87:守るべきもの
ティグリの森の広場には、人だかりができていた。辺りには篝火の跡が無数に点在し、一部には酒壺や食器が残されて、昨晩の酒宴の余韻が窺える。しかし今や広場から喜びは一掃され、代わりに驚きと悲しみと不安に満たされていた。
族長グラシアノは、セレーネとヘルマンの他、複数のエルフを伴って広場に入り、人だかりへと向かう。グラシアノの姿に気づいたティグリのエルフ達は道を譲り、人だかりはグラシアノに対し道を開いた。中心には、複数のティグリのエルフに介抱された一人のエルフが、力なく座り込んでいた。
グラシアノは、エルフの前に歩み寄ると片膝をつき、声をかける。
「ティグリ族 族長グラシアノだ。モノの同志よ、何があったか私に教えてくれ」
グラシアノの声に、モノのエルフは土気色の顔を向け、か細い声を上げた。
「…3日前に、モノの森が人族の軍に襲われました。敵の数は膨大で、少なくともモノの全人口の倍以上。私が伝令としてモノを発った時には、すでに森の中に敵の侵入を許しており、甚大な損害を被っていました。モノのエルフは、族長ガスパルを筆頭に、果敢に人族へと立ち向かっていきましたが、地の利を生かせず、劣勢となっておりました。そのため族長は、ティグリとラトンに向けて緊急の伝令を命じ、私がティグリへと向かった次第です」
「何と言う事だ…」
モノの報告を聞いたエルフ達は絶句し、同時に伝令の身を案じる。モノの森からティグリの森までは、通常徒歩で5日程度。馬の身を案じるのであれば、騎馬でも同程度である。それを3日で走破したとなると馬を使い潰したとしか思えず、彼も不眠不休に近いと言える。実際、彼はティグリの森に徒歩で到着していた。
「…グラシアノ様。人族は、エルフ全てを滅ぼすつもりで襲ってきております。モノの森では、老人と男は片っ端から斬られ、若い女は人族どもに囚われました。人族はじきに、隣接するティグリとラトンに襲い掛かるでしょう。…グラシアノ様、何卒モノの仇を討ち、大草原をおぞましき人族の手から救って下さい」
「わかった、我々ティグリが、必ずやモノの仇を討とう。伝令、ご苦労だった。まずは体を労わってくれ」
そう言うと、グラシアノは氏族の者に伝令の介護を命じる。続けてモノの森の方向へ索敵を出し、氏族の主だった者へ使いを走らせると、ティグリの集会場へと足を向けた。セレーネとヘルマンが後を追う。
「…トウヤ殿、シモン殿」
集会場へと向かう途中、人だかりの陰に隠れていた柊也とシモンに声をかける。柊也は、モノの伝令に疑念を抱かれないよう、隠れて話を聞いていた。グラシアノは、二人の返事を待たずに言葉を続ける。
「人族を良く知るお二方に頼みがある。どうか、ティグリを、エルフを守るために、知恵を貸してくれ」
グラシアノの頼みに、柊也は間髪入れずに答えた。
「了解した、グラシアノ殿」
小一時間後、集会場で車座となった有力者達を前に、グラシアノが口を開いた。
「報告の通り、3日前にモノが人族に襲われ、壊滅した。人族の軍勢は我々の2倍以上の数で、しかも全員が戦闘員だ。女子供を除けば、実質戦力は4倍以上と見た方が良い。ティグリは存亡の危機に立たされている。ティグリを、ひいてはエルフを人族の魔の手から救うために、忌憚ない意見を述べてくれ」
グラシアノが口を閉ざすと、人々は口々に意見を述べた。
「ティグリの森は、我々の故郷だ。断じて人族を踏み入れさせるわけには、いかない。女子供を駆り出してでも、死守すべきだ」
「我々の力は弓にある。ありったけの矢を射込めば、きっと勝機を見出す事ができる」
「サーリア様なら、きっとこの危機を前にお目覚めになり、我々を守護して下さる。そうすれば、きっと戦いに勝てるはずだ」
「大草原で、我々エルフの右に出る者はいない。ここは討って出て、騎馬に活路を見い出すべきではないか?」
討議は次第に熱を帯びて侃々諤々となる中、柊也は集会場の末席で胡坐をかき、目を閉じて黙っている。両脇にはシモンとセレーネが座り、セレーネは不安そうに柊也を見つめていた。
やがて一通り意見が出尽くし、沈黙が一時的に場を支配したところで、グラシアノが柊也とシモンに話を振った。
「トウヤ殿、シモン殿。お二人は我々より人族に明るい。お二人の意見を聞かせてほしい」
グラシアノの言葉を聞いたエルフ達は、一斉に二人に顔を向ける。その視線に敵意はない。討議が始まる前に、グラシアノが二人を、セレーネの命の恩人でかつセント=ヌーヴェルの人族であると紹介していたが、それにしても柊也に対する種族的嫌悪が一切なかった。このエルフ達の純真さに、柊也は内心で感謝と好意を覚えていた。
グラシアノに話を振られた柊也は目を開き、言葉を返す。
「グラシアノ殿、まずは幾つか質問させてもらいたい。一つ、モノの兵力と、ティグリの兵力に差はあるのか?」
「モノとティグリは、人口も兵力もほぼ同じだ。せいぜいティグリの方が1割程度多いくらいだろうな」
柊也の質問にグラシアノが答える。実際のところ、モノの総人口は20,000、ティグリのそれは23,000程度であった。
グラシアノの回答に柊也は頷き、質問を続ける。
「二つ、モノの森とティグリの森に違いはあるか?例えば、ティグリの方が守りやすい、とか」
「ないな。モノもティグリも、他の氏族の森も同じようなものだ。大草原の中にぽっかりと島のように森が浮かんでいるものでな。見ての通り、辺りは見晴らしの良い草原だ」
これは柊也も実見していたので、ある程度予想された回答だった。エルフの森には、防御の備えがない。高低差のない見晴らしの良い草原の中に森があり、高台にもなっていない。そして、その森には城壁にも土塁にも堀にも囲われておらず、外部からの侵入に無防備な状態だった。
「三つ、モノとティグリのエルフの間に、能力的な違いはあるか?ティグリは素質持ちが多数いたり、際立った戦闘技術があるか、等だ」
「ない。エルフの氏族間で、弓や騎馬の技量に違いはない。そして、大草原では素質も魔法も使えない」
「なるほど…」
柊也は溜息をつき、結論を述べる。
「つまり、モノを壊滅させた相手に、モノと同じ兵力と兵質と地形で立ち向かおうというわけだ…。エルフは狩りの時、前回手も足も出ず、コテンパンにされた獲物を相手にして、同じ手法で仕留めようとするのか?」
「ぐ…」
柊也の言葉に、グラシアノは苦渋の表情を浮かべる。柊也の言葉は質問ではなく、このまま西誅軍を迎えた時のティグリの将来を意味していた。
「トウヤ殿!そ、それでは我々は、どうしたらいいのだ!?」
「我々はこのまま、坐して死を待つ他にないのか!?」
柊也の見解を受け、焦燥のあまり何人かの有力者が声を張り上げる。その有力者に対し、柊也は左手を上げて制止する。
「皆、待ってくれ。同じ手法では、勝てないと言っただけだ。別の手法を取ればいい」
「ど、どんな!?」
有力者達の声に柊也はすぐには答えず、再びグラシアノに問いかけた。
「グラシアノ殿、重要な質問だ」
「――― 森、民、財物、誇り。このうち一つしか守れないとしたら、あなたは何を選ぶ?」
「民だ!」
柊也の質問に対し、グラシアノは間髪入れず、血を吐くように咆哮する。その姿を見たヘルマンは、胸中に湧き上がる熱い思いを必死に抑え込んだ。ああ、「ティグリの眠れる獅子」、未だ健在!
グラシアノの回答に、柊也は厳しい表情を和らげる。
「…良かった。その一つであれば、守る手がある」
そう答えると、柊也は再び一同を見渡し、言葉を続けた。
「敵は強大だが、一つ大きな弱点を抱えている。それを突こう」
「弱点とは?」
有力者達が、身を乗り出して柊也の言葉に耳を傾ける。
「…輜重だ。人族の世界には魔法があるが、この恩恵を最も受けているのは、実は軍やハンターではない」
「――― 物流だ」
柊也は、説明を続ける。
「『ライトウェイト』と『クリエイトウォーター』という魔法がある。前者は荷物の重量を軽減し、物資の運搬を容易にする魔法、後者は水を空中から生み出し、水の運搬自体を不要にする魔法だ。この二つの魔法のお陰で、人族世界における物流は、かなり発展している。そして、これは軍事行動にも言える事であり、彼らの輜重は軍の規模と比較するとかなり小規模、悪く言えば貧弱なんだ」
ここで柊也は、左人差し指を真下に向ける。
「しかし、ここ大草原では魔法が使えない。つまり、彼らはこれまで経験した事のない逆境の中で進軍している事になる。補給物資はこれまでの何倍も重く、しかも水を運搬するという想像もしなかった作業が加わっている。それでもモノまで辿り着けたという事は、何とか体裁を整えたようだが、今や、輜重は火の車だ。余計な事を考えている暇など、ない。そこを叩く」
「…具体的には?」
グラシアノの問いかけに対し、柊也は淡々と答えた。
「ティグリの全エルフに脱出の準備をさせるんだ。この森を、捨てる」