要らない武勇伝(3)改
「アンケート回収、しゅっぱぁーつ!って、そんな緊張しないの!!」
のんびりとした時間が流れかけたのを引き戻すかのように、小百合がアンケート結果に怯えるスピーカーを引き連れて各教室へアンケートの回収作業に上がったのはつい先ほど。自分の仕事へのフィードバックをダイレクトに貰えるなんて学生の特権よ?と学生を鼓舞しながら追い立てる姿は、暁史には「小百合らしいなぁ」と微笑ましささえ感じる景色だ。
小百合は今日はこのままこの保護者会部分だけで仕事を終えて帰宅の予定だけれど、暁史はこの後に開催される「体験授業」の部分もチューターとして仕事に入っていた。その資料の準備に取り掛からなくてはと、意図的に印刷機器の並んだ、教務室と講師室に接する小さな一区画に足を踏み入れる。予想通りに、じっとりと自分にまとわりつくような視線がより強くなったように感じ、不愉快ながら安堵する。
「アキ様ぁ?授業の資料なんですけどぉ、サポートとして一部はお作りしましたぁ。こちらにありますぅ。」
ごく自然を装って話しかけてきたのは、紗里衣だ。
「次の体験授業が噂のニシタチ参戦だなんてぇ、滅多にないのでちょっと意外ですぅ。」
そう、次の体験授業は、数学科の看板講師、西橘貴法、通称「ニシタチ」なのだ。「西館貴教」の名で活躍した元アイドルグループ出身という経歴を疑わず華やかな出立に、芸能人経験後に地方の旧帝大卒。なぜここで予備校講師をしているのか謎だが、何の因果か人気予備校講師としてテレビにもしょっちゅう出演しており、メディア認知度はアイドルグループ在籍時より高いのではないだろうか。そんな経歴にもかかわらず、物腰穏やかで誰にも人当たりが良い。写真撮影でさえ柔軟に応じるため、当然、彼が教えに来る校舎はいつも以上に人が多くなり、職員もいつも以上に気合いを入れるせいか、俄然、華が出る。
「紗里衣、先ほど初めてお会いしたんですけどぉ、なんかぁ、芸能人って感じでしたぁ。でも、紗里衣はぁ、アキ様の方がいいですぅ。」
絡みつく視線もこの場への登場の仕方も鬱陶しいほど不自然なのに、恐ろしいほど自然に暁史の背中に彼女の手が添えられる。
「あ、そう?ありがとう。中身、確認するね。」
その手をさっと払い除けようとする暁史を、紗里衣が捉えて離さない。彼女にとっては何度も練習してきたボディタッチ。そう簡単に、暁史くらいは逃さない。そのまま、紗里衣がいつもの上目遣いで言葉を続けた。
「アキ様ぁ?そういえばぁ、真里谷さんってぇ、前面に出て目立つお仕事が好きですよねぇ。紗里衣はぁ、そういうのはぁ、男性の仕事だと思うんですけどぉ。」
前後の脈絡のないまま始まった突然の会話を遮る間もなく、甘ったるい口調が続く。
「死神一族だなんて言われている成金一族のぉ、あんなオバサンなんかとぉ、アキ様はなんで会話しようとか思えるんですかぁ?」
「?!」
「古いブランド品ばっか身につけて、頑張っちゃって、見苦しすぎぃって思うんですぅ。ほんと、ただのオバサンなのにぃ。アキ先輩からもぉ、目を覚まさせてあげた方がいいんじゃないですかぁ?」
笑顔で歌うように呟かれた言葉が嫌にその場に響く。
同時に、暁史の耳が小さな物音を拾った。
多分、これが人生で初めて、暁史が誰かに向けて尖った声を出した瞬間だったのかもしれない。
「気安く触んないで。」
「あ、、アキ様ぁ、、、?」
暁史は自分が凍りつくような声を出していることに気づかないほど必死だった。あの音を、この自分の耳が聞き間違うだろうか。
「アキ様はぁ、、、、そんなことぉ、、紗里衣に言うわけぇ、、、ないですよぉ、、ねぇ?」
今自分が見聞きしたものが信じられない様子で言い募る紗里衣の手を、暁史は乱暴に肩から払って突き放す。社外秘扱いになりそうな資料を印刷機の上からありったけの理性でかき集めると、暁史は教務室に飛び込んだ。
いない。ということは、聞かれた。アレを、まさか、こんな形で。焦りと共に嫌でも思い出すのは、「男性の仕事、かぁ。。。」とぼんやり呟いた小百合の、1年次に初めて聞いた闇色の狂気。
いつになく俊敏に動く職員の熊守を自分の視界の隅で捕らえた瞬間、暁史は全ての感情を押し殺してその場にいるゲストしスピーカーに語りかけた。
「お?アンケートは無事集まったかな?じゃぁ、集計作業をこれから一緒にしちゃおうか。」
いつもと変わらない、暁史の穏やかな笑顔。けれど、資料に隠れたその拳は、爪が食い込みそうなほど握り込まれて真っ白になっていた。
「っフゥ。。。。」
ただただ突っ立って、胸を上下させて繰り返す深呼吸。こんなところで、ブチ切れてたまるか、このワタクシが。咄嗟に校舎裏手の駐車場まで走り去ってしまったことに気づき、ここまで動揺した自分の未熟さが嫌になる。誰に何を言われても動じない強さはもうとうの昔に身に付けたはずなのに。自分でもよくわからない苛立ちに振り回されるように動揺してしまった。学生の柔らかさを求められるこの空間では、想定以上に自分自身が「小百合の、そのまま」だからなのだろうか。
天井を仰ぐかここでうずくまるか、次の体勢を決めあぐねて、小百合はとりあえず自分自身の体を自分の腕で抱きしめた。と、自身を抱きしめられることに驚く。というのも、それは自分の手が空いているということを意味しているわけで、つまりは自分の手に、靴がない、、ということになる。逃げ去るかっこ悪いヒールの音を誰にかわからないまま誰にも聞かせたくなくて、なけなしの根性で取り急ぎ脱いで片手に一束ずつ靴を持って裸足で走ったはいいものの、そういえば途中で何かにぶつかった気がする。
何やってんだ、と自己嫌悪になりかけたところに、何かがフワッと頭にかぶさった。
「おい。さすがに隙がありすぎんだろ。」
揶揄うような囁くようなバリトンボイスに、落ち着いた重くて苦くて甘い、香り。小百合が「たっちゃん」ではなく、「TATSUモード」と呼ぶ方の熊守。シャツごと脱いだ彼のスーツのジャケットが、小百合を頭からすっぽり覆っていた。
「そのままかぶっとけ。」
と、強引に横抱きにされる。突然すぎて驚き、声にならない悲鳴をあげて手足をジタバタさせると、より強く抱き抱えられてしまった。
「っ、おい、暴れるな。裸足で走りやがって、足、怪我して踊れなくなったら困るんだろ。」
何も聞かないという、優しさ。それゆえに、小百合の中で情けなさで募る羞恥心。
「仕事は回ってるから気にすんな。足、洗ってキレイにするぞ。ったく、この除菌殺菌徹底の世の中に素足で歩くなんて正気か、、、」
ぶつぶつ言いながら小百合を抱えたまま移動すると、ストン、と座らせた。途中、ガシャガシャと固いアスファルトの上を何かで引きずるような音がしていたのは、この椅子を足で引っかけて動かしていたからか。
熊守の口調に反してそっと脚を掴まれ、えらく丁寧にパンツの裾がまくられる。
「最低限、水道水とハンドソープ。お宅のように、高級ナントカ水にオーガニック石鹸、じゃないけど、我慢しろ。」
「大丈夫。。。」
できるだけ平静を装って声を振り絞ると、「そこは大丈夫じゃなくてアリガトウゴザイマスだろ」と笑って返される。けれど、小百合には余裕がなかった。何か一つでも言葉に音を乗せたら、とんでもない弱音が口から出てしまいそうで、何も言えないのだ。
黙ってしまった小百合に、熊守がなんでもないことのように質問をした。
「あのさ、あんたでも一人で行くなって止められた国とか、旅行でも仕事でも、ある?」
「、、、ある。」
「あんだ。で、どこ?」
「インド。」
「理由は?」
「治安が、まだ完全に保証できないって、、、」
「へぇ。女性の社会進出度だか地位だかジェンダーだか忘れたが、最新ランキングで、日本はそのインドより下な。」
「?!」
「ただの事実。日本と順位で肩並べてるのは、もはや水道が整備されているかいないかの瀬戸際の国くらい。あぁ、電気もあやしい国が多いか。後はもう、女性を人間にカウントしないと公言しているところかなぁ。」
「。。。。。」
「そういう国で、どんな発言が同世代からがあったって、不思議じゃないと思う。だからこその、このランキングだろ。データの取り方にケチつけてるおっさんどもがいるけど、あながちこのランキングは的外れなんかじゃなくて、いい線を指摘してると思うね。」
「水道が、、、瀬戸際の国。。。」
知らなかった。いや、ランキングが低いことは当然のように知っていたけれど。どういう国が近しいランキングかなんて、目を留めていなかった。
「そう。今、あんたの足を洗ってるこの水道水が、命を左右するほどえっらい貴重で宝のような状況の国と日本は同じ。」
「。。。。」
「あのな、俺だってだいぶ学んだっつーの。」
口調とは裏腹に、大事なものを包むようにそっと洗われていく。けれど、洗い流す水の冷たさに耐えきれず、小百合は思わず声を出した。
「冷たっ。。。」
「あったりまえだろ。水が冷たいことが、どれほど恵まれた状態か感謝しとけ。」
片方の足を洗い終えると、そっとタオルで拭って、もう1つの椅子に小百合の足をおく。そして、もう片方を同じように洗い始める。綺麗になっていく足とリンクするように、心が徐々に軽くなっていく。
「勘違いすんなよ。」
「?」
「抱いていた期待感が破られた苛立ちと、自身の過去との折り合いへの焦燥感を、勘違いすんな。」
期待を、、、していたのだろうか、気づかないうちに。自分と同じような人間ばかりに囲まれていて、あるいは、自分を気遣ってくれる人が当たり前のようにいる環境に慣れてしまって。この身近な世界にさえ違う考え方をする人がいるということを、知っていつつもどこか遠くの国のことのように感じてしまっていたのだろうか。だから、現実を突然目の前に突きつけられて、こんなにも揺らいだのだろうか。
「それに、な?」
彼の声が、嫌にその場に響いた。
「どんな理由にせよ、あんた自身を打ち負かすのが俺以外にあってたまるか。」
ガシッと足を掴まれる。と、ずぶ濡れの足に、水とは違うひんやりとした何かが触れた。
思わずかぶっていたジャケットを振り払うと、目の前に、掴んだ自分の足に口づけながら凄絶な色気を称えた瞳で自分を見つめるTATSUがいた。
「ふざけんな。やっと、ここまで来たんだ。あんたの横の、あの場に立つのは、俺だからな。」
「っっな、何を。。。」
「簡単に揺らぐんじゃねぇよ。」
「ちょっと、、、、!!」
「そのまま、ジャケットかぶっとけ。だいぶマシな顔になったじゃねぇか。」
カタンと、駐車場の扉が音を立てる。
誰か、来たのだろうか。と、聞き慣れた声が、小百合を小百合へと引き戻した。
「あぁ、もしやこの靴は、あなたにぴったりでしょうか。まさか、あなたこそが、僕の探していたシンデレラ!!」
小百合の担当生徒の、自ら専属だと宣言して止まない高遠翼だった。出入り口からスタスタと歩いて小百合のところまでくると、恐ろしいほど自然に小百合に靴を履かせようとする。
「りっちゃぁん?その男の言うことなんか、聞かなくていいよ。ほら、、そんなこぎったないジャケットなんかやめて、かぶるのなら僕のにしなよ?あ、靴はここね。え?ちょっとそこでうっかり拾っちゃったの。なんとなく気分が悪かったから、わざわざ僕の手持ちのハンカチで磨き上げておいたからね?」
ここは、生徒は立ち入り禁止区域のはずなのに。
自習室の帰りに寄っただけだからとくったくない笑顔で言われてしまえば、それ以上小百合には突っ込めはしない。本来、なんで靴を拾ったのとか、そのセリフ何とか、一から聞かなくちゃいけないことが色々どうでも良くなってしまった。さすがに靴は自分ではけるからと翼に断りを入れて慌ただしく自分で靴を履き、熊守に礼を告げてジャケットを返す。翼には重ねてお礼を告げて飛び出した小百合は、二人がその後、こんな会話をしていたことを知らない。
「おっさん、ナイス。けど、抜け駆けはね?」
「うるせーよ、ガキが。」
「あれぇ?本性出しちゃって、いいの?せっかく、『モブの熊守さん』演じてるのに?」
「高遠ン家のガキには今更だろ。」
「まぁ、兄がお世話になりましたしね、一応。」
「とりあえず、サンキュな。靴、助かった。」
「え、なんかお礼言われると不愉快。ただ、やだったんだもん。絶対に近づけないでよ?アレを。」
「善処する、としか言えねぇわ。お前からアキサマにでも言っとけば。」
「もう言ったもん、さっき、アレから靴を奪ってきたときに。けど、アキさん、なんとなく笑うだけだったから。だったら、僕が見張った方が全然マシだよ。ほんとにもぅ、覚悟足りないんだよ。。。」
そこで一度、翼が熊守を睥睨すると意地悪く、笑った。
「ところで、その身体、現役時代より絞れてる?」
「おお。この職場がブラックすぎて夜の付き合いないしね。仕事して練習がてら踊ったら、それ以外修行僧みたいに何も無ぇし。TATSU様と呼んでも良いんだぞ。」
「その割には、りっちゃんにはTATSU様の渾身の色気の1ミリも通じてなかったよね。カッコ悪ぅ。」
「そりゃ、あの環境でアイツが麻痺してんだろ!!」




