お目覚めですか?(2)
暁史がやっとの思いで仕事をなんとか定時で終えて校舎を後にすると、小百合が同じよう仕事を切り上げて追いかけてきた。日頃、生徒対応を目一杯する所為で残業しがちで、生徒のこと以外興味を示しもしない小百合にしては珍しい。
彼女は自分の横に並ぶと、おもむろに訊いてきた。
「あのさ、今日はタクシーで帰った方がいいと思うんだけど。」
「幾らかかると思ってんの。バイト代、飛んじゃうでしょ。」
「お家の人に迎えにきて貰えたりしない?」
「まさか、小百合じゃあるまいし。大丈夫だって、このくらい。ちょっと疲れが溜まっただけだから。」
「じゃぁ、せめて原チャのところまで、一緒に行く。」
小百合は言い出したら聞かないし、自分にも嫌だと断る理由もない。
「原チャのところまで、だからな?」
念をおしたのは、なんとなく小百合に私生活を見せたくない暁史の意地でもあった。
「うん、それでいい。」
仕方なく、ひたすら無言で駐車場までを歩く。一緒に仕事をして3年目。仕事は阿吽の呼吸で、自然に名前を呼びあっていても、実はそんなに互いのことを知らない。それでも、言葉を交わさないこの空間が苦痛じゃないのが不思議な間柄だ。
今日は体調が優れないせいか、この無言の空間に小百合の優しさを感じてホッとする。何を話すでもなく、誰か生徒にでも見られたら面倒だなぁと余計なことばかり考えていると、あっと言う間に駐車場の自分の原チャのところに到着した。
「これだから、俺の。」
暁史は自分でも驚くほどぶっきらぼうに自分の原チャの存在を告げると、いつも通りに腰を下ろす。と、頷いた小百合が、突然身をよじらせて自分の名前を叫んだ。
「アキフミっっっっ。」
なんだろうと思う暇もなく、あっという間に自身の全ての感覚が闇の中に飲み込まれていく。グっと詰まるような衝撃の後にふっと温かさを感じたのを最後に、暁史は完全に意識を手放していた。
「―――――。。。」
小百合の声が、驚くほど優しく降ってきたような気がした。
そっと身体を包み込む軽やかな何かを無意識で手繰り寄せると、暁史は綿あめのような柔らかい何かに顔を埋める。思い切って深く息を吸い込むと、森林の中にいるようなホッとする香りが安心感をもたらしてくれる。自分の体が覚えている中で一番リラックスできる自身の体温の温もりにただ幸せなだとシンプルに思うのは一体どれくらいだろう。そっと瞼を開けると、部屋いっぱいに溢れる朝陽が穏やかに自分に歓迎の挨拶をしてくれた、、、、って、三流小説の冒頭のような景色に狼狽した。
ちょっと、待て。ここはどこだ。
急速に心拍数が上がる。どこにいるんだろう。中世ヨーロッパのような作りの部屋はまったく覚えがない。ふと自分を見ると、明らかに肌に吸い付くようなしっとりした素材のパジャマにちゃっかり袖を通していた。着たことがないからわからないけれど、恐らく絹とかそう言った類の素材なんじゃないだろうか。自分の所持品にはあるまじき一品だ。
まさか流行りの異世界トリップものの小説じゃあるまいし、うっかりまだ夢の中にいるんだと月並みに思うのが今の精一杯。確かこう言う時はもう一度寝てみるといいはずだ。それしかない。どうか、どこか竜退治に行かずに済みますように。目を閉じると、やけに現実的な考えが浮かび上がった。想像し得る限りの最悪な事態だ。まさか、、、、、自分の臓器が無事でありますように、、、。
「おはようございます。高村様、お目覚めでございますか。」
突然人の気配がした恐怖心を必死で隠して声がした方を振り返ると、優しそうな雰囲気の女性が微笑んでいた。おそらく、自分の母親と同じ年齢くらいだろうか。悲鳴をあげなかった自分に、最大の賛辞を送りたい。
「ゆっくりお休みになられましたか?」
返事をする余裕などない。声が喉に引っ掛かったような感覚だ。
「ご安心下さいませ。小百合お嬢様からお話は伺っております。ご学友の方々もゆっくりされていらっしゃいますので、1時間後くらいにブランチにてみなさまお揃いになるかと思います。隣にバスルームがございますので、ご自由にお使い下さいませ。一通り揃っているかとは思いますが、他にも何かご入用のものがございましたら、こちらの呼び鈴でお申し付けください。」
呆気に取られていると、そのまま「失礼いたします」と女性が退出してしまった。
とりあえず、ここが小百合の家らしいということはわかった。つまり、どこか異世界で冒険に出る必要も、臓器を売り払うような非合法な生命の危機も、うっかり最終的に高額な宿泊料を払ってお財布の破綻も感じる必要はない。その事実からもたらされた安心感で、暁史は自分自身を少しずつ取り戻して行く。
しかし、「ご学友」って誰だ。そもそも、何があった。というか何なんだこの部屋は!同期内で小百合が姫と常々呼ばれているのを、知らなかったわけではない。ちょっとした仕草や振る舞いが、厳しい両親のもとで育ったんだろうなと何度か思ったことがないわけじゃない。先輩方の囁きから、金銭的余裕を感じて勝手な想像をして嫉妬したことがないわけでもない。が、このベッドの側にある明らかにアンティークなランプ1つで、自宅の自分の部屋にある家具全てが買えそうな気がする状況。幾ら何でも、スケールが違い過ぎないだろうか。
悩んでも妬いても事実が変わるわけではない。仕方ないので、暁史はその場に流されるという特技を発揮して、言われた通り隣のバスルームへ向かった。 何のハリウッド映画のセットの中かと突っ込みたくなるいちいちヨーロッパの貴族の館のような調度品や装飾に呆れながら、今の自分にできる全てのこと、つまり記憶を掘り起こしながらシャワーを浴びることにしたのだ。
着ていたスーツが見当たらないが、代わりに自分のサイズと思しきジーンズやシャツ類に新品の下着までが一式用意してある。一体どういう家なんだここは、小百合は姫超えて女王か何かかと毒づきたくとも、何もかもお世話になっている以上何も言えない。半分自棄になりながらもちゃっかりお風呂を堪能し身支度を整えてソファで一息をつくと、「ご案内いたします」と少し年上の男性に声を掛けられる。この男性はいつからそこにいたんだろうか。考えるのも馬鹿らしくなって、暁史はついに思考を放棄した。もう、なるようにしかならない。
長い廊下を、男性に誘導されながら黙々と歩く。調度品の数々に目を奪われていたのは最初のうちだけで、時間が経つとほぼ自然体で受け入れていく自分に対して恐ろしさを感じてしまう。それだけ、違和感を感じることなく全てが完璧に設えられた空間だった。気が遠くなるほど足を進めている時間を長く感じたのは、心理的なものだったのか、それとも物理的に距離があったのか。わかりたいような、わかりたくないような曖昧な感覚だけがもどかしく暁史の中に残っていく。
どうやら目的地までたどり着いたのかなと足を止めた時には、この空間に対する名残惜しさだけが鮮烈に芽吹いていた。




