97:熱にうなされて
「私、作者に忘れ去られたんじゃないかと思うんだよね」
「え?誰に?」
布団に包まって天井を眺めていた美香が呟き、それを聞いたレティシアが寝台の脇で林檎の皮むきをしていた手を止め、美香に問いかけた。
「え?私、何か言った?」
「うん、誰かに忘れ去られたとか、何とかって」
「え?私、そんな事言ったの?」
「うん」
レティシアの問いかけを聞いて美香は初めて我に返り、目を瞬いてレティシアを見る。素っ頓狂な顔をした美香をレティシアは気遣うように見つめ返すと、ナイフと林檎を脇に置き、美香の額に手を伸ばす。
「ミカ、あなた、まだ熱が下がっていないんだから、もう少し眠った方が良いんじゃない?」
「んー、そうかも。もう少し、寝ようかな…」
「そうしなさい。こういう時は、眠るのが一番よ」
再び上を向いた美香にレティシアは優しく微笑むと、顔を近づけ、頬にキスをする。
「おやすみなさい、ミカ。良い夢を」
「ちょ、ちょっと、レティシア!?」
顔を赤くして慌てる美香に対し、レティシアは年不相応の妖艶な笑みを浮かべる。そして椅子に戻ったところで、脇に置かれた剥きかけの林檎に気づいた。
「あ、いっけない。林檎剥いていたんだっけ。ミカ、ひと眠りする前に、林檎食べない?」
「ああ、うん。いただくわ」
「ちょっと待っててね、すぐに剥き終わるから」
そう答えたレティシアが、鼻唄を歌いながら皮むきを再開する。その姿を眺めながら、美香はぼんやりと考えた。忘れ去られた人か…、誰だろう。
思えば、この世界に召喚されてすでに1年4ヶ月が経過している。すでに自分の中では日本での生活が遠い過去のものとなり、少しずつ記憶が薄らいでいた。父も、母も、仲の良かった友達も、誰も彼もが少しずつ輪郭がぼやけ、声のメリハリも曖昧になってきている。彼らとの思い出は未だに美香の心の中に強く残っているが、それでも古い写真のように少しずつ色褪せていった。
彼らも、私に対して、そうなっているのではないか。自分の立場を反転させ、美香は考える。父も、母も、仲の良かった友達も、いなくなってしまった私の記憶がだんだんと曖昧になり、やがて私は忘れ去られてしまうのだろうか。先ほどの呟きは、それを恐れての言葉ではないのか?
そう思いを巡らせた美香だったが、不思議と恐怖を感じなかった。何故だろう。美香は思考を中断し、目に意識を戻して、視線の先にいるレティシアを見やる。美香の目の前で、レティシアは楽しそうに皮むきを続けている。
この世界には、レティシアがいた。オズワルドがいて、カルラがいて、ニコラウスがいた。レティシアの母であるアデーレも、頻繁に美香の下に顔を出し、何くれと世話を焼いてくれる。いつも美香の周りには誰かがいて、美香の事を見てくれていた。
私は、居場所を見つけたのかも知れない。美香は、そう思った。大学に入学して独り暮らしを始めたばかりの頃、周りには知り合いが誰もおらず、不安だった。自分が世の中に取り残された様な気がして、最初の夜は電気を消して寝る事ができなかった。
しかし時が経ち、大学の友達が増えてくるとその不安は消え、毎日が楽しくなった。友達と他愛無い会話に花を咲かせ、お互いの家に泊まりに行ったりもした。彼女達との生活は楽しく、故郷に残る両親や、離れ離れになった高校時代の友達の事をあまり考えなくなった。
これまでの美香は、孤独だった。「日本国籍」と「美欧大学法学部政治学科1年生」を失い、寄り掛かる物がなくなった美香は、何とか独り立ちしようと必死に藻掻いていた。
それが北伐を契機にして、何かが変わった。おそらくは、オズワルドとの関係が影響しているのだろう。穏やかならぬ経験を経て、彼との間に立ちはだかっていた壁が取り払われ、彼との距離が近くなった。そして美香は雰囲気に酔った勢いでオズワルドに詰め寄り、美香は精神的に少しずつオズワルドに寄り掛かるようになっていった。そして寄り掛かる事を覚えた美香は、これまで以上にレティシアにも心を許すようになっていた。
「…よし」
美香の目の前で林檎の皮むきを終え4つに切り分けたレティシアは、満足そうに頷くと、林檎を盛った皿を片手に席を立つ。そして美香の寝台に歩み寄ると、寝台に上がり、美香の上に馬乗りになった。
「…ちょっと、レティシア?何で上に乗るの?」
布団の中から顔を出して、美香は真上にいるレティシアへと問いかける。それに対し、レティシアは林檎を摘まみ上げながら、当然の様に答えた。
「え?だって、あなた、林檎食べるって言ったじゃない」
「いや、だから、何でわざわざ私の上に乗…んぐ」
質問を返す美香の口に林檎が押し込まれ、質問が霧散する。口が塞がった美香を真上から見下ろしながら、レティシアはもう一つ林檎を摘まみ上げ、自分の口に運びながら答えた。
「そんなの、私が乗りたいからに決まっているじゃない」
そう言うと、馬乗りになったまま、林檎を食べ始めた。
「…」
口に挟まった林檎をもごもごと動かしながら、美香は頬に熱を覚える。何だろう、レティシアとの仲が良くなるのは良いんだけど、何か間違った方向に進んでしまっている気がする。というか、レティシア、あなたもうブレーキないでしょ。アクセルしか踏んでないでしょ。
もきゅもきゅと顎を動かす美香の上で、一足先に食べ終わったレティシアが、3個目を摘まみ上げながら、嬉しそうに美香の顔を見つめている。食べる姿をまじまじと見られ、美香は羞恥を覚えながら、最後の一欠片を飲み込んだ。
「もう1個食べる?」
「…うん」
レティシアの蠱惑的な笑みに引き寄せられるように、美香が顔を赤くして頷くと、レティシアは満面の笑みを浮かべる。そして、
「…ん」
手に持った林檎を自分の口で咥えると、そのまま顔を寄せて、美香の口元へと持って行った。
「ちょっと、ちょっと、レティシア!これは駄目でしょ、アウトでしょ!」
「ん」
「ちょっとレティシア、あなた、話聞いてるの?」
「ん」
「…もぉ」
「…」
美香の抗議の声はレティシアの横を素通りし、空しく天井で跳ね返ってしまう。何を言われても美香の唇に林檎を押し付けたまま微動だにしないレティシアに、美香は観念し、口を開けて林檎に歯を立てた。
「ミカさん、お加減はいかがかしら?…あら?」
「んーーーーーーーーーーー!」
突然扉がノックされ、美香が反応する間もなく、アデーレが入ってくる。林檎で頭を固定され、身動きの取れない美香と、そのままの体勢で微動だにしないレティシアを見たアデーレは、溜息をつき、レティシアを窘めた。
「駄目じゃない、レティシア。そういう事は、ミカさんが完治してからにしなさい」
「…はぁい。申し訳ありません、お母様」
「んーーーーーーーーーーー!?」
アデーレ様、ツッコミどころは、そこなんですか!?
レティシアが林檎を離したため、落とすわけにもいかず、口に林檎を押し込まれたまま、美香のツッコミは言葉にならない。
「レティシア。終わったら、私を呼びに来てね」
「わかりましたわ、お母様」
美香の弁明の機会を奪われたまま、アデーレは部屋を出て行った。
「…ああ、何か、色々と終わった気がする…」
「あん、駄目じゃないのミカ!林檎を落としちゃ!」
呆然と天井を見上げる美香の口元から林檎が零れ落ちて布団に転がり、寝台から降りたレティシアが拾い上げて眉を顰める。レティシアは布団に落ちた林檎を皿に戻すと、4個目の、最後の林檎を摘まみ、美香の口元へと手で運ぶ。
「はい。ちゃんと食べないと、もう一度やるわよ?」
「何か、理不尽なんだけど…」
口元に差し出された最後の林檎を、美香は口を窄めながらも咥え、食べ始める。それを見たレティシアは、笑みを浮かべ、美香が食べ終わるのをじっと見続けていた。
「はぁ…」
やがて林檎を食べ終えた美香は再び上を向き、目を閉じる。
「…何か、疲れた」
「熱が下がっていないんだから、仕方ないわよ。もう一眠りしなさい」
「…」
誰のせいよ、誰の。レティシアの説明に釈然としないものを感じながらも、美香は口には出さず、ぼんやりと考える。今ので、熱が上がったのかもしれない。体が熱く感じ、思考が意識の制御から外れ、取りとめのない事ばかり頭の中をよぎっていく。美香は思考に流されるまま、まとまらない考えを呟いた。
「…ここまで書いておきながら、この章、未だにノープランらしいよ」
「え、何て言ったの?」
「え?私、また何か言った?」
「うん、何を言ったか、わからなかったけど」
「そっか…、やっぱ私、疲れているのかな…」
そう呟いた美香は、レティシアの返事を待たずに寝返りを打つ。
ロザリアの第5月の4日。リヒャルト率いるエーデルシュタイン北伐軍がハーデンブルグを出立してヴェルツブルグへと向かった、翌日の事だった。