第37話『恩人』
目の前にあるのは女子の裸体。弱々しい体躯に真っ白な肌が光る。その一部、女性の象徴も僅かながらに主張されていた。
しかし、晴登にとってそれを喜ぶことはできない。それは晴登自身、この状況に“悦”よりも“罪悪感”を覚えていたからだ。
「あ……」
今にも泣きそうな表情の中、ユヅキは大きい厚手のバスタオルを手に取ると、身体に巻き付ける。
晴登はその様子を呆然と眺めていた。頭の中には何も入ってこない。この後、自分がどんな行動をすれば正解なのか、それさえも考えられなかった。
その中で、ただ1つわかったこと。それは、自分は今とんでもないことをしてしまったのだということだ。
男女においてこんな行動が許されるのは、親密な関係にある男女のみ。しかし、晴登とユヅキの間には圧倒的に欠けている物があるのだ。
『信頼』
こればっかりは、時間を掛けないと作れない。
たかだか、今日出会ったばかりの人物相手にそれは生まれるだろうか?
否。不可能だ。
であれば今の事態は、晴登に対してユヅキが築こうとした『信頼』が崩れたのを意味する。一度崩れてしまえば、修復は困難。
例えあと2日の付き合いでも、それは残酷である。
「あ、いや……その……」
下を向きながら、晴登はしどろもどろな弁明を行う。何も思いつかず、ただ自分の無実を証明しようとする者の末路だ。
冷や汗がまだ綺麗だった服に滲む。
罵倒されるか、軽蔑されるか。何を言われても言い訳はできない。ただひたすらに、謝罪の気持ちだけが浮かんだ。
すると、二の句を継げずにいた晴登に、ユヅキが一言放った。
「ハルトのエッチ」
「うぐ……」
「でも……悪気があった訳じゃないんだろうし、いいよ」
「え……?」
晴登はその言葉を聞いて、即座に顔を上げてユヅキの表情を窺う。頬を紅く染め、涙目のままではあるが、彼女は確かにそう言った。
許された……のか?
今しがたの発言はそういう解釈にしかとれない。ということは、絶交しなくても済むのだろうか。あまり怒ってもいなそうだし……良かった。晴登は大きな息をつく。
しかし、ここで話は終わらなかった。
「でももしかしたら、石鹸を持ってくるというのは口実で、ボクの身体目当てで来たのかもしれないし……。確かに、ハルトも男の子だから、そういう気持ちを持つのかもしれないけど……。でも、そういうのはまだ早いんじゃ──」
「いや違う! 違うから! ホントに石鹸を持ってきただけなんだって!」
突飛なユヅキの邪推を、晴登はたまらず否定する。
勘弁して欲しい。晴登にはそんな下心は微塵もなかった。そもそもユヅキを男と認識していたから、あるはずもない。
「ホントに〜?」
「ホントだって!」
ユヅキに猜疑の目を向けられるが、晴登は全力で否定する。
確かに、そう思われても仕方のない行動をとってしまったのは事実だが、しかし真実をねじ曲げられるのは耐えられない。ここはなんとか、その意思だけでも伝えないと……
「ま、冗談だよ。ハルトはそんな人じゃないもんね」
「はぁ、なんだ……心臓に悪いからやめてよ……」
いつの間にか涙は引っ込んだのか、ユヅキはくすくすと笑った。またも、晴登は大きく息をつく。
と、そこで、ようやく思考がやるべきことを見出した。
「あ、ごめん、今出て行くから──」
遅ばせながら、晴登はすぐさま振り向いてドアを開けようとすると──ユヅキに袖を掴まれた。昼間の様にしっかりとだ。
「な、なに、ユヅキ……?」
「ねぇ、ハルトはボクの身体に興味ないの……?」
「は……?」
突然のユヅキの言葉に、晴登の思考はまたも停止する。
一体どういう意図で、その質問をしたのだろうか。全くわからない。
「その……も、もしハルトが望むならだけど……見せてもいい、よ……?」
「え……いや、待って待って! 俺らって今日会ったばっかだよ!? そんな、いきなり……」
後ろを振り向かぬまま、晴登は言葉を返す。もっとも、語尾には力がなかった。
ユヅキの言葉の意味を理解すればするほど、心拍数が急激に上昇する。下手すると、袖を通して伝わってしまうのではないかというほど。
「でも今日、ハルトにボクは救われた。その恩返しだよ」
「救う? 昼間の話なら、ユヅキが自分で解決したじゃん……?」
「違う。その話じゃないの」
「え?」と疑問符を浮かべた晴登。
そして、反射的に振り向いてしまう。しまったと思ったが、時すでに遅し。
眼前にアップで映る、身体にバスタオルを巻いた銀髪の美少女。濡れて艶やかになっている髪の毛に、紅く火照っている頬がその可憐さをさらに際立たせていた。当然、その姿に晴登は惚けてしまう。
恥じらっている様子が、これまたいじらしい感じを醸し出す。
しかし、その格好の危険度を理解すればするほど、晴登の心臓はより一層激しく動く。
無防備。もし、今の誘惑に頷いたら……
「ど、どの話……なの?」
理性を効かせ、喉に詰まる声を絞り出して晴登は訊く。
目の前の人物が少年ではなく少女と気づいた時から、晴登のユヅキへの見方が変わっていた。意識しない方が無理だ。
今、晴登は無防備な女の子と一つ屋根の下にいる。
ユヅキの言葉の真意を聞くより先に、その事実が晴登の心を大きく揺らす。そして、そのことから連想される数々の言葉が、晴登の思考を埋め尽くした。
「それはね──って、ハルト!?」
ついに、脳が要領オーバーした晴登はついに、バタリと倒れてしまった。
*
「ん……」
目が覚めた。夢を見ていた気はしない。
ただただ、何もない意識を揺蕩っていたと思う。
「ハルト、起きた?!」
「うわっ!?」
そんな曖昧でボーッとしていた頭を覚醒させたのは、ユヅキの一声だった。寝ている晴登の眼前、これでもかと顔を近づけている。
もちろん晴登はその不意打ちには対応できず、すぐさま体を起こして距離を取ろうとした。
──起き上がれない。
理由は単純。ユヅキが晴登の額を押さえていたからだ。すると、その額にヒンヤリと冷たい感覚が伝わっていることに気づく。
「ハルトはきっと逆上せたんだよ。今冷やしてるから、もうちょっと待ってね」
ユヅキが述べた理由に疑問を覚えるも、直後「そうか」と納得。
彼女は、晴登の倒れた理由をそう解釈したのだ。晴登は思い出すのも恥ずかしいので、わざわざその解釈を覆すことはしない。
「ごめん」
その代わり、口から出たのは謝罪の言葉。
それでも、ユヅキは晴登を優しく見下ろすと、
「気にしないでよ。さっきはボクも、その……ね」
ユヅキは顔を真っ赤にして、後半蛇尾になりながら言った。よく見ると、耳まで赤々としている。
それに関しては、晴登も全く同じ気持ちだ。とても恥ずかしい。お互いに忘れたい件である。
それはそうと、晴登には気がかりがあった。
「さっき言ってた、俺に『救われた』って……どういうこと?」
記憶の最後、その言葉が頭に残った。
昼間の出来事ではないというのなら、晴登には思い当たる節がない。
ユヅキはそんな晴登を見据え、ポツリと言った。
「簡単な話だよ。ボクの孤独を、晴登が救ってくれたんだ」
「え……?」
言葉の意味がわからず、またもや困惑。晴登にとって今の答えは、疑問の断片も解決していない。
『ユヅキが孤独』。それは完全に初耳なのである。
ユヅキは言葉を続けた。
「ボクには元々、同年代の友達がいない。昼間に、魔法が使える同年代に会ったのは初めて、とか言ったけどさ、そもそも他の同年代との交流なんてこれっぽっちもなかったんだよ」
ユヅキが淡々と語った内容。それは決して、流して聞けるものではなかった。
彼女には友達と呼べる者がいない。その悲しさや寂しさを、どうして軽んじることができようか。
となると、そこに現れた自分。それが意味することは……
「だからハルトは、ボクの初めての友達。だから、"恩人"なんだよ」
照れ臭い気持ちが胸の奥に宿る。こうも堂々と言われてしまうのだから、無理もないだろう。
『恩人』だなんて、かつて言われたことがあっただろうか。少なくとも、現存する記憶の中には入っていない。
晴登は静かに口角を上げ、その事実に苦笑。自分はホントに普通の人生を送ってきたのだなと、痛感する。
するとユヅキは、極めつけの一言を呟いた。
「ハルト、ありがとう」
嬉し泣きだろうか。彼女の溢した涙が、顔に降ってくる。それを真に受けながら、晴登もまた口を開いた。
「こっちも同じ気持ちだよ。当てもなくさまよっていた俺に、ユヅキは場所を与えてくれた。それこそ、感謝の気持ちで一杯だ。えっと……ありがとう」
最後の単語を言うのも、本当は少し恥ずかしい。でも、感謝を伝えることに恥じていてはダメだ。
上を向き下を向き、互いに互いの目を見据えて感謝を伝え合う。
──刹那、ユヅキが晴登に顔を近づけてきた。目を瞑り、口先に意識を集中している。そして──
「ちょ、顔近い」
「あぅ」
赤面した晴登の右手によって、その行為は阻まれた。
晴登は眼前に迫るユヅキの顔から目を逸らし、申し訳なさそうにそう言う。彼女の行為の意図は掴めなかったが、女の子が近くにいるだけでも照れるというのが男の子なのだ。
ユヅキは自分を阻害した右手を忌々しそうに見つめるが、すぐにホッとした表情をする。そして、両手で涙を拭った。
晴登はその様子を見ると、笑みを溢す。
──やっぱり、泣いているより、笑っている方が断然良い。
ただ晴登は内心、何か良いチャンスを逃した気がする、とだけは思っていた。
「あ、そうだハルト。もしよかったら明日、一緒にお風呂入る……?」
「いや、遠慮しておきます……!」
その後、思いついたように危険な発言をするユヅキに、晴登は更に顔を真っ赤にしながら返答した。




