94:かつての仲間のために
ジル・ガーランドの人生は、それまでは順調だった。
彼は、兵士だった父親から剣技を教わると瞬く間に才を発揮し、成人前には父親を上回る剣士となっていた。それを見た父親は喜び、息子に騎士への道を勧めるが、彼は断り、ハンターの道へと進む。彼は、自分の心に忠実に生きたかった。彼は、領主や貴族に従う騎士に魅力を感じず、自分の心に忠実になれるハンターに憧れ、門戸を叩いたのである。
ハンターとなったジルは、その持ち前の剣の技と、父親から教えられた戦いへの心構えを武器に頭角を現す。彼は常に前線に立ち、冷静沈着な判断でチームを導き、次々とクエストを成功させていく。彼は決まった相手を持たず、基本的には一人で行動していたが、彼の的確な指示と仲間を想う心に同僚のハンター達は信頼を寄せ、彼は頻繁に合同クエストに誘われ、常にリーダーを任されていた。
彼にとって、それは充実した日々だった。仲間から慕われ、街の人々からは街の守り人として尊敬される。騎士や兵士であれば試合以外ではそう日の目を見る事もないであろう剣技も、クエストの最前線で存分に働き、魔物から仲間を守り、成果を挙げていく。やがて彼はロザリアの祝福を受け、「炎鬼」という、地味だが彼の剣技に合致した素質を授かると更に飛躍し、27歳でついにA級ハンターへと上り詰める。以来、彼は常に第一線に立ち続け、ラ・セリエを代表するハンターとして活躍し続けた。
そんな彼の人生が変化したのは、1年余り前の事だった。一昨年の暮れに実施された合同クエストでジルは采配を誤り、参加したハンターの3分の2を喪った。クエスト自体はほとんど相討ちという形で辛うじて成功したが、ラ・セリエにたった2人しかいない、唯一彼と肩を並べるA級ハンターまで犠牲となった事に、ジルはショックを受けた。その上、クエストは成功したものの、その後悪魔の降臨を招き入れ、ラ・セリエの住民達は暫くの間不安な夜を過ごす事になった。それは、彼にとって初めてとも言える挫折だった。
失意の底に落ちたジルに対し、ラ・セリエの住民やハンター達は、これまでと変わらない態度で彼と接してくれた。ハンター稼業とは、魔物討伐とは、突き詰めれば命を賭け金にした博打である。当然そこには負けもあり、死と隣り合わせでもある。その博打に負けたジルに対し、ハンターという仕事を良く知るラ・セリエの人々は、諦観の念をもって受け入れ、彼の責を追及しなかった。ただ一人、彼だけが、自分を赦せないでいた。
彼は救いを求めて、次の戦いへと進んで行く。その後もラ・セリエの数々のクエストをこなし、全てを成功させていた。そんな彼の姿を見た住民達は、彼は立ち直ったと判断し、これまで通り彼と接してくれたが、それは彼にとって救いとはならなかった。彼が本当に欲しかったのは、「あなたの功績を、償いを受け入れ、あなたを赦します」という一言だったのかも知れない。だが、ラ・セリエの住民は、誰も彼にその一言を伝えず、彼は更なる救いを求めて戦いへと進んで行く。
北伐が発布された時、彼は今度こそ救われると考えていた。北伐によってエミリアの森を奪還し、人族の悲願を達成する。その歓喜の元で自分が救われる事を信じ、彼は北伐の地へと踏み込んだ。しかし、その夢は脆くも崩れ去り、彼はほとんど何もしないまま、這う這うの体で逃げ帰る事になった。
そんな彼の耳に届いたのが、セント=ヌーヴェルとエルフの裏切りだった。彼はそれを聞いた時、頭が沸騰する思いだった。人族の悲願が、自分の救済が、この様な形で瓦解した事が赦せなかった。彼はラ・セリエを、カラディナを代表して、セント=ヌーヴェルとエルフに正義の鉄槌を振り下ろすべく、西誅軍へと参加する。
そして彼は、自分の心に忠実に従い、セント=ヌーヴェルとエルフに懲罰を加えていった。魔族に唆されたセント=ヌーヴェルの兵士に剣を振り下ろし、逃げ惑う住民達を斬り伏せた。怯え震える姿でジルを惑わすエルフの女に対しては、その罪深い肢体に相応しい罰を、自らの体を使って刻み込んだ。
こうしてセント=ヌーヴェルとモノを席巻し、思うままに懲罰を加えていったジルは、自分の心に従い次の懲罰の地へと向かい、
――― そして、今、自分の命を賭け、かつて肩を並べた仲間と相対している。
***
「…久しぶりだな。こんな所で会いたくなかったよ、――― ジル」
ジルは、目の前に立ち自分に話しかける女の姿が、信じられなかった。女は、以前と変わらない完璧な美貌を備え、長く美しい銀色の髪をなびかせている。その側頭部には彼女の種族的特徴である、大きく形の整った三角形の耳が立ち、背後には美しい毛並みの尻尾が揺らいで見える。
彼女はジルの記憶のままの姿だったが、ただ二つ、記憶と異なっていた。かつて美しかった左腕には、2本の太い裂傷が走り、痛々しい罅割れを起こしていた。そして彼女の瞳が発する、全てを焼き尽くすような苛烈な光は鳴りを潜め、悲しそうな表情でジルを見つめていた。…まるで、ジルを憐れむかのように。
「…シモン、お前、まさか生きて…、いや、貴様は一体、何者だ!?」
「…」
目の前に立つ女に、ジルは恐る恐る声をかけるが、やがて彼は内心の動揺を抑え込み、女に対し剣を構えて追及する。それに対し、女は黙ったまま、悲しそうな表情で見つめている。黙ったままの女を見てジルは確信を持ち、口を開く。
「シモン・ルクレールは、レヴカ山で死んだ。…そうか、貴様、魔族か。貴様がエルフを唆し、セント=ヌーヴェルを誑かして、裏切らせたのか!」
「…ジル…」
ジルの頭の中で、全てが繋がった。シモン・ルクレールは、レヴカ山で悪魔に憑かれ、死んだ。悪魔憑きから孵化した悪魔は、周辺を闊歩して人族を平らげた後、ガリエルの下へと向かうとされている。そして、それとは別に、定期的に中原で見つかる魔族の存在。つまり、ガリエルの下に向かった悪魔が、再び魔族として派遣されていたのだ。中原を内部から食い荒らすための毒虫として。そう考えると、全ての辻褄が合う。
ジルは、天啓のように頭の中に閃いた真実に驚愕しながらも、自身の運命に納得する。そうか、私は今ここで天啓を得るために、導かれていたのだ。その結論に至ったジルは、心の底から喜びが湧き上がってくるのを感じる。この天啓を、中原にいる人族に伝える事ができれば、私は救われる。ついに自分の使命が明らかになり、心が軽くなったジルの目の前で、シモンの姿をした魔族が口を開いた。
「…ジル。剣を捨て、降伏してくれ。君の命は、必ず私が守ってみせる。生きて帰って、私のいなくなったラ・セリエを守ってほしいのだ。…頼む、降伏してくれ」
「黙れ!この、汚らわしい魔族め!」
魔族の、ジルの身を心から気遣い案じる様な物言いに、ジルは怖気を感じ、怒鳴りつける。
「貴様!シモンの姿を騙って私を陥れようとしても無駄だ!彼女の死をも冒涜するその所業、私は決して赦しはしない!魔族め、いつまでもシモンの姿をせず、その醜悪な正体を現してみろ!」
「…ジル、頼む。私の話を聞いてくれ…」
「近寄るな、貴様!それ以上近寄ったら、斬る!」
魔族は今にも泣きそうな顔でジルに手を伸ばそうとするが、彼は剣を構え、近づくのを阻止する。その、先日組み伏せたエルフの女よりも遥かに劣情を催す、シモンを模した姿にジルは内心の動揺を抑え込み、恫喝する。
「その姿で私を誑かそうとしても無駄だ!その汚らわしい、恥知らずな正体、今すぐ暴いてみせてやる!」
そう声を張り上げたジルは剣を振りかぶり、魔族へと襲いかかった。
ジルの振り下ろした剣を、魔族は半身を引いて躱す。すかさず振り下ろした剣を切り上げ、横なぎに払うが、魔族は地を蹴って下がり、その致死領域から逃れる。ジルは前へと踏み出し、振り切った剣を返すように斜めに振り下ろした。魔族は身を反らし、斬撃が空を切る。魔族はまるで生前のシモンが降臨したかのように舞い、ジルの渾身の攻撃を嘲笑うかのように躱し、言葉でジルを惑わし誘惑する。
「ジル!頼む!正気に戻ってくれ!私の話を聞いてくれ!」
「黙れ、魔族め!その顔で!その口で!私を惑わすな!」
ジルの殺意を籠めた攻撃にも、魔族は反撃をしようとせず、回避に専念して甘言を紡ぎ続けている。その悪辣さにジルは吐き気を覚え、相手を罵倒する。
「汚らしい魔族め!その顔で!その口で!その体で!エルフを唆し、セント=ヌーヴェルを誑かしたのだな!その淫らな、いやらしい体を開き!男どもを誘惑し!堕落させたのだな!この淫売め!私は騙されんぞ!」
「ジル…、頼む、頼むから話を…!」
何処までも誘惑を止めない魔族に、ジルは舌打ちをし、止めを刺すように言葉を叩き付ける。
「貴様も!エルフも!人族に媚びを売り、股を開く事しかできない、堕落した存在だ!貴様らに、生きる価値はない!我々は、貴様らを決して赦しはしない!」
「…ジル、君はまさか、エルフの女に手をかけたのか?」
ジルの攻撃を躱し続けながら、魔族が呆然とした顔で問いかける。その問いに、ジルは自己の正当性を主張する。
「当然だ!奴らは貴様に唆され、ガリエルに身を売った恥知らずだ!その罪科を知らしめるためには!その身をもって償わせるのが、一番だ!女には、それでしか償う方法など、ない!」
「…そうか、君は変わってしまったんだな。残念だよ」
そう魔族は呟き、ジルが振り下ろした剣を躱すと、下ろし切った剣の腹を横合いから右足で踏み潰す。獣人にも匹敵する膂力に負けて剣が斜めに傾き、ジルの体勢が傾いたところに、魔族は剣の上に乗せた右足に体重を乗せ、左足を踏み出して右掌底をジルの鳩尾へ叩き込んだ。
「がはっ!」
剣から両手を離し大きく仰け反ったジルに、魔族は右足を振り上げ、がら空きの喉元に踵が突き刺さる。
「…あ…」
喉の奥で何かが砕け散り、糸が切れた音を聞いたジルは、そのまま仰向けに倒れ込んだ。首は真横を向き、糸の切れた操り人形のように、そのまま動かなくなる。
「…シ…モン…」
悪魔に体を乗っ取られ死を迎えた、かつての仲間の名を呼び、ジル・ガーランドは、その一生を異郷の地で終えた。
***
地面に大の字に転がり、あらぬ方向に首を向けたまま動かないジルの姿を、シモンが悲しそうな表情で見つめていた。
「シモンさん…」
馬から降りて駆け寄ってきたセレーネがシモンの左手を取って、気遣うように声をかける。それに対し、シモンはジルを見つめたまま、小さく呟いた。
「…大丈夫。大丈夫だ、セレーネ」
「…」
セレーネは、下を向いたままのシモンを見上げると、シモンの前に回り込んで背伸びをし、シモンの後頭部に手を差し伸べると、そのまま自分の肩へと引き寄せた。
「あ…」
「うん、大丈夫だよ、シモンさん。お姉ちゃんが、傍にいるからね」
やがてシモンは地面に両膝をつくと、セレーネの背中に両腕を回し、その華奢な体をしっかりと抱きしめる。
「うん、…ありがとう、お姉ちゃん」
物言わぬ男の脇で、二人はそのまま暫くの間、何も言わず佇んでいた。




