歪んだ欲求(2)
「たっちゃーん。ごめん、これ、助けて欲しいんですけど。。。」
教務室中によく通る小百合の声で、氷っていた空気が助かったとばかりに霧散していく。
「小百合、ほんと、たっちゃんと仲良いよね。」
プランニングシートを提出するついでに珍しく平日のバイトに入った暁史は言いながら、なんとなく気に入らない思いを持て余していた。今日は、小百合がいる水曜日だった。
「うん、たっちゃん、すごい人だもん。」
「小百合はそう言うけど。。。」
暁史の言葉をまるっと無視して、さっさと小百合はチューター業務に入ってしまう。
「たっちゃん、ここ、この保護者会希望リストの打ち出しなんだけど、間に合うかな?」
目の前では若手の社員が、小百合に何かを教えている。その反対側の隅では、苛立ちのぶつけ先を失った他の社員が、忌々しそうに舌打ちをしてタバコ部屋へと向かって行った。これが何なのか、きっと小学生の目にもわかる。
小百合が「たっちゃん」と呼ぶこの社員は、昨年から38歳で契約社員として働き始めた。これが初めての会社員生活だと本人は緩やかに笑って自己紹介していたのが、チューターの誰にも衝撃を与えた。いろんな生き方があると言う例をアタマで理解していても、大学に入って就活して就職して、と言う典型例以外を現実として目の前にして、心で現実味をもって感じたものは別だったのだ。昨年に引き続き、今年も高校生クラスの方に配属されて、生徒指導ではなくチューター系の事務方の仕事を一手に引き受けている。
熊守龍之介。名前の雄々しさに反して、線も細くいたって穏やかで気性は限りなく優しい。女子とスイーツ話をしている時が一番楽しそうと言う風情だ。今時あり得ないほど野暮ったく大きなメガネが、鬱陶しそうな前髪とともに俯けば顔を隠してしまう。仕事は丁寧で、誰かと特に親しいと言うわけではない。強いて言えば、社員よりはチューターたちとの方が距離は近いだろう。何もかも、ちょっとだけ他の社員の「普通」と違うから、簡単にターゲットになってしまった。
「あ、そこで、そういう式を組むんだ?」
多分、あれはエクcルの関数かなんかの話だろう。小百合が真剣にPC画面を睨みながら、尋ねている。
「そう、で、ここでこうやって、、、、ほら、出来た。ね?間に合うよ。」
小さい声で囁くように喋る彼を横で見ていると、確かにイラっとしないわけではない。
「小百合ぃ?そろそろ教室あがるよー?」
恵叶の声に、小百合が明るく答える。
「はーぃ。あ、たっちゃん、あと、ここも間に合わなそうなんで、お願いしてもいいかなぁ?」
この瞬間、タバコ部屋へ消えた社員を常に取り巻いている他の社員が舌打ちをした。おおかた、自分たちが雑用を押し付ける機会を失ったからだろう。
「うん。。。」
相変わらず小さい声で返事をした熊守に、暁史は声をかける。
「たっちゃん、こっち終わりました。次はどうしましょうか?」
「あ、じゃぁ、こちらの配布資料の確認と。。。」
ふと暁史が影を感じると、校舎長が横にいた。
「あいっかわらず、声が小さいねぇ。」
トゲを感じる物言いだった。
「学生に庇って貰うなんてねぇ。これだから、定職についてこれなかったのかねぇ。」
熊守は何でもないように、そのまま仕事を続けている。
「この間の、あの、会議資料。せっかく頼んだのに、全くどうしようもないから、俺が手を加えざるを得なかったよ。次こそは、頑張って作ってくれよな。金曜日までに出せるな?」
視線、視線、視線。直接ではないけれど、ほぼこの教務室全てから自分に刺さるかのようにまとわりつく視線。そして、誰も関わりたくないと言わんばかりの、冷たくなる空気。どうしてこうなったのか、元凶がいとも簡単に明白になる発言。週1、2回、たった数時間勤務するだけのチューターでさえ、聞き慣れてしまうほど聞いたのだ。毎日顔を突き合わせて四六時中一緒にいる社員なら、「彼はこう扱っていいんだ」という洗脳レベルまで聞いたのではないだろうか。
「返事が聞こえないねぇ。。」
教務室に再び広がった空気は自分の味方だといわんばかりに言い逃げした校舎長の背中にさすがに苛立ち、暁史は思わず熊守に声を掛けた。
「言い返さないんですか?」
思いもかけず凪いだ表情で彼が、やはり小さな声で答える。
「同じ土俵に立つ必要はないよ。」
変わらず穏やかな声なのに、その答えがまったく別人のように聞こえて、暁史は妙な違和感を覚えた。
「あー。あっきー。ちょっとこっちにきて、件のクオリティコントロールの結果に目を通してくれるかな?」
夏観が自分のデスクからお構いなしに暁史に声をかけた。暁史の中ではその違和感の正体について考える時間がなく、うやむやになってしまう。
言っておいでというように小さく頷いた熊守に甘えて、夏観のデスクへ向かった。
「実施したんですか?」
「うん、衝撃の内容よ?」
「、、、、、覚悟して見ます。」
「そうね、ちなみにその内容を資料にしたのは、熊守だからね。」
「え?」
「見たらわかるさ。まぁ、とりあえず目を通して。」
どんなに酷い感想文かと恐る恐る読み始めた暁史は、再び違和感に苛まれた。理路整然とした体裁、一切の否定を許さないほど理論的に組み立てられた現状報告、少しの努力を積み重ねれば改善に向かうと思わせるトレーニングプラン。人材育成の教科書のような、それでいて優しさに溢れたレポートだったのだ。まるで、これまで何人も育ててきたシニアが書いたような完璧な、これならクオリティコントロールなんぞと言うほぼ形骸化していた昔の仕組みを引っ張り出しただけあると肯けてしまう内容だった。そう、「これでダメなら、しょうがないよね」、と。
「え?また絡んだの?あのクソジジィ。」
「りっちゃん、ちょっと、聞こえちゃいますから。。」
教室から戻るなり、教務室で平然と小百合が口にした。思わず、後輩が諫める。
「なに言ってんの、。まだ言い足りないって。って、聞こえたら、なんか悪いわけ?」
「いや、そう言うつもりじゃ。。。。」
「だってさぁ。毎月どこかで学校でのいじめが云々っていうニュースが出て、『誰かに頼れば』みたいなことを偉そうに識者とやらが口にするけど、じゃぁ、そういうオトナは何なんだってハナシでしょ。これ。ね?恵叶?」
「教育産業の現場では、特に指導する側の人間の仲には目にしたくないとは思う。」
苦笑いをしながら、恵叶が答えた。
「よくも悪くも、社会人って偉そうに見えて所詮は私たちと同じただの人間だから、聖人君子であれと求めるわけじゃないけどね。見てて気持ちいいものじゃないわよね。」
「その、、、世間で話題のパワハラっていうものになるのかなと思わないでもないですけど、社員さんの中での話ですし僕らは関係ないのではないでしょうか。。。。」
「見て見ぬ振りした時点でなんかあったら私たちも加害者になるんじゃないの?」
小百合は、容赦無く追い討ちをかけた。
「だいたいして、パワハラ、セクハラ、マタハラ、、あと何があるっけ?モラハラ?アルハラ?それなにオイシイのってハナシ。」
「はぁ。。。」
「ネイティブでもないくせに英語を適当にもってきてカタカナにして、お気軽に省略して振り回した時点で言葉が本来持ってる意味が死んでるっての。『権力を使った嫌がらせ』、『性的嫌がらせ』、『妊娠出産に関する嫌がらせ』、『倫理観欠如による嫌がらせ』、『アルコール飲料強要による嫌がらせ』。きっちり日本語にしたら、かなりの破壊力がある言葉でしょう?最後の『アルコール飲料強要による嫌がらせ』なんて、犯罪の匂いしかしないでしょ。」
「。。。。。」
「人が嫌がることはしない、自分がされて嫌なことは人にしない。幼稚園児が『しちゃダメよ』って言い聞かせられるような人間として基本的なことを、オトナが嬉々としてしてるってどういうお粗末な状況。で、嫌がらせでもイジメでもなく、なんとかハラ。なーにが、最近はいろいろ難しいね、だ。言葉に惑わされて本質見失ってますって言う恥ずかしい宣言でしょうが。」
パンっとデスクに資料を置くと、そのまま小百合は鼻息荒く続けた。
「と言うことで、綺麗事だと言われようと、このまま黙って知らん振りするかっての。自分の未来の数年先に同じような日常が普通にあって欲しいならいいけどさ。私はイヤよ。だから学生のただのバイトの身分だからこそ、見過ごすべきじゃないと私は思うの。」
勢いに飲まれて虚ろな目になった後輩に、恵叶がフォローを入れた。
「関わりたくない、自分は面倒ごとに巻き込まれたくない、だって、そのためのバイトの身分だからって意見があるのも、理解の上でね。どう言うスタンスを取るか決めて取るならいいんじゃないの。その場の雰囲気に流されて気づいたら加害者一同になってました、ってのは避けよう、と言うか。」
「恵叶、甘いよー。」
「小百合、私が甘いならあなたは熱いになるわよ。」
「なんでよぅ。。。って、暁史、なによぅ。」
「え?俺?」
思わず耳を傾けてしまっていた暁史は、突然名指しされて驚いた。
「そ。だって、資料握ったまま、こっち見てるんだもん。」
「いやぁ、小百合って生徒以外のことも考えられるんだなぁって。。」
「え、どう言う意味?!」
非常に不服である、と顔に書いたまま小百合がむくれた。
「ま、そういう意味でしょ。さて、小百合も暁史もそろそろ業務に戻る!今日はいっぱい配布資料あるんだからね。」
さてこの話題はここでオシマイとばかりに切り上げた恵叶に、小百合は渋々ながら相槌を打つ。
「はぁい。。。。」
フゥッと吐き出される空気に、緩めたタイ、第二ボタンまで開けたシャツ。首を左右に振って緩慢な動作で体の緊張をほぐすと、グッと胸を張って鬱陶しい前髪も一緒にかき上げてしまう。いつもの自分の体に戻ったようで、もう一度深呼吸をする。そこに教務室での頼りなさそうな姿は無く、むしろどこか傲慢ささえ感じさせる逞しい姿があった。パッと確認したスマホの着信履歴にげっそりすると、さっきの教務室のやり取りが余計に頭を過ぎる。
「綺麗事、ねぇ。。。。」
思わず、口元が綻ぶ。このままでは、休憩所でにやけている危ない人になってしまう。
「相変わらず。威勢のいいことで。。。」
自分自身を誤魔化すように独り言を落とせば、やっぱり笑みがこぼれてしまう。
思い出すのは、初めて出会った日のこと。
「未来が見えない顔してる無駄に歳とった老害が、未来ある若者を評価するなんて、どこでも一緒なのね。」
涼しい顔をして審査員控え室でブリザードを吹かせた神経は、今も健在ってことだろう。擦れずにブレずに自分を貫くには、よほどの根性が要る。
「あぁ、あれが一応の審査員長?報酬次第って噂の、、ねぇ。」
囁くように、聞こえるように呟かれた一言で逆上した時点で、自分の負けだった。
「どうりで、つまんない顔で、つまんないダンスを参考例だと披露してくれたわけ。つまんない人生なのは自分のせいなのにねぇ。」
好きでお飾りの審査委員長をしているわけじゃない。好きで、ここの振付をしてるわけじゃない。自分だって、本当は、、、本当はどうだったというのだろう。全て言い訳でしかない叫びを楽しそうに笑われて、掴みかかって、平伏した。
小さな顔、鍛えられたバランスの良い体躯、ドレッシーなパンツスーツに、踊れるヒール靴。射抜かれるかと背筋が凍るほどの力が宿った瞳に手が届く前に、横にいた警護員に簡単に手を払われたのだ。
「あなたの自分勝手な後悔で、若手の未来を曲げないでくれる?」
若手の登竜門とは言いながら買収騒ぎが絶えない賞レースは、何度となくスポンサーから苦情が入っていたけれど。覚えてしまった甘い汁を手放すには誰もが惜しくなってしまった頃合いに、スポンサーの次期総統括・現副統括が直直に乗り込んできたのだ。
言うだけ言って呆然としたままの審査員を放置すると、候補者たちの控室に爆音をかけて飛び入り参加して、勝手に踊り始めてしまった。たった1年少々の経験だけだと言うダンスは、正直拙くてどうしようもないとも言えたけれど、見てるすべての人間に楽しさが伝わるような、パワーも笑顔も溢れるような出来だった。そこで候補者たちがリラックスしたまま一緒に笑顔で踊っているのを見て、今をただジャッジすることと、今ある素材の中から何かを引き出して可能性を見極めることの違いをまざまざと見せつけられた。自分たちが手元に元々置いていたスコア表と、その後に改めて公平に出た審査結果との違いが、そこにあった。
自分だって単身でニューヨークに渡り、極めてきたつもりだった。踊り尽くしてきたはずだった。だけど、どこで分かれ道を選んだんだろう。いつの間にか、踊って魅せていたつもりが、踊らされていただけになっていたなんて。
どうやったらもう一度、彼女に会えるのか。必死で探した結果、手っ取り早かったのが今のこの「契約社員」だ。30台後半まで会社なんていう組織で働いたこともないのに、よくもまぁ通ったと思う。余程の人材難かブラックなんだろうと言う想像通り。けれど、バカにされようが嫌がらせのターゲットになろうが、正直、彼女のそばで彼女の仕事を見れる貴重さに比べたら、大したことがない。ここで再会した初日に意味ありげに視線を投げかけられて以来、自分の選択に間違いはないと思えるのだ。そして右も左もわからない世界で、使ったことなどなかったPCを駆使し、凝り性と負けず嫌いが功を奏してそれなりに仕事を丸投げされるようになったころ、「すごいじゃん」と言われたあの瞬間、自分のダンスが無味乾燥になっていた理由が見えたのだ。向上心も、新たに何かを取り入れて四苦八苦する苦味も、できないことに理解する歩み寄りもない踊りや指導に、何の色があったと言うのだろう。
「 〜vvvvvvv vvvvvvvv 」
諦めないと言う宣言のように、しつこく電話が鳴る。仕方なく、出ると案の定だ。
「TATSUさん、やっと、、、やっと繋がった。。。」
「あぁぁ?」
不機嫌を隠さずに答えると、焦ったようにまくしたてあげられる。
「戻ってきてください。やっぱりTATSUさんに教えていただきたいんです。」
「うるせぇ。」
「戻ってくださるまで諦めません。やっぱり、あなたのダンスじゃないと、表現できないものがあっ、、、、」
「それどころじゃないんでね。」
プツっと強制的に電話を切る。今は、自分にとっては本当にそれどころじゃないのだ。
「オバサン、ねぇ。よく言うよね。。。」
目先の不愉快さは、自分への嫌がらせなんかじゃない。
気に入らない人間への昔の自分の所業を思い出せば、うっかり冷気をまとって笑ってしまう。
「さて、どうしようかねぇ。」
いつかの誰かと同じように呟くと、だるそうに時計を見て深呼吸する。続いて前髪をおろしてメガネをかけ、体を内側へとまるめ、姿勢をやや前傾にして身体中の筋肉から力を抜く。雑っぽい雰囲気が抜け、弱気で頼りなく柔らかい雰囲気が戻ってくる。くだらないこの狂想曲を踊らせるステージは順々に整えてきた。後は、誰がファーストステップを踏むかだろう。
「くっだらねぇな。」
行儀の悪い舌打ちとともに独り言ちると、そっとその場を後にした。
普段なら気づいていただろうに、この時、熊守の様子を見ていた人間がいたことに気づかなかったのが、少々の誤算だろう。それほどに、小百合と働く暗い悦びに浸っていたことは否めない。




