歪んだ欲求(1)
「あれぇ?おさゆも今日、出勤だっけぇ?」
わざわざ講師用の裏口からこっそりと気配を消して教務室に入ってきたのにも関わらず、目ざとく小百合を発見した湊先輩の場違いにのんびりした声が、案の定、雰囲気をぶち壊した。小百合にとって居心地が良くないこの月曜日には、ただでさえ近寄らないようにしているというに。その元凶の1つは、今、小百合の目の前で特上の笑顔をふり前いているこの男。
高遠湊、工学部化学科4年。 過去には実際に雑誌の専属モデルを経験したこともあるだけあって抜群のルックス。誰もが憧れる受験上位校ほぼ全ての合格を現役で制覇した頭脳もある。小百合と暁史が新入生の時に同じ曜日のシフトの先輩として色々と放置プレイという名の指導をしてくれた人でもあり、独特の世界観からくるセンスで常に抱腹絶倒の楽しい時間をたくさん経験させてくれた人でもある。そのことには感謝している。
ただ、人間としては最低の部類だと小百合は思っている。まず、彼の笑顔は抜群に冷たい。暁史のその場を納めるような笑顔と違って、相手と自分の境界線をはっきり引くための「近寄るな」と言う声が聞こえそうな笑顔なのだ。小百合には、疫病神にさえ見えてしまうのだが、この過剰な笑顔に流し目線を加えると、通常は女子に対して絶大な破壊力を発揮するようなのだ。一体どれほどの女子が彼の一時期の気分のためにその無責任な笑顔の生贄になったのかなんて、もはや考えたくもない。そして最後に、とにかく、全てにおいてユルイ。
「ちょっと、シーって。湊さん、声が大きいってば。」
「え?なになに?おふみ、呼ぶ?」
完全に面白がり始めたこの人を止められる人を、小百合は未だ知らない。小百合だからおさゆ、暁史だからおふみ、時代劇っぽくていいね!と言う展開で初年度の初日から始めたこの呼び方を未だにやめてくれていない時点で、ある程度の覚悟はしているのだけど。
「夏期講習のプランニング表のドラフト、今日まででしょう?先週土曜に出せなかったから、出しに来たんです。どうせ湊さん、締め切りなんてぶっちぎる気でしょうけど。」
「あぁ、そんなんあったっけー?」
完全に営業スマイルで知らないふりを決め込む湊先輩に、小百合も特段驚きはしない。この人は、こう言う人だから。
夏期講習のプランニング表とは、各チューターが夏期講習をどう活用するかをカレンダー形式でまとめた参考例のことである。自分たちの過去の反省などを踏まえながら、その年に開講される授業を用いて受講計画が作成されているため、生徒にとっては1つの指針になり、アカデミー側にとっては講習を受講して貰うための販促資料の1つになる。実際の申し込みはまだまだ先だけれど、こう言った資料の準備はかなりの前倒しで行われるのだ。
「取り敢えず、私は出しました。ので、他に用はありません。ということで、さっさと退散しますから。」
自分以外「も」出勤していると言う最初の一言が気になったが、それどころではない。三段構えで言葉を畳み掛け、面倒ごとを起こされる前に逃げなければと講師用の裏口に向かう通用口への扉に手をかけると、まさか、けれどどこかでやっぱりと思う通りに、叫ばれた。
「おふみー!おさゆがめかしこんでないよー?姫なのに、おかしいよー?」
どうでもいい、はっきり言って中身のない非常にどうでもいい発言内容だ。だから、逆に聞いた人はなんのことかと興味を持ってしまう。暁史がゲンナリしながら答えた。
「湊先輩、その呼び方、ほんっとにやめて下さい。何より、さっさと業務に戻って下さいって。この曜日の仕事内容のクオリティ、他と比べるまでもなく生徒に申し訳ないレベルなんですから。」
「えー。つれないなぁ。俺はちゃんと仕事してるけど?」
ほら、と言って抜群の笑顔を向ける。無駄にキラキラしているこの感じは、何かを誤魔化したい時や逃げたい時に湊が使う極上に胡散臭い笑顔であることになど、暁史も小百合もすっかり慣れてしまった。
「つれなくてけっこうです。湊先輩が実はクラス運営はちゃんとしていることは知っています。だけど、それだけじゃダメだってお伝えしましたよ。小百合、悪霊に祟られる前に帰った方がいいよ。」
呆れるように告げて、暁史が湊さんを強引に引きずっていく。
「うん、助かる、サンキュ。」
「ちょっとちょっと、おさゆもおふみも、二人を育てた恩のあるはずの湊さまに何と言う仕打ち。それに、おさゆを祟ったら、返り討ちにあった挙句に末代まで不幸が起きそうだから、絶対しないって。」
「先輩、論点そこじゃないでしょう。ほら、早く。戻りますよ。」
暁史はなんだか後輩といより湊先輩の介護要員だなぁと思いながら、小百合は彼らの背中を眺めて来た道を戻り、アカデミーの校舎に横付けしたあったいつもの車に乗り込んだ。
元凶2つめのうるさい下級生には会わずにすんだと言う点では及第点。心底ホッとしてしまった自分の器の小ささが悲しい。小百合だって、「オバサン」と言われ続けるのは心外で、気持ちがいいものではない。その上、そんな応酬を運悪く見てしまった後輩たちの気まずげな雰囲気の醸し出す居た堪れなさと言ったら。ため息まじりにいつものように自宅へと運転席へお願いをすると、横に座った小百合の警護担当が笑い声を抑えて呟いた。
「たまには、実際のご年齢相応に、はしゃがれるのもいいと思いますよ。」
どう言う意味だとは問い返さない。無言で窓の外の流れる景色を見ることが、精一杯の小百合なりのいつもの意地だ。ただ、何のための意地なのか最近よくわからなくなってきた事が、落ち着かない気分にさせるのは何故だろう。
小さな顔に生える、ブラックのベースボールキャップ。ぴったりした細身のブラックジーンズに、同色の大きめのフーディー。足元は、流行りのゴツめのカラフルなスニーカー。大きめのボストンバッグには、もはや何語用だか周りにはわからない大きな辞書が無造作に詰め込まれている。とんでもなくカジュアルな出で立ちなのに、スーツ姿の湊さんやアキ様と並んでも、恐ろしいほどに違和感がない。さっき彼女が来ていたとか、私服がどうだったとか、同期の男子たちが馬鹿みたいに騒いでいる。たった5分にも満たない滞在時間でも、彼女がそこにいた余韻がこんなにも強く残っている。
ギリっと唇を噛む。彼女が持っていたバッグは、またこの前とは違うモノだった。多分、今日のは垂涎もののヴィンテージだ。最近出た復刻版ではなくて、本当に販売当初当時のものを使い込んだように見えた。大学の仲間内でも話題になっている逸品で、SNSで探し出して、雑誌でも確認したから間違いない。
ふと、自分が入学祝いにと無理を言って両親に買ってもらったバッグのことを思い出す。今の最先端の流行モノだと同級生の皆でお揃いで履いているヒール靴も、着ている凝ったデザインのスーツも、思い描けば全部ピカピカしているのに。流行りのメイクで仕上げた顔も誰もが可愛いと褒めてくれるのに。誰もが羨望の眼差しを向けるようなサークルにだって入れたのに。あの人に会うと、自分の全てが色褪せていく錯覚にとらわれて身動きができなくなる。惨めな気持ちさえ、湧いてくる。
赤波紗里衣、文学部英文学科1年。誰もが憧れるトップの大学に現役合格して、晴れてこの4月から念願のチューターになった。自分で鏡で見ても、それなりに遠慮がちに表現したとしても、小柄で目が大きくて、小動物系の可愛いさで、ちょっとフワッとしていて、多分、大学でも華やかな方だと思う。母親が紗里衣をずっと可愛い可愛いと言ってくれていたのが、最近やっと分かった気がする。高校までは女子校の中で勉強ばかりでどうかなと思っていたけれど、大学に入ってからびっくりするくらいたくさんの人に声を掛けて貰って、キラキラした毎日を過ごせているのだ。
「赤波さん、これ、ボーッとしてないでちゃんと確認して。今日の資料だって。アキさんから、渡すように頼まれたんだけど。」
バイト要員で月曜に出勤している同学年の歩夢が、事務的に書類を預けてきた。これが紗里衣には気に入らない。ここ以外では、もっと皆キラキラした目で自分を見たり、もっと柔らかい声で優しく話しかけてくれるのに、ここだと自分はそこらへんの石ころみたいに扱われそうになるのだ。それもこれも、野暮ったいあの3年が女子扱いされている所為だと思う。
それに、当初あの上級生4人に反発していた歩夢の勢いはどこへやら。今ではすっかり彼らを憧れの目で見上げる集団の一員に成り下がっている。
「ふぅん。わかった。」
歩夢の手を振り払うように資料を受け取るだけ受け取ると、アキ様に何か質問できる箇所がないかチェックしてみる。が、簡単に見当たりそうにない。打ち合わせでは、どこが大事だって言ってたっけ。アキ様から、自分が聞いていなかったとは思われたくない。こっそり同期のメモを盗み見て、その場を凌ぐしかない。
声のする方をそっと見上げると、湊さんとアキ様が何やら楽しそうに戯れている。高校生クラスに在籍していた時、何度、クラスの女子たちとこの2人へ向けて黄色い歓声を上げただろう。たまに目があったり、質問したりすると、「紗里衣ちゃん」と温かい声で呼んでくれたのに。親にお願いして無理してチューターになって、同じ曜日に配属になって、天にも昇る気持ちだった。今度は後輩として、どんなに甘く笑ってくれるだろうと期待を膨らませ、会える日を心待ちにしていたのに。実際に目の前にした2人は、驚くほどそっけなかった。二人とも、自分が生徒だから公平に全く同じ笑顔をくれていただけだったなんて、知りたくなかった。
嫌でも思い出すのは、チューターの採用者説明会での光景。他のやっぱり気に入らない3年生2人が考え事をして、あの女がそれを茶化し、それをアキ様がなだめに入ると言う一連の自然な行動に、その仲を見せつけられた。何に対してかわからないまま、何故か、負けたと悟った。アキ様の笑顔が、自分が知っているものと全く違ったのだ。生徒の時、正直、湊さんとアキ様以外のチューターについてはそんなに知らなかった。興味がなかったから、知る必要がなかった。他にもなんかいるんだな、くらいの認識しかなかったのに。
あの4人の仲に入れたら、多分、アキ様のあの笑顔が見れるはず。あの笑顔を見たいと願うほどに邪魔だなと鬱陶しく感じる、アキ様の目線の先に必ずと言っていい確率でいるあの女。ファッション雑誌の中から飛び出てきたようにいつも上質な物をまとって、笑顔を絶やさなくて、誰にもチヤホヤされていて、すごく嫌な感じがした。そのせいで、親しみやすい先輩たちとして目の前にいるはずの人たちが、手の届かない途方もなく遥か遠い世界の人のように感じてしまったのだ。あの女さえいなければ。もしかしたら、そこにいるのは自分だったかもしれないのにと言う思いがいつもチラつき、苛立ちが抑えられなくなる。
でも、私だっていつまでも昔の私のままじゃない。目を閉じれば、ついこの間の甘ったるい余韻が、まだだるさを伴って体に残っている。キラキラして、全てが自分のために作られたような眩しい世界。あの場所で生まれて初めて誰かに跪いて貰ってから、自分の中の何かが変わった。そして、再び同級生から向けられ始めた羨望の眼差し。これがあれば、私だってあの気に入らない上級生の仲に入れる気がするのだ。ううん、むしろ、あの人たちのお姫様にさえなれてしまうかもしれない。あの上級生4人が私に熱い視線を送るようになるだなんて、想像だけで優越感に浸れてしまってこの上なくゾクっとする。それに、大学でできた友人たちからは、女性の若さは何よりも価値があるってことも教えて貰った。あんな20歳をとうに超えた年上の人たちなんて全員ただのオバサン。女子扱いも、お姫様扱いもする価値ないよって、うっかりここでの不遇をこぼした紗里衣に笑って答えてくれた。まだ10代を謳歌できる紗里衣が恐れることは何1つないはず。
「紗里衣ちゃん、大丈夫?時間だけど。皆、教室に上がったよ?」
同じくバイトに来ていた律の声で慌てて現実に戻ってくると、既に周りには誰もいなかった。
「最近、なんか疲れてない?」
「別に。余計なお世話よ。」
律の言葉にイラッとしながら応えると、紗里衣はさっさと教室に向かった。自分に声をかけるにふさわしいのは、あの人たち。あの王子様たち。垢抜けないここの同期じゃない。
教室に入ると、生徒たちは自分に一瞥もくれずに好き勝手に話していた。気にせず、必要最低限の説明を始める。目の前の生徒たちは、どうせ自分の話を誰も何も聞いてなんていない。私が悪いわけじゃない。生徒の見る目がないだけ。チューター業務なんて所詮こんなもんだ。時々、何人かが自分の顔に注目しているのは感じる。こんなにも手をかけているのだから、そう言う称賛はあって当然だと思う。早くまたあの場所に戻りたいなと言う態度を隠さず、一通りの説明を済ませるとさっさと廊下へ出た。
そうすると、アキ様が近くの教室で話している声を聞くことが出来るのだ。王子様の腕、温かい手、甘い言葉。もうちょっと頑張ってみれば、全部私のものになるはず。
「マズいなぁ、このクラス。。。」
そう呟いたのは、月曜チューターのクオリティチェックの仕事に来ていた恵叶だ。出来るだけ目立たない私服に、伊達眼鏡。気配を消してフラッと廊下を歩いているだけのような素振りで、きちんとクラス内を確認し、評価項目に点数付をしていく。
月曜日に開講している授業で生徒からチューターに対する苦情が想像以上に多く、社員に命じられて急遽、抜き打ちチェックの仕事に来たのだ。通常は数ヶ月おきにあるかないかの有名無実化していたクオリティコントロールと呼ばれる検査がまともに行われたこと自体がそもそも異常なのだが、実際に状況を目の当たりにすると二の句が告げない事態になんとも言えない。これではさすがに苦情が来る。
特に、紗里衣の担当するクラスはひどい。だけど、とため息をつく。彼女には何を言っても、濡れ手に粟なのだ。いつもどこか自分の世界に浸っていて人の話は聞かないし、都合が悪くなれば泣いてごまかして終わり。最悪、バイト先でいじめにあったと親が出てきそうなのが目に見えている。いかんせん、採用試験に親がついてきた初めての人間だ。彼女に代わって採用試験の受付をし、試験中はエントランス付近で待ち続け、終われば一目散に社員に結果を詰め寄った保護者の姿が脳裏を過ぎる。どう好意的に解釈しても、面倒な事態しか浮かんでこない。かと言って、このまま見逃すわけにもいかない。
「どうしましょうかねぇ。」
もう一度呟くと、そっと会議室へ向かった。




