第64話『水泳』
結月の看病を行った翌朝のことだった。
目覚めると、なんと2人の美少女が晴登の横に並んで寝ていたのだ……って違う。寝ていたのは妹の智乃と異世界出身の結月だ。
まさか寝込みに忍び込むとは予想していなかった。今後は要注意だろう。
「──ってことがあったんだけどさ」
「……それ、聞いてる分には羨ましがられると思うぞ」
「そうなの?」
「そうなの……って、大丈夫かお前」
晴登は、呆れる伸太郎の考えを汲み取れない。だって迷惑だったのだから、羨ましがられる要素はないと思うのだが……。
時は放課後、場所は魔術室。いつものメンバーで、いつもの通りグダグダしている。伸太郎の体調も回復したようで、晴登は昨日の出来事について話していた訳だが……どうやらウケは良くない。
ちなみに、結月はクラスメイトに捕まっていて、教室で話し込んでいるらしい。変なことを口走らないか心配である。
もちろん、晴登だって捕まりかけた。が、何とか生き延びて今に至る。
「やめとけ暁、三浦はそういうことには疎い」
「そうっすけど、このままもマズくないっすか?」
「良いんだよ。ピュアな奴ら同士なら、見ていて面白い」
「そういうもんすか……?」
終夜が話に割り込んでくるが、言っていることがピンと来ない。ピュアかは置いといて、男女が一つ屋根の下で同棲する時点でマズいというのは、さすがに理解できるのだが……
「まぁ何にせよ、本人がこのザマならしばらくは何も無いだろうな」
「それは同感っす」
何か納得しているみたいだが、こっちは納得できない。さっきから一体何の話をしているのか。自分についてというのはわかるが──
「大変だよ、ハルトっ!」
「お、結月」
部室のドアが勢いよく開けられるものだから少し驚いたが、正体は結月だった。廊下を走って来たのか、かなり息が上がっている。
「大変って何が?」
「明日の授業って"水泳"なんでしょ?!」
「あーそうだったかな」
時間割を思い出すと、確かに明日の体育は水泳だった気がする。水泳と云えばこの時期の醍醐味。晴登の実力は言わずもがな"中の中"なのだが、まぁカナヅチでないだけマシである。
もうそんな時期なのかと、少し心が躍る訳だが、しかしそのどこが大変なのだろうか。
「ボク、水泳って知らない!」
「「「そこから!?」」」
予想の斜め上を行く答えに、晴登だけでなく部員全員が反応してしまう。
つまり異世界には、水泳という概念がなかったということだろうか。そういえば、川すらもあまり見なかったような。
「とすると、それは大変だな」
「でしょ!」
「でも、授業だから泳げなくても教えてくれるって」
「違うの。泳ぐってことがわかんないの!」
「あ、それは手に負えない」
異世界には、まさかの"泳ぐ"という概念すらもなかったことに、頭を抱える晴登。これではいくら授業だろうとカバーできない。公共プールは少し遠いから平日では行けないし、これは手詰まりだ。
「……何とかならないかな」
「……そうなって欲しい」
今回ばかりはこれといった打開策が見当たらない。潔く、明日を迎えるしかないようだ。募った不安に、2人は大きくため息をつく。
「……じゃあ今日はこの辺で解散するか。お前らは水泳頑張れよ」
「あ、ありがとうございます」
「それとな三浦……」
解散を命じた終夜が晴登の元にやって来る。何かと思う晴登を他所に、耳元で小さな声で、
「水泳の授業は男女一緒だから、手取り足取り教えてやりなよ」
「な、いきなり何を……!?」
「それに気になるだろ? 結月ちゃんの水着姿とか」
「いや、その、別に──」
「まぁいい。じゃあな」
手を振って帰って行く終夜に、晴登は何も返せずに立ち尽くす。自分でも頬が紅くなっているのがわかった。
「何話してたの、ハルト?」
「え!? あぁ、その、特に何も……」
突如結月にそう訊かれた晴登は、慌てて応える。おかげで凄く怪しい返答だ。結月が訝しげに顔を覗いてくる。
晴登は目を逸らしながら、そそくさと昇降口へと向かう。結月も詮索を諦めたのか、トテトテと後ろをついてきた。
「水着、か……」
口に出すと恥ずかしく聞こえる。終夜の言葉が中々頭から離れない、ピュアな晴登であった。
*
「よっし、水泳だ!」
「元気だなぁ」
「そりゃ、夏は水泳だからな!」
「まだ6月だけど」
時は進んで、翌日の体育。空は雲一つない快晴で、水泳するにはうってつけの日だ。蒼い空と燦々とした太陽、思わず夏と錯覚してしまいそうになるほど暑い。
そして、我々男子は教室で、女子はプール近くの更衣室で着替えていた。
「ほら、プールに行くぞ、晴登!」
「着替えるの早くね!?」
早くも水着姿になった大地。やる気満々ということが見て取れる。
「先行ってていいよ」
「そうか、わかった」
大地がプールに向かうのに合わせて、他の男子も動く。どうやら、晴登以外は全員着替え終わっていたようだ。
「マジで……?」
皆のやる気に驚きつつ、晴登はそそくさと着替えた。
「うわぁ……!」
プールに着いて開口一番、晴登は感嘆の声を漏らした。
眼前に広がるのは、小学校のとは大違いの広大なプール。正直、遊園地とかにありそうなレベルだ。事前に水泳部である莉奈から話を聞いてはいたが、予想を遥かに上回っている。
「短水路も長水路もあるとか、とりあえず凄いな」
「何それ?」
「25mプールと50mプールのことだ」
「なるほど」
伸太郎の知識に納得しつつ、晴登は再びプールを見渡した。
先程説明し損ねたが、伸太郎の言う通り、プールは2種類存在している。小学校でお世話になった短水路のプールと、テレビで見たことがある長水路だ。どちらも10コース以上はある。
「しかも、深さは俺の身長とほぼ同等……か」
「足つったら溺死するぞ」
「凄いリアルなこと言わないでよ」
口々に感想を述べた2人は、クラスで集まっている所に向かう。どうやら、長水路は高学年のクラスが使用しており、1年生は短水路で授業をするようだ。
「あ、ハルト、おーい」
「ん、この声は結月……なっ!」
声をかけられた晴登は、クラスの女子と集まっている結月の姿を発見する。呑気にも、彼女はフリフリと手を振ってきていた。しかし、いつもなら振り返すところだが、晴登はすぐに目を逸らしてしまう。理由は至極単純、結月の水着姿を直視できないからだ。
一瞬でわかる。結月の健康的な真っ白な肌に、スク水はよく似合って……似合い過ぎているのだ。他の女子よりも明らかに目立つ。
「「うぉぉぉぉ!!」」
結月だけに留まらず、スク水姿を晒している女子達にクラスの男子は大興奮。怒る者、恥ずかしがる者、女子達には様々な反応が見られた。
無論、申し訳なさから、晴登はずっと目を逸らし続けている。
そんな晴登の気を露知らず、彼女は話しかけて来たのだが。
「ねぇハルト、どうかな……?」
「あ、あぁ、よく似合ってるよ」
「……? 何でこっち見てくれないの?」
「え、そりゃ……」
「『そりゃ、結月が可愛すぎて直視できない』でしょ?」
「莉奈!?」
今しがた晴登の声真似で恥ずかしい発言をしたのは、莉奈だった。彼女はニヤニヤと晴登を嘲笑う。
「そんな、恥ずかしいよハルト……!」
「いや言ってないから!?」
「ダウト。ホントは思ってるでしょ? 私だって、結月ちゃんのスク水姿は可愛いと思うもん」
「う……」
否定ができず、つい言葉に詰まってしまう。その様子を見て、さらに莉奈は不敵に笑った。
「そりゃ晴登も男の子なんだし、仕方ないよねー。もしかして、私もそういう目で見てたり?」
「どういう目だよ!……って──」
そこで、またも晴登は言葉に詰まった。莉奈の水着姿を直視してしまったせいだ。
競泳水着なのだろうか。スク水とは一風違い、シンプルなデザインが表面に施されている。それを身に纏う莉奈は如何にも水泳部の姿であり、活発なイメージを連想させた。
「おやおやぁ、どうしました三浦君? もしかして見とれちゃってます? ちょっと、結月ちゃんに嫉妬されるじゃない」
「なっ、違うし!」
「そんなに赤くなって……説得力ないね」
「ぐ……」
……ダメだ。調子が狂う。このままでは、どんどん評価を下げられて、惨めな気分になってしまう。どうにか打開せねば……
「──皆さん集まりましたか? では、水泳の授業を始めるに当たって、まずは準備運動をしましょうか」
「「はい!」」
「む、惜しいタイミング……」
「じゃあハルト、また後でね」
「お、おう……」
助かった。山本の助け船とも呼べる一声に、晴登は感謝する。誇張なしで、九死に一生を得た気分だった。
適当に準備運動を終えた全員は、ようやくプールに入ることが許される。あくまで授業であるから、楽しむのは本来違うのだが、やっぱりプールは楽しい。
「それでは各自、アップを兼ねて、まずは1往復してきてください」
「「「はい!」」」
全員の返事が重なり、山本はうんうんと頷く。
しかし、どうしたものか。短水路の1往復というのは、もちろん50m。正直、それは晴登にとって頑張って泳ぐ距離であり、準備運動で行くには幾分ハードである。
「鳴守 大地、行っきまーすっ!」
「飛び込んだ!?」
……と、考えていた矢先、大地が先陣を切ってプールに飛び込んで行く。そのフォームは洗練されたそれであり、彼の運動神経の良さを如実に示していた。
大地につられて、クラスの男子が少しずつプールに入り始める。不格好な飛び込みのせいで、水しぶきが飛び散った。
「飛び込みとかしたことないし……って、ん?」
飛び込み台の前で戸惑う晴登だったが、その時、隣のコースの1人の少年に目が留まった。
「水……」
「どうしたの、柊君?」
「うわ、三浦君!? いや、その、僕って水が苦手で……」
「あーなるほど……」
大きなケモ耳を垂らし、しょぼくれてるのはクラスメイトの柊 狐太郎。水に触っては、「ひっ」などと小さく叫び、フードを深く被る動作を繰り返している。
……うーむ、水が苦手になる原因が何となく察せてしまった。本人には言いにくいけど。
「そんなに苦手なら見学すれば良かったのに」
「それだと、授業日数が足りなくなるかもしれないんだよ」
「でもフード被ってたら泳げないでしょ?」
「うぅ……やっぱり恥ずかしいから……」
そう言って、さらに彼はフードを深く被る。
ちなみに彼の着ている水着は、他の男子達みたいにスク水ではなく、海水浴で着るようなラッシュガードと呼ばれる水着なのだ。フードが付いており、彼には持ってこいと言えよう。
「別に水は怖くないって。確かに深いけど……それでも大丈夫だよ」
「大丈夫な要素が感じられないんだけど……」
「俺が一緒に入るから。ね?」
「うーん……」
誘っても、まだ迷いを見せる狐太郎。彼にとって、この決断は大きいことなのだろう。
次なる言葉をかけようと、口を開いた瞬間──
「ハルトー、泳ぎ教えてー!」
「結月!? おい待て、プールサイドを走るな──」
向こうから駆けてくる結月に晴登が叫ぶも、時すでに遅し。濡れた地面に滑って、彼女はバランスを崩してしまった。
しかし、問題はここから。彼女はバランスを崩した訳だが、コケることはなかった。その代わり、晴登たちの方へふらつきながら、それまでの勢いまま走って来る……もとい、突進してくる。よってこの後の展開は、晴登にも狐太郎にも予想がついた。
「おっとっと!」
「「あっ」」
軽い衝撃だったが、それでも晴登と狐太郎の身体はプールへと投げ出された。ドボン、と音を立てながら、2人の身体は水中へと沈む。
少し経って、2人とも顔を水面から出した。
「ごめんハルト、大丈夫!?」
「俺は大丈夫。けど、柊君が……ん?」
そこまで言って、晴登は目の前の光景に言葉を止めた。
「はぁはぁ……」
「犬かき……?」
眼前、急いでプールサイドへと戻ろうとする狐太郎。ただ、その時の彼の泳ぎというのが、なんと犬にも劣らないくらい立派な犬かきだったのだ。
余談だが、ここでようやく晴登は、狐太郎が決して泳げない訳ではないことを知る。
「大丈夫……っぽいね」
「なんか、悪いことしちゃったな……」
「"プールサイドは走らない"。大事だから覚えとけよ」
水泳について何も知らない結月には、やはり一から教える他あるまい。こうして、晴登の水泳教室(仮)が始まった。
*
「それでは、手始めに50mのタイム測定を行います。この結果次第で、今後のコースを分けることにしますので、皆さん頑張って下さいね」
そう山本が説明する中、晴登はため息をついた。
「あーあ、水泳教室って言っても、5分もできなかったな」
「でも、クロールだっけ? それは泳げるようになったよ」
「毎度の如く、結月の上達の早さはどうなってるの?」
「えへへ」
晴登は結月のあまりの上達速度に圧倒された。
これは推測だが、上達が早い理由として『異世界人は元のスペックが高い』というのを挙げられる。となると、結月に教えていく全てのものを、その内きっと晴登より上手くこなすようになってしまうだろう。そう思うと、結月の屈託ない笑顔が恐ろしく見えた。
「それじゃあ、男女に分かれて出席番号順に行きましょうか。こちらのコースは1番暁君から」
「うっ……!」
小さく唸った蓮を、晴登は見逃さなかった。
運動が苦手な彼にとって、人前で泳ぐことは実にハードルが高い。しかし、逃れることは不可能なので、彼は覚悟を決めなくてはならないのだ。
「それではお願いします」
「うっす……」
おぼつかない足取りでスタート台に立つ蓮。その脚は、若干震えていた。
「よーい──ドン!」
「っ!」
「……あれ?」
蓮が勢いよく飛び込むのを見て、晴登は異変を感じた……いや、異変と言うのは失礼か。あることに気づく。
蓮の飛び込みは、異様なくらい綺麗だった。
「何だ今の飛び込み!?」
「一切ブレがなかったぞ!?」
「あれホントに暁か?!」
普段の運動苦手な蓮からは、想像もできないほど華麗な飛び込み。それを目の当たりにしたクラスメイトは、ガヤガヤと騒ぎ始める。晴登もその一員だった。
蓮は水中を真っ直ぐに進み、5mを過ぎた辺りで浮かび上がってくる。皆の視線を浴びながら、蓮は腕を上げて一掻き……
「すげぇ、超フォーム綺麗じゃん!」
「ホントだ、やばっ!」
「ちょっとカッコよくね?!」
ここでも男子からは賛美の嵐。それほどまでに、蓮のフォームは洗練されたものだった。まさか彼がこんな実力を隠していたとは。
しかし誰1人として、ある事実には触れない。
「えー25mで……32秒」
「「……」」
蓮は泳ぎこそ綺麗であったが、全くスピードはなかったのだ。
結局彼は、50mを1分以上掛けて泳いでいた。
*
「はぁっ……もう水泳なんて懲り懲りだ……」
「お疲れ。でもフォームは綺麗だったと思うけど?」
「そりゃ、昨日調べたからな」
「あっ……」
もしかしたら蓮には水泳の素質があるのかと思いきや、どうもそういう訳ではなかったらしい。
とはいえ、調べただけであそこまで仕上げるのだから、きっと彼も結月と同じように"学ぶとすぐに身に付くタイプ"なのだろう。羨ましい。
「てことは、結月は天才になれるってことか……!?」
「何言ってんだお前」
蓮の冷静なツッコミが刺さる。しかし、勉強では敵なしの伸太郎と同じような性質であるならば、今しがたの晴登の言った可能性は否めない。まぁ実現してしまうのは嬉しい反面、自分が惨めになるから嫌なのだが。
「次は鳴守君」
「よっしゃあ!」
「頑張れよ、大地」
「お互い様だ」
晴登に対して、大地はグッと親指を立てる。その逞しさは、少なからず劣等感を覚えるほどに立派だった。
「よーい──ドン!」
「……!」
その時の様子を、晴登は鮮明に憶えている。無駄のない、もはや専門ではないかというほどのフォームとスピード。その強烈さは、晴登の目を釘付けにした。
その勢いはターンした後も衰えることなく、そのまま彼は50mを泳ぎ切った。
「えっと……32秒」
「「速っ!?」」
「俺の25mと一緒だと……!?」
大地の速さに驚愕の色を露わにする男子一同。
無理もないだろう。大地は小学生の頃からも、水泳で最速を誇っていた。晴登も散々驚かされたのだ。
ただ、そんな大地と並ぶ人物が居た訳で……
「春風さん、32秒」
「「「えぇぇ!?」」」
今度は男子だけでなく、女子の驚きも重なる。
莉奈の運動神経は小学生の頃から男子に劣らない……どころか、むしろ優れていた。特に、水泳に至っては最速の大地と並んでいる。昔に習い事でやっていたようだが、素質があったのか、グングンと伸びたらしい。
「相変わらず速いな、莉奈」
「そっちこそ、いつも通り普通だね、晴登」
「俺まだ泳いでないから!?」
真顔で貶してくる辺りが莉奈らしい。全く喜ばしくはないが。
そして、そうこうしている内に、いつの間にか晴登の出番が回ってきた。どうやら、隣のコースでは結月も泳ぐらしい。
「前回みたいに負けそうで怖いんだけど」
「さすがにありえないと思うよ」
勝負には拘ろうとしない結月を見て安堵する反面、なおさら負けられないと心に誓う晴登。ついに2人はスタート台に立つ。
「それでは同時に行きましょうか。よーい──ドン!」
「「……っ!」」
2人とも、見よう見まねで飛び込みでスタートする。正直な話、飛び込んだのはこれが初めてだ。飛距離は全くと言っていいほどなく、かつ不格好であったと自分でも思う。
もちろん、そんな飛び込みをした時点で、晴登は最初から息が上がっていた。
息継ぎのついでに隣を見ると、結月は真横に位置していた。置いていかれたかと心配したが、やはりまだ初心者だ。スピードは晴登と大差ない。
「なおさら負けられない」と思ったところで、晴登はターンに入る。クイックターンという回るやつはできないので、手を壁についてタッチターンを行う。
やはり本気で泳ぐと、25mでバテてしまった。残り25mが異様に長く感じる。晴登は必死に腕と脚を動かし、ゴールを目指す。大地……いや、蓮と比べても雑なフォームだろう。しかし、ただがむしゃらに泳いだ。
ゴールまで残り10m。もう息継ぎするのも億劫になるくらい疲れてきた。だが泳ぎは止めない。
5mを示すラインがプールの底に見えた。もう少し、あと少しだ。晴登はラストスパートとして、死にものぐるいで腕と脚を動かした。
そしてついに──
「……っ、はぁっ!!」
音が出るほどの勢いで、壁をタッチした。隣を見ると──結月も着いている。どちらが先かはわからない。
2人は静かに山本の結果発表を待った。
「晴登君は41秒、結月さんは36秒ですね」
……晴登は、完全に敗北した。
*
場面は変わって晴登の部屋。下校中の晴登の暗い様子を見て、結月が晴登を励ましに来たのが事の次第だ。
「ねぇハルト、ごめんね」
「いや、結月のせいじゃないよ。それより、凄いじゃないか。初心者なのに40秒切るなんて」
「うん……」
褒めてみるも、いつものように結月は喜ばない。晴登が心の中で落ち込んでいることがわかるから、素直に喜べないのだろう。
結月は考え込む様子を見せて……そして口を開いた。
「──でも、それってハルトのおかげだよ」
「俺の……?」
「うん。ハルトが教えてくれたから、ボクは泳げるようになった訳だし。今回ボクが勝ったのは、たぶん偶然。次からはハルトが勝つと思うよ」
「……」
結月の本心からの言葉は、晴登の心を温かく包んでいく。しかし何と返せばいいのか、わからなかった。
「ボクはいつも、ハルトのおかげで頑張ることができてるの。テストの時も水泳の時も、ハルトが教えてくれたから結果を残すことができた」
結月は押し黙る晴登に近づき、そっと抱きつく。
「ボクはハルトにいつも助けられてる。そして、そんな優しいハルトが、ボクは大好きなの。だから、元気出して?」
「……そう言われて、元気出ない奴とかいるのかよ」
「ハルト?──うわっ!?」
晴登もまた、静かに結月を抱き締める。結月のほんのりとした温かさが、晴登の心を満たしていった。
「ありがとう結月。元気出た」
いつも助けられてばかりだと思っていたが、違った。結月もまた、晴登に助けられていると言ってくれたのだ。つまり2人で支え合えていたということである。晴登はそのことがとてつもなく嬉しかった。
「これからも、俺は結月のことを頼ると思う。だから、その……結月も、俺のこと、頼ってくれて、良い……」
そう言いながら、晴登は恥ずかしくなってくる。つい、マンガにありそうなセリフになってしまった。頬を赤らめながら、晴登は結月の様子を窺う──
「ほえぇ……」
「え、結月!? どうしたの?!」
「ハルトがカッコ良すぎて、目眩が……」
「大丈夫か、しっかりしろ!?」
この時、結月が再び熱を出しかけたのは、また別の話。




