91:ティグリの覚悟
大草原にいつもと変わらぬ太陽が昇り、眩い陽の光が差す。横殴りの光は、あらゆるものを打ち倒し、地面に長い影をのさばらせている。モノの森に立つ木々も多分に漏れず、森の入口には、陽の光と長い影とが入り混じり、長い縦縞模様が出来上がっていた。
ヘルマン率いるティグリの別動隊3,000は、モノの森の入口に馬を繋ぐと警戒のために400を残し、2,600で森の中へと入る。まだ日が昇ったばかりで起き抜けの動きが鈍い頃であり、警戒も気が緩む時間帯だ。ヘルマンは逸る心を抑え、別動隊は静かに、しかし迅速に森の中を走り抜ける。
やがて数々の丸太小屋が見え、その先に中央広場が見えていたところで人の気配を感じたヘルマンは急停止し、別動隊を散開させる。そして、静かに、ゆっくりと広場へと忍び寄って行った。
エルフは草原の民であり、そして狩りの名手である。広く遠くまで見渡せる大草原で狩りをして生活するだけあって、気配を隠して獲物へ近づく手腕は、目を瞠るものがある。生半可な人族では気づけない事を、ヘルマンは知っていた。しかし、この日のヘルマンの予想は、あっさりと覆された。
「誰だ!?」
驚いた事に、敵の見張りがヘルマン達の気配に気づき、誰何の声を上げたのだ。予想外の事にヘルマンは些か動揺する。しかし、気づいた敵は、まだ一人だ。まだ取り返しが利く。そう判断したヘルマンは弓に矢をつがえ、藪の中から身を起こして弓を引く。しかし、
「…あ?あんたら、何処の氏族の者だ?」
「…あれ?」
振り向いた相手の頭から伸びる長い耳を見て、ヘルマンは間の抜けた声を出す。
モノの森は、すでに他の氏族によって、奪還されていた。
同士討ちの危険を辛うじて回避したヘルマンは、慌てて弓を収め、相手のエルフに声をかけた。
「私は、ティグリ族のヘルマンだ。モノの助勢のため、兵3,000を引き連れ、今到着したところだ。あんたはラトンの者か?すまないが、指揮官に会わせて貰いたい」
ヘルマンの名乗りを受け、相手のエルフも表情を軟化させる。
「ああ、ティグリの。わざわざ加勢に来てくれて、感謝する。あんたの推測通り、俺達はラトンの者だ。モノの森は、昨晩俺達が夜襲し、無事奪還に成功した」
「ああ、そうだったのか、ラトンの。あんた達の勇志に心より感謝する」
ヘルマンの謝辞に、ラトンのエルフは笑いながら手をひらひらと振る。
「いいって事よ、お互い様さ。あんたらだって、今大変だろ?人族の奴ら、ティグリの森に向かったんじゃないのか?」
「ラトンに向かっていなければ、おそらくその通りだ。今頃、本隊が対処しているだろう」
「そうか。そんな中で、わざわざモノまで加勢しに来てくれたんだ。こちらこそ、礼を言わせてくれ。…ちょっと待っててくれ、棟梁を呼んでくる」
ラトンのエルフは、ヘルマンに手を振ると身を翻し、広場の奥へと走っていく。その後ろ姿を見送ったヘルマンは後ろを向き、別動隊に参集を呼びかけた。
「ラトン族長ウルバノの息子 ミゲルだ。助勢、感謝する」
「ティグリ族のヘルマンだ。こちらこそ、ラトンの果敢な行動に礼を言わせてくれ」
ヘルマンの許に駆け寄ってきたミゲルは手を差し出し、二人は固い握手を交わす。刹那の間二人は笑顔を交わしたが、すぐに顔を引き締めた。
「ミゲル殿、状況を教えてくれ」
「ああ。昨晩、ラトン3,000をもって夜襲を敢行した。夜襲は完全に成功し、人族はほとんど全滅だ。捕虜1名を確保している。…奴ら、笑いながらモノの女達を代わる代わる暴行していやがったよ。それを見たら、抑えられなくてな…くそ」
報告の途中で、ミゲルは悔し気に顔を歪め、下を向いて地面を蹴り上げる。その姿をヘルマンは沈痛な面持ちで眺めていた。
「…人族の奴ら、何て酷い事を。…モノの女達は?」
「湯浴みをさせ、休んで貰っている。しかし、ショックが大きく、ほとんどの者が呆然としたままだ」
「そうか…」
適当な言葉が思い浮かばず、ヘルマンは言葉を濁す。ミゲルは変わらず下を向いたまま、少しの間、二人は黙ったまま立ち竦んでいた。
やがて、ヘルマンが静かに口を開く。
「…こちらの状況を伝えておこう。私は間接的な情報しか持ち合わせていないが、奴らの本軍がここにおらず、ラトンにも向かっていないとなると、おそらく全軍がティグリへと向かったのであろう。それに対し我々ティグリは、奴らを罠に陥れ、対処しているところだ」
「罠だと!?」
頭を上げたミゲルに対し、ヘルマンが頷く。
「どんな?」
「…ティグリの森に奴らを誘い込み、井戸にジョカの葉汁を放り込んだ」
「何だと!?ティグリの!お前達は、森を捨てる気か!?」
思わず掴み掛かるミゲルに、ヘルマンは沈痛な面持ちで首肯する。
「ティグリの民を救うためだ。そのために、我らの族長グラシアノは、それ以外の全てを犠牲にする決断をしたのだ」
「何てことだ…、グラシアノ殿は北伐でセレーネ殿を喪ったばかりだと言うのに、その様な苦渋の決断までしたのか…」
「…いや」
ヘルマンの胸倉を掴んだまま俯くミゲルの言葉を、ヘルマンが訂正した。
「唯一の吉報がある。セレーネが、無事に生還した」
「何!?」
「セント=ヌーヴェルのハンターが、セレーネをわざわざティグリまで送り届けてくれた。族長、飛び上がって喜んでいたよ」
「そうか…、セレーネ殿が…。良かった、それだけでも本当に良かった…」
胸倉を掴んだまま感情を堪えるミゲルに、ヘルマンが言葉を続ける。
「…ミゲル殿。我々は、奴らを罠に嵌めた。私が此処に来たのは、実は奴らの息の根を止めるためだ。そのために、ラトンの者達にも協力を願いたい」
「…何をする気だ?」
胸倉を掴んだ手をいつまでも離す事ができないまま顔を上げたミゲルに、ヘルマンは沈痛な面持ちで、厳かに宣言する。
「モノの生き残りを引き連れ、モノを離脱してくれ。モノの井戸にも、ジョカの葉汁を放り込む」
「なぁ!?ヘルマン殿!あんた達、ティグリは何を考えている!?お前達は、本当にエルフなのか!?」
「民を、全ての森のエルフを救うためだ」
激しく揺さぶられたヘルマンは、しかし動じずに断言した。
「戦力差で4倍を超えた相手に対し、地の利もない我々が対抗できる唯一の策だ。この策を採るために、我々は全てを捨てたのだよ。森を、家々を、家畜を、全て捨てたのだよ。誇りなど、とうの昔さ」
「何てことだ…」
ミゲルは呆然とした顔で、ようやくヘルマンの胸倉から手を離す。追い縋るように、ヘルマンの言葉が続いた。
「罠を完成させるために、モノの井戸の汚染は必須だ。我々は全てを捨てて、臨んでいる。やるからには、徹底する。全てのエルフの汚名を被ろうとも、罠を完成させ、奴らの息の根を止めるつもりだ。奴らが二度とこの大草原に来る気が起きないよう、大草原と聞いただけで震え上がるほど、徹底して息の根を止めるつもりだ。…ミゲル殿、力を貸してくれ」
「…」
口を開いたまま、ミゲルが動きを止めている。するとヘルマンが突然、場違いな笑みを浮かべた。
「一つだけ、言っておこう。この策を講じたのは、我々ティグリではない」
「何!?」
「…セレーネを救い出した、人族の男だ。我々には、想像すらできなかった。我々は、自らの将来を自らの頭で描く事が、できなかったんだ」
「…」
押し黙ったままのミゲルに向け、ヘルマンの呟きが続く。
「しかし私は、それを恥だとは思わない。自らの将来を自分で切り開けなかった事は残念ではあるが、恥だとは思わない。むしろ、誇りに思う。我々エルフが、この策を想像すらできなかった、その心意気こそ誇るべきものだと、私は思うのだ」
「…」
ヘルマンの呟きを聞いたミゲルは、暫くの間俯いていたが、やがて顔を上げ、ヘルマンを見据える。
「…その人族の男にもし会う事があれば、俺は思いっ切り文句を言ってやる。しかし、ティグリの覚悟は、しっかりと伝わった。我々ラトンも、ティグリの策に協力しよう」
「かたじけない、ミゲル殿」
こうしてモノの森の中では、ラトンとティグリのエルフ達が慌ただしく動き回り、準備を進めた。ラトンの男達は馬車を整えて食料とジョカの実の粉を載せ、生気のないモノの女達を気遣いながら馬車へと連れて行く。また、少しでも生気のある女は、自分の馬の後部に乗せて、自分にしがみ付かせた。その間にティグリの男達は、森中の井戸を駆け巡り、ジョカの葉汁を流し込んでいく。
こうして4時間ほどが経過した頃、全ての作業が終わったラトンのエルフは、ラトンの森へ向かって出立した。ティグリのエルフはここでラトンと袂を分かち、戻ってくる人族に備え、一旦モノから離れた。
「…つぅ」
「大丈夫?コレットさん」
馬車が跳ねた振動で、顔を顰めたコレットに、同じ馬車に乗ったモニカが気遣う。湯浴みをして、元の可憐な姿を取り戻したモニカに、コレットは表情を緩め優しく答えた。
「ああ、大丈夫だよ、モニカ。これでも一人前のハンターなんだ。この程度の痛み、大した事…あ痛たたた」
「あん!だから言ったじゃない!ちゃんと寝ててよ、コレットさん」
再び馬車が跳ね、思わず呻き声を上げたコレットをエリカが窘め、頭に手を乗せてコレットを寝かしつける。まるで娘に看病される母親の様な雰囲気に、コレットは思わず苦笑してしまう。
モノの駐留軍の中で唯一の生存者となったコレットは、自らの運命をエルフ達に委ね、ラトンへと向かって行った。