75:アラセナの宝石
セント=ヌーヴェル北東部最大の都市、アラセナ。平時であれば、南西に広がる田園地帯から齎される農産物と、東部に生息する魔物が齎す素材が行き交い、羽振りの良いハンター達が酒場に金を落とす活況ある街であるが、今は街全体が悲嘆と混乱に溢れ、逃げ出そうとする人々で溢れかえっていた。
南方の都市レセナが西誅軍の包囲を受けて陥落し、西誅軍兵士の暴虐により壊滅したとの報を受け、街中が震え上がった。西誅軍はロザリア様の名の下にセント=ヌーヴェルの浄化と称し、男と老人と子供を殺し、若い女を強姦し、あらゆる物を略奪していった。
レセナからアラセナまでの距離は、徒歩でわずか1週間。間に無数の村落と中規模の街が2つほどあるだけで、西誅軍を遮るものは、何一つない。目前に迫ってきた終末を前に、人々は狼狽し、自らの運命の投資先を血眼になって探し回った。ある者は分厚い街壁に運命を託して、この街で戦い続けると決め、またある者はこの街を見限り、首都サンタ・デ・ロマハへの逃避を選んで去っていた。しかし、逃げ出した先に決して安住が約束されているわけではない。西誅軍の目標はサンタ・デ・ロマハであり、奇跡でも起きない限り、いずれ西誅軍を目にする事になるのだ。
街中が蜂の巣をつついたような大騒ぎの中、アラセナの領主ロベルト・デ・ベルグラーノは、不眠不休で籠城のための準備を進めていた。街に残ると決めた人々から志願者を募って守備隊に編入し、少しでも戦力を整える。街から逃げ出そうとする人々で溢れる西門を除く、全ての門を塞いで内側に石を積んでいく。近隣から食料をかき集め、水を貯蔵し、矢を量産する。ロベルトはアラセナの領主として、この街と運命を共にし、そして迫りくる終末に抗おうと最大限努めていた。そんな彼の元に、その日、一人の男が訪れた。
「お呼びでしょうか、閣下」
「ああ、よく来たな。そこに座って少し待っていてくれ」
ロベルトに呼ばれた男は、応接の椅子に座り、じっとロベルトが来るのを待つ。ロベルトは、防衛に向けた様々な決裁に奔走しており、何枚もの紙にサインを記していった。
10分ほど経ってサインを終えたロベルトは、執事に書類を手渡して退室を促す。執事が退室して扉を閉めると、ロベルトは男の対面に座り、煙草に火をつけながら口を開いた。
「久しぶりだな、ホセ。何年ぶりだ?」
「3年になります」
「そうか、もうそんなに経つか。時間が経つのは早いものだな」
「お嬢様は、お元気ですか?」
「ああ、元気にしているよ。私とは未だに口を利いてくれないがね」
ロベルトはそう言うとニヤリと笑い、ホセは表情の選択に悩んだ末に、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
2口ほど煙草を吸ったロベルトは、煙草をもみ消すと前屈みになって、口を開く。
「ホセ、お前にクエストを頼みたい」
「…この瀬戸際にですか?」
「ああ。サンタ・デ・ロマハへ向かう、フローリアの護衛を頼む」
「それは…!」
ロベルトの言葉を聞いたホセは、驚きのあまり言葉が続かなかった。覆いかぶせる様にロベルトが言葉を続ける。
「私はこの街に残る。領主としてこの街を守り、この街と運命を共にする。それは領主として当然の責務だ。だが、娘にその運命を強要するつもりはない。親馬鹿と思うかもしれんが、アレはこの国一番の美姫だ。西誅軍の暴虐ぶりは知れ渡っている。娘が奴らの手に渡ったら最期、どの様な運命になるか、火を見るよりも明らかだ。ここは領主としての特権を使わせてもらう」
そう言って口を噤んだロベルトは、ホセに射込むような視線を向けた。
ロベルトの評価は、誇張されたものではなかった。ロベルトの一人娘、フローリア・デ・ベルグラーノは「アラセナの宝石」と呼ばれ、セント=ヌーヴェルで最も美しい女性として近年噂されていた。国王パトリシオ3世もその噂を耳にしており、前国王の崩御と政略結婚の問題がなければ、側室に迎えていたであろうと言われていた。
ホセは暫らく経って、ようやく口を開く。
「…しかし、私が抜けたら、この街の危険が増大します。ただでさえ、北伐によってハンターや魔術師に甚大な被害が出ています。ここで数少ない素質持ちが離脱する事は、自殺行為に等しいではありませんか?」
「ここでお前が抜けても抜けなくても、大して変わらんよ」
「な…!」
あっさりとロベルトは断言し、ホセは言葉を失う。
「ホセ、お前はセント=ヌーヴェル最強のハンターであり、あの北伐からも生還した強運の持ち主でもある。私としては、そんなお前だからこそ娘を託したいのだ」
ホセは、ラモアでシモン・ルクレールに完敗しており、自分をセント=ヌーヴェル最強のハンターとは考えていなかった。しかし、そのシモンは北伐の地で行方不明ととなり、彼の地で死亡したと伝えられている。ラモアでの一件は素質を封じた試合だった事もあり、ホセがセント=ヌーヴェル最強のハンターという周囲の評価は、変わっていなかった。
ロベルトの決断に固まっているホセを見て、ロベルトは会心の笑みを浮かべた。
「ああ、そうだ。このクエストは、成功報酬だからな。クエストが無事終了したら、フローリアは好きにしろ」
「閣下!?」
赤面し、思わずソファから立ち上がってしまったホセを、ロベルトは面白そうに見る。
「お前を出入禁止にしただけで3年も口を利かない様な、親不孝者だ。私はもう匙を投げた。何処へでも連れて行け」
***
話を終えたホセは、屋敷を出るとロベルトに言われた通り、中庭へと向かう。緑溢れる庭園の中に東屋が建っており、そこに一人の若い女性が佇んで、池の中を泳ぐ水鳥を眺めていた。
「お嬢様」
ホセが女性に声をかけると、女性は一瞬身を固くし、ホセの方へと振り返る。長く美しいブロンドの髪が、持ち主の動きに合わせて美しい曲線を描いていく。
やがて、女性はホセの姿を目にすると、長く美しい目を大きく見開き、しばらくの間動かなくなる。口が二度三度開くが言葉にはならず、やがて唇の開閉が止まると、わなわなと震えだす。そして、その震えとともに、女性はゆっくりとホセの方へと歩み始め、それはすぐに駆け足へと変わった。
「ホセ様!」
女性はそのままホセの胸元に飛び込むと、そのままホセの硬い胸板に頬ずりをする。対するホセは、手の置き所に困ったように、あるいは壊れやすい硝子細工を扱うかのように、女性の両肩に軽く添えていた。
「ああ、ホセ様、ご無事で良かった…。北伐の惨状を聞いた時には、このフローリア、不安で胸が張り裂けそうで、居ても立っても居られませんでした。何度お父様に詰め寄って、ラモアまで迎えに行こうかと思ったか。でも無事に戻られて、本当に良かった…。またお会いできて、本当に良かった…。この3年、あなた様の事を想わない日は、一日たりともございませんでした」
「お嬢様…」
ホセは、フローリアの両肩に手を添えたまま、ほとんど固まった様な状態でフローリアを眺めている。3年ぶりに再会したフローリアの姿は、ホセの記憶とは大きくかけ離れ、眩いほどに美しく輝き、華開いていた。
ホセとフローリアの出会いは、8年前まで遡る。フローリアが11歳の時に母親とともにラモアまで行く用事があり、その護衛に雇われたのがホセであった。
そしてラモアからの帰り、一行は20人程の盗賊に襲われる。10人の護衛は次々に討ち取られ、わずか一人まで減らされたが、最後の一人となったホセがフローリア母子を最後まで守り通し、盗賊を打倒したのだった。
その報を知ったロベルトはホセの働きに感謝し、当時B級だったホセの昇級を推薦する。そして、その後もベルグラーノ家の護衛として度々ホセを指名して、フローリア母子の警護を任せた。
フローリアにとって、ホセは命の恩人であり、11歳の時から彼女の身を守り続けてきた騎士であった。その15歳年上の男性に幼い少女が慕情を覚えるのはごく自然な成り行きであり、少女はホセの警護のたびにその感情を呼び覚まし、成長させていった。
そして4年が経過してフローリアが15歳の誕生日を迎えた日、警護の途中で、ホセに自らの想いを打ち明けたのだった。
ホセにとって、フローリアの告白は青天の霹靂だった。ホセはA級とはいえ、ハンターは社会的地位の高い職業ではない。一方、フローリアはセント=ヌーヴェル有数の名家の令嬢である。容姿についても、ホセは可もなく不可もないごく普通の顔立ちであり、しかも15歳も年上である。それに対しフローリアは、後年「アラセナの宝石」と呼ばれる美貌が早くも片鱗を見せ始め、眩いほどに輝いていた。
ホセは身分と年齢の差を理由にフローリアに翻意を促すが、フローリアは譲らない。やがて、美少女の真っ向からの懇願に押し負け、ホセはこれまでの関係を維持しつつ彼女を女性として見る事を宣言して、ようやくフローリアの矛を収めさせた。
その後の1年間、二人は全く進展のない関係を続けるが、その間に二人は急速に惹かれ合っていく。そして、フローリアが16歳になった時、彼女はロベルトに対し、ホセへの想いを打ち明け関係を認めるよう訴えた。
フローリアは、外見こそ可憐な百合の花だったが、内面は太陽に真っ向から向き合う向日葵だった。ロベルトがホセとの関係を拒絶し、ホセを出入禁止とした時、彼女は真っ向から歯向かい、以来今に至るまでロベルトとは口を利いていない。ロベルトは、ホセをA級に推薦するくらいなので嫌っているわけではないが、ベルグラーノ家の当主として、ホセを自分の跡継ぎに指名するわけにはいかなかったのである。
しかし、西誅が全ての思惑を打ち砕いた。ロベルトはベルグラーノ家の跡継ぎを考える必要がなくなり、フローリアの身の安全を保証する術も失った。全ての柵が打ち倒された結果、ホセとフローリアは、初めて互いの一歩を踏み出す事ができたのである。
「お嬢様。積もる話はまた後で。馬車の用意ができました。一刻も早く出立し、サンタ・デ・ロマハへと向かうべきです」
「ホセ様」
「…どうしました?」
出立を促すホセに対し、フローリアが言葉を続ける。
「私、先ほどお父様から勘当を言い渡されましたの。サンタ・デ・ロマハに着いたら、私はフローリア・デ・ベルグラーノではなく、ただのフローリアになりますの」
「それは…!」
絶句するホセに、フローリアは悪戯っ子の様な笑みを浮かべる。
「ですから、今のうちから、私の事はフローリアとお呼び下さい」
「お嬢様…」
「フローリア」
「…フローリア…様」
「フローリア」
「…フローリア」
やっとの事でホセが呼び方を変えると、フローリアは満面の笑みを浮かべる。そして、ここぞとばかりに追撃した。
「そう。これからは、そうお呼び下さい。それと私、勘当されましたので、サンタ・デ・ロマハに着いたら、路頭に迷ってしまいますの。ホセ様、私をお救いいただけませんこと?」
「もちろん、私がお守りしますよ、お嬢…フローリア」
「ありがとうございます。お礼にホセ様の身の回りの世話は、私がいたししますね!私、洗濯ができるようになりましたのよ!お料理もできる様に頑張りますね!」
「え、おじょ、フローリア?」
顔を次第に赤らめながらフローリアは断言し、そのままホセの胸板に顔を埋めて首を左右に振る。ホセの混乱を余所に、フローリアは3年間の鬱憤を一気に晴らしていた。
再会の喜びが一段落すると、ホセはフローリアを馬車に乗せ、数人の護衛とともにアラセナを出立する。西誅軍は、アラセナまであと2日の距離に迫っていた。