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告白と練習試合(3)

 なんやかんやで、いつの間にか終業時刻、5分前が差し迫っていた。教室では可能な限りの数の生徒と話をして、教務室に戻ってからはあれやこれやと仕事を進めていると、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまう。

 やっぱり翼が今日すぐに自分に声をかけて来るところまでは高望みすぎたかなと、小百合はなんとか自分自身を押さえ込んだ。そうでもしなければ、やっぱりどうすべきだったとか、あれが足りなかったんじゃないかとか、永遠に終わらそうな反省という名前でまとめた自己嫌悪のループにハマってしまいそうだった。

 さて、あとは帰り支度だけかなーと気を取り直して背伸びをしたところで、突然、呼び出しの声がかかった。

「ちょっと、おねーさん、呼んで。」

 教務室に、やや得体の知れない緊張感が漂う。この2年もの間、一度も自分から職員にもチューターにも声をかけになんて来たことがない翼が、扱いにくさで職員にもチューターにも本人の望まない形で知る人ぞ知る生徒になってしまった彼が、ついに窓口に現れたのだ。

 小百合は、あぁ来たかという喜びが溢れそうになるのを抑えて、窓口の一番近くにいた暁史に目配せをした。

「まずは、君の名前と、クラスと、学生証を。昨年担当したから知っていると言いたいけど、ルールだから、さ。」

暁史が至極真っ当に返答する。昔は声をかけたらそれで対応できたのだが、今はどんなに顔と名前が一致していても、学生証を出して貰うのがルール。過去、他の塾や予備校で人間関係が崩れた結果色んな出来事があってから、万が一の事態に備えてこの一手間を徹底させられている。振り上げた拳を下さざるを得ないこの瞬間が冷静さを取り戻すきっかけになってくれたら、と言う心理作戦でもあるのだろう。誰をもの未来を守る貴重な一瞬なのだ。

時遠翼ときとおつばさ、高三ハイレベル英語、あと、これ。」

これまでには考えられないほど素直に、翼が答える。

「で、誰を呼べばいいのかな?」

暁史がマニュアルに定められた通りに質問を重ねながら、軽く左足をトントンとさせた。これは彼が笑いを堪えている時の癖だ。ちょっと、笑わせないでよね、と軽く彼の足を自分の靴の爪先をツンと押し返すと、小百合は出来るだけゆっくりと、さも面倒そうに翼の構える窓口に向かった。

「なんでわかった。」

到着も待たずに、翼が睨みつけるように、けれどどこかすがるような目で単刀直入に問いかける。

「おねーさん、じゃなくて、『りっちゃん』。」

「、、、、、、 っ。」

グッと詰まった翼に、悔しそうな表情が浮かんでいる。小百合は、根気強く待ちの姿勢を崩さずに向き合う。しばらくして、翼が重い口を開いた。

「じゃぁ、小百合。なんで、わかった。」

そう来たか。まぁ、しょうがないかと、ここは折れておく。大事なのは、会話を続けることだからだ。

「過去の筆記試験の答案、ほぼ全部、確認したから。」

「筆記の、答案?全部?」

「ごめんね、100%じゃないの。主に英語を、まぁ、おおよそ。」

「それで?」

「1年次かなぁ。英作文の問題とか、英語で答えなさいって問題で、主語がsheの時に、或いはスペルが類似する女性名詞に該当する単語が主格になる文で時々、余計な『e』が最後にくっついてた。あと、要らないアクセントを消した後が、たまに。」

典型的な、フランス語の初歩中の初歩だ。

「それだけで?」

「うん。あ、あと、数学の答案の、、、」

「、、、、、。」

「数字が、もう、何よりも雄弁に全てを物語ってたわ。」

明らかに、あの数字の書き方は、小百合が馴染んだものだから。本当にそれだけなので、他に答えようがない。そのまま黙って俯いてしまった翼にどう対応すべきかを思案していると、彼が顔を上げた。

「違ってたら、どうするつもりだった?」

「ごめんねって言って、別の話題で再挑戦かな。」

「おねーさん、クレイジーって言われない?」

「んー?褒め言葉よね、ありがとう。で、おねーさんじゃなくて、『りっちゃん』。」

笑顔でありがたくお言葉を頂戴すると、突き刺さるような視線で挑まれる。

今日、12cmのヒールじゃなかったらこれは今ここで見下ろされている状況だなぁと呑気な感想を抱いていると、翼が笑った。誰もが見慣れたシニカルな笑いではなく、年相応の無邪気な笑いだった。

「へぇ、否定しないんだ。決めた。専属にする。」

「は?専属?」

「そう、俺が、りっちゃんの専属になるの。」

小百合が彼の、ではなく、彼が小百合の?と言う発想への準備は、小百合の中に流石になかった。どう言う意味なのか考えあぐねていると、彼が嬉しそうに続ける。

「湊さんだって、知らないから、りっちゃんが見つけたこと。俺の親、俺の中途半端な語学力を恥じてて、周りには絶対に言わないし。」

「そうなの?」

「うん、だから、『預ける』。」

翼はさらに楽しそうに笑った。

「言い出したのは、りっちゃんだから。じゃぁ、また今度!」

バイバイとそのまま手を降って遠ざかっていく彼の背中を眺めながら、小百合は我慢していた喜びを爆発させて顔に浮かべた。喜色満面の小百合の笑顔は、まるで極上のオモチャを見つけて楽しむような表情だった。暁史は、小百合に注意を促す。

「その顔、やめろ。怖いから。」

息を潜めて成り行きを見守っていた歩夢が、そっと暁史に尋ねた。

「りっちゃんって、生徒さんといつもあんな感じなんですか?」

「そうだね、あんな感じが平常運転、だね。」

歩夢の頭の中では、小百合が担当教室から戻ってきてから教務室で繰り広げられていた会話がちょうど再生されていた。


「どうだった?」

教務室で小百合が自分の席に着くなり、暁史が待ちくたびれたように前のめりで尋ねた。

「ツカミはまぁまぁかな。ここから先はどれだけ踏み込めるかだと思う。」

まぁまぁかなぁという物言いの小百合に、呆れたように暁史は返す。

「相変わらず、凝りもせずに一点突破したんだな?」

「私には、暁史みたいに笑顔1つで空気ごと相手を吸い込むような術はないもん。」

「そんな術、あるわけないだろ。」

「あら、ご謙遜を。あの一種の結界みたいな『アキ様会』が、暁史の術の成果の1つではなくて?」

言葉のじゃれあいで脱線しそうになっている会話を本来の目的へ軌道修正をするが如く、歩夢は決死の表情で質問をした。今、聞けることは聞いておかないと、次に尋ねる機会がいつになるかわからないからだ。

「あの、りっちゃんはどうして、その生徒さんに声をかけたんですか?」

「ん?」

「その、そんなに、深く関わっていくべきなんですか?正直、担当の生徒とは、どういった距離感か適切なのかというのを、分かりかねているんです。」

「あー。そうねー。うーん。確かにそもそも80人超えのクラスって前提に立って、そこまでこの子一人に積極的に関わるべきかと問われると、正直に言って私の考えでも疑問符はつくよ。多分、この子のこの成績なら、このまま順調に自力でまぁそこそこいい線まではいけるかなーって気がしなくもないし。」

「え、じゃぁ、なんでそんな風に模試を見返したり、入念に下調べまでして、声をかけるんですか?」

「私が、イヤだから。私情だと注意されたら、それまでね。」

肩をすくめて、小百合は軽く頭をふった。

「えっと、、、?」

「単純に私がこの子がこのままなのがイヤなの。こういう一見自由でワガママな態度って、真面目に頑張ってる他の生徒にも伝播し易いのね。まだ今は問題なくても、後々に誰かが受験から逃げ出したくなった時、逃げていい理由にわざわざプラスαで通っているアカデミーの同じクラスの誰かの姿が挙がるなんてどんな皮肉かと。」

ふっと息を吐き出すと、そのまま小百合は続けた。

「それに、、、この子の普段の態度には眉をひそめたくなるものが見られても、本来の受験勉強自体は必死で自力で足掻いている様子が十分あるんだもの。そういう生徒にこそ、一人じゃないことを知るために差し伸べる手はあるべきかなと私は思うの。足掻くだけなら、自宅や学校で一人でだってできる。でも、ここにいるからこそ、私のクラスにいるからこそ、一歩前へ進むために寄り添う誰かが側にいることを知ってほしいの。80人という人数はこちらアカデミー側の事情であって、生徒の立場から見たらチューターは1人。クラスの総人数は、生徒が受けるべきサポートの厚さをふるいに掛ける理由にはならないから。」

「私に似ていていたから、ただの私の自己満足だと言われたらそれまでだけど。」、という最後の言葉は、「りっちゃーん」と窓口に現れた生徒たちの喧騒とともに吸い込まれてしまった。まだ聞き足りない様子で納得がいかない顔のままの歩夢に、暁史が声をかけた。

「今のはりっちゃんの意見で、りっちゃんの距離感。正解があるわけじゃない。色んな先輩を見て、焦らずゆっくりでいいから、歩夢の距離感を見つければいいさ。」


現実に戻ってきた歩夢が蚊の鳴くような声で「あれが平常運転、、、、、自分には出来る気がしません」と呟く。

そのまま絶望的な表情になっていく歩夢に、暁史は慌てて付け加える。

「正直、アレは俺も無理。むしろ、あんな風になってくれるなと言いたい。」

「職人さんみたいで、カッコよく見えませんか?」

「獲物が罠にかかったぞみたいな、あんな悪い顔をしてるのに?」

「有言実行で一つの目標を最短で達成させた、達成感のように見えちゃいますけど。」

「流石にそれは美化しすぎ。もちろん、過去の答案を隅々までチェックして、難攻不落の城を攻め切ったことは否定しない。けれど、小百合はいつも『小百合自身』を賭けにいくんだ。結果、自分で仕事をさらに抱えることになる。 ただでさえ膨大な量を抱え込んでいるのに。その結果が、果たして最終的に受験直前のサービスの質を考えた時にいい方向に結びつくのか、わからん。」

「そう言う見方もあるんですね。」

感心したように言う歩夢がおかしくて、茶化すように暁史は真実を伝えた。

「おぉ。全部、佳哉の受け売りだけどな。」

「、、、、、。」

「自身にできることから、お互い、一歩ずつ一緒に頑張ろ。」

その場の雰囲気を軽くするように告げると、今度は暁史は小百合に帰宅を促した。

「小百合、さっさと帰るぞ。ただ、その前にその顔、本当に怖いから止めてくれ。」

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