と鬱が一度に襲ってきた。二人の会話だけが、イヤでも耳に入る。

「小百合、今からジャケット着込んで暑くないの、それ。」

「んー?すぅっっっっごい暑いけど。ほら、何だっけ?日本では、心頭滅却すれば火もまた涼し、って言うんじゃないの?」

「それ、どの時代だよ。っつーか、そこまで悟れる?」

「無理。」

「見てるだけでマジで暑苦しい。ジャケット脱いどけよ。」

「あっらぁ?いやん、もしやお誘い?それとも、新手の軽いセクハラ?」

「小百合お嬢様にそんな恐ろしいことはイタシマセン。体調を慮って差し上げる、同僚の心からの優しいアドバイスです。なんてデキた紳士なんだろう、俺。」

 先輩方、心なしか、やっぱり最近なんか距離が縮まってませんか?伊達に僕、高校生の時からプレイボーイだチャライだって言われてきたわけじゃないんですよ。気付いちゃうんですよ、本来なら気づかなくていいどうでもいいことに。うっかり二人をジトっと見てしまいそうになるのを必死で堪えて、歩夢は精一杯取り繕った声をかけた。

「先輩方、打ち合わせ始まります。」

「ごっめん、そうだよね。ホントごめん。わぁ、準備、完璧じゃん!」

申し訳ないという表情で現れたりっちゃんを見た瞬間、歩夢は心臓が止まりそうになった。暑さで上気した頰と唇に、ちょっと汗ばんで艶っぽい肌。普段は下ろしている髪を挙げているせいで、露わになった首筋。日頃幼く見えがちだけれど、今日はちょっとだけ、大人っぽぃ。息を飲みかけた瞬間、救世主が現れた。

「さっさと打ち合わせ始めるぞー。っつかお前ら、もちょっと早く来い。流石に今日はギリギリすぎる。特にこれから夏講の話の時期になるんだから。」

業務の監督社員の夏観さんだ。この時ほど、彼に感謝したことはない。歩夢はそっと息を吐き出すと全神経を総動員して打ち合わせに聞き入った。


 「前は5月終盤と、夏休みっていうイメージがなかなか重ならなかったんだけど。ここまで毎日暑いと、夏が現実味を帯びすぎて余計な焦りさえ呼び起こしそうよね。」

打ち合わせの後、各自が黙々と膨大な夏期講習用のパンフレット一式を用意しながらそれなりに作業を進めたところで、りっちゃんが沈黙を破った。

「歩夢の時って、どうだったっけ?」

「うーん。僕の時は割と春の延長戦で肌寒い日々が続いていたので、この時期からそんな先の夏休みのことが考えられるか?!って、正直、戸惑うというより苛立ちがまさっていたかもしれません。」

 第1週で歩夢が弱気になって以降、毎週、アキ先輩かりっちゃんのどちらかが、何かと歩夢に質問を投げかけるようになっていた。これに答えると、その日のテーマの説明や生徒との会話がすんなり行くようになることに気付いたのは最近だ。受験に臨む姿勢という正解のないテーマだからこそ、紋切り型の押し売り文句を何も考えずに天下りさせるのではなく、こういう形で過去の自分を今の自分にすり合わせ、仕事へ活かせるように導く方法があるんだなぁと素直に毎回感心している。そう、素直に耳を傾けていくと、少しずつ色んなことに気付ける。いつの間にか、何かを学んでいる。律が言っていた通り、嬉しい驚きだった。

「そうだよね、そっちの感覚のがフツーだよね。」

「ハィ、今から考えておく意味っていうのは、結局、夏休みになった後になってやっと理解できた気がします。」

「ウンウン、そんな感じか。」

いつの間にか、膨大な書類の山がりっちゃんの前に積み上がっていた。100人近いクラスなので、当然といえば当然の量だ。思わず聞くのもバカバカしいほどわかり切ったことを聞いてしまった。

「りっちゃん、それ、全部運べます?」

「流石に90部を一気に運ぶほどの腕力は私にはないわね。」

そこで、くるっとりっちゃんが振り返り、隣のデスクで雑用バイトをしていた律に声を掛ける。

「ということで、申し訳ないんだけど。律、2限前の休み時間、私と一緒に教室に上がってくれる?社員には私からすでに許可を貰ってある。」

律は、目を輝かせながらもちろんですと頷いた。そうだろう、彼はりっちゃんの元生徒で、大好きだ親衛隊だと恥ずかしげもなく公言しているような人物だ。ただし、本人には直接言えないという、絶滅危惧種のような純情っぷり。

「あの、、、その時、りっちゃんのスピーチ、勉強のために聞いて行ってもいいですか?」

「いいよー。あれ、律のトコは夏期講習の説明は来週だっけ?」

「あ、ハィ。なので。。。」

「おっけー。でも、律なら、参考になるっていうより、生徒の時の懐かしさが湧いてくるだけな気がしないでもないよ?」

「そんなことないです。チューターになった今もう一度聴けば、生徒の時とは別の見方ができるようになってると思いますし。。。」

何としても聞きたいんだと、律が食い下がる。

「うーん、そんなもんかー。ガッカリされたらどうしようって、私の方がちょっと怖いや。ひとまず、よろしくね。私はこれから先に教室に上がっちゃうから、今日はなんか足りないものとかうっかりあったら、助けてくれると嬉しい。」

颯爽と教務室を後にするりっちゃんの背に、「ガッカリなんてするわけないじゃないですか」という鬱陶しいほどの憧れを滲ませた律の視線が注がれる。言葉は無理でも、正直にりっちゃんに対する思いを態度にも出せてしまうのは、元生徒の強みか、いいな、、、と思いかけてハッとした。あれ、今、何て思った。なんで、「いいな」なんて思った。でも、思い返せばさっきの会話の途中、りっちゃんの顔は自分は普通にまともに見れていた。なぜだ?!

なんとなく晴れない気持ちを持て余し、思いっきりアキ先輩を睨みつけるように告げた。

「あ、僕も先に上がります。」

「了解。いってらっしゃい。」

 涼しい顔を返事をした通称王子様の横顔をみて、歩夢は再びイラっとした。そうだ。この人の所為だ。だって、見ちゃったのだ、数週間前の帰りにこの王子様がりっちゃんの胸に顔を埋めているところを。普段は残業しがちなりっちゃんが珍しく仕事を切り上げて、何かの前触れかのように先輩方が二人揃って帰って行った。別に覗こうとか興味本位で後をつけたわけじゃない。アキ先輩の方があまりに業務中に具合が悪そうだったので、家への方角も一緒だから日頃の恩返しに力になれるかなと思って追いかけたのだ。

 そしたら、目に飛び込んできたのがあのシーン。夕日を背景に、ノスタルジックで綺麗な映画のようだった。最初は先輩方だとはわからずに、絵になるいいカップルだなぁくらいにしか思わなかった。ただ、それが先輩二人だと気づいてしまった瞬間、ものすごい動揺が襲ってきて、その後どこをどうさまよったのかわからない。気づいたら、汗だくでいつも通りに自宅の玄関にいた。あの時のえもいわれぬ衝撃と慄きは、未だ歩夢の中でくすぶり続けている。

 そう、あれはただ驚いただけだ。そうに違いない。でも、何で驚いたんだ?二人の阿吽の呼吸の仕事の様子をみれば、ありないわけじゃない。同期の紗里衣やあかりたちも、いつも当人たちに「付き合ってないんですよね?」と聞いている。その度に、「ないよ?」と返されてはいるが、実際のところなんて自分達には分かるわけない。一体なんの可能性についてうだうだと考えているんだろう。

 他にやりようもないので、ため息の代わりに深呼吸に切り替える。以前、チューターとしての生徒との距離感に悩んでいたら、俳優さんみたいな感じだと思って自分をチューターに切り替えて、とりっちゃんが言っていた。チューターの姿に対してお給料を貰っている以上、生徒の前に立ったらプライベートがどうであれあくまでチューターとして振る舞うの、と。

 もう一度深呼吸をして自分の担当教室へ向かう。途中、ふと、 先ほど見たりっちゃんの首筋が思いも寄らずに瞼に浮かんだ。なぜだ。落ち着け、俺には同じ大学の可愛い同学年の彼女がいる。最近、忙しくてなかなかデートできていない。そういえば、サークルの1年の女のコがパフェを食べに一生懸命誘ってくれていた。よし、仕事が終わったら早速、皆に連絡を取ろう。そうだ、最近、らしくもなく真面目に過ごしているから、余計な煩悩がついて回るようになったんだ。しっかりしろ、俺!

 その頃、教務室で男が二人、首を傾げていた。

「ねぇ、律。今日というか最近の歩夢、なんか、、、何かが変じゃない?」

「暑気にでもあてられたんでしょうかね?先週今週と水曜日でバイトが重なったんですけど、その時も、らしくない苛立ち方してたんです。ちなみに今日、アキ先輩は仕事上がったらご飯いきます?」

「今日は、というか今日も、『佳哉と恵叶と愉快な仲間たち』が飲んでるらしいから。行くよ。」

「じゃ、ご一緒していいですか?その時に、悩みがあるのかとかちょっと聞いてみます。」

「そうね、俺も、聞ける雰囲気だったら聞いてみるわ。」

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