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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第4章 北伐
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64:衣食住(2)

 淡く妖しく揺らめくランタンの光の中で、女が静かに目を閉じる。そして、両手をついて前のめりになると、形の整った美しい口を開き、舌を突き出して無防備に広げた。そのままの体勢で動きを止めた女は、期待と不安のないまぜになった緊張に身を固くしながら、じっとその時を待つ。


 やがてランタンの光を掻き分けるように男の指が近づき、女の舌をゆっくりと掴んだ。舌を掴まれた女は、期待とも不安とも異なる感情に体を震わせ、体の中から押し寄せる衝動を堪えながら、男の指に舌を委ねる。男の指の動きに合わせて彼女の特徴的な三角形の耳が何度も痙攣し、男の指に湿った温かい風が吹きつける。二人の影は刹那の間、舌と指の一点で一つに融合し、儀式は静かに執り行われていった。




「…ちょちょちょちょっと、い、い、今のは、一体何なんですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 静寂に満たされた草原に、顔を真っ赤にしたセレーネの大声が響き渡る。その大声を聞いた柊也とシモンは、眉を顰めてセレーネを見つめた。


「セレーネ、もっと声のトーンを落とせ。魔物が近寄って来たらどうする」

「…」


 柊也がセレーネを窘め、シモンは口元にハンカチを当てたまま、非難がましくセレーネを見つめている。


 え、私?ここ、私が非難されるトコなの?


「ちょっと、トウヤさん、説明して下さい!今のは一体何なんですか!?」


 セレーネは、当年取って217歳。まだ成人したての清らかな乙女だった。そんなセレーネの目の前で行われた二人の儀式は彼女にとってあまりにも刺激が強すぎ、初めての外界で何事にも興味津々の彼女は、ついうっかり一部始終ガン見してしまった次第である。いや、アレはちょっとダメでしょ。


「今のは、我々二人の定例の儀式だ。北伐の間は中断していたが、基本的に毎日行っている」


 え、アレ、毎日やっちゃうの?セレーネは思わず目を丸くし、柊也を見つめる。そして何かに気づくと、シモンへと振り返り、問い詰めた。


「シモンさん!これは、もしかしてトウヤさんの右手に関する呪いですか?毎日儀式を行わないと、命が危ういとか…」


 セレーネはシモンの体を心配し気遣うが、シモンはそれを否定する。


「いや、これは純然たる私の趣味だ」


 うわ、言っちゃったよ!この人、自分の趣味だって言い切っちゃったよ!怖ぇぇ!外界の風習、マジ怖ぇぇ!


「ととととと、とにかく、今度やる時には、先に声かけて下さい!後ろ向きますから!」

「いや、今晩はもうやらんぞ?」


 先ほどの儀式の光景を思い出したセレーネは、二人の顔を見る事ができなくなり、正座したまま後ろを向く。そして、自分は決して外界の風習に染まるまいと、強く心に誓うのであった。




 ***


 セレーネにとって色々刺激的な一日が終わり、夜を迎えた。野営地は周囲をストーンウォールで固めていたが、ラ・セリエとは違い、様々な魔物が跋扈している。ストーンウォールを乗り越えてくる魔物がいる可能性もあるため、3人は3時間交代で不寝番を立てる事にし、最初は悶々として眠れなくなったセレーネが引き受けた。


 結局、夜間の魔物の襲撃はなく、一行は野営地を捨てて西進を再開する。帰還まで少なくとも1ヶ月近くかかる。性急さより体力・気力の維持を優先した結果、一行の動きは四面楚歌の割にはひどくのんびりしたものになった。




 ***


「トウヤ、湯浴みがしたい」


 二日目の野営地の設営に取り掛かったところで、シモンが声を上げた。


「あー、そういえば、しばらく雨が降ってなかったしな。わかった、準備しよう」


 シモンの希望を聞いた柊也は了承し、野営地の拡張に取り掛かる。


「え、こんな所でお風呂に入れるんですか?」

「簡易的なものだがな。右手様々だよ」


 セレーネの問いに、柊也が答える。料理から武器から何でも出てくる右手だけあって、お湯くらい簡単なものである。


「汝に命ずる。石を纏いて大いなる巌を成し、我が前にそびえ立て」


 いつもの通り、柊也が「ストーンウォール」を唱え、周りを取り囲んでいく。しかし、その日は凹の字状ではなく、「山」の字を取り囲むように「ストーンウォール」を建てていった。そして、中央の突起部分にテントを設営する。


 さらに右側の突起部にビニールシートを敷き、その上に子供用のプールを設置すると、ポリタンクに入ったお湯を次々に取り出し、プールへと注ぎ込んでいく。空いたポリタンクは、壁の外へ次々に放り出す。そして流し湯用のポリタンクを並べて、完成である。


「シモン、セレーネ、できたぞ。入ってこい」

「ありがとう、トウヤ」

「え、もう?…うわ、トウヤさん、凄い!本格的じゃないですか!こんな所でお風呂に入れるなんて、嬉しい!」


 壁の角から風呂場を覗き込んだセレーネは、感嘆の声を上げる。そこには小さいながらも故郷の共同浴場と変わらない、立派な浴槽が置かれ、綺麗なお湯を湛えていた。むしろ、お湯が満ち満ちている分、共同浴場より豪勢と言える。


「シモン。シャンプー、リンス、ボディソープをここに置いておく。セレーネに使い方を教えてやってくれ」

「わかった。セレーネ、後がつかえている。一緒に入ろう」

「あ、はい。じゃ、トウヤさん、お先に失礼します」

「はいよ。ゆっくり浸かってこい」


 そう答えると柊也は席を立ち、テントに戻って風呂場側の壁に背を預け、本を読み始めた。出刃亀ではなく、2mの制限を最大限活かすための心遣いである。


 柊也が姿を消すと二人は服を脱ぎ、湯浴みを始める。セレーネは生まれて初めて使う日本の浴用洗剤に大興奮だ。


「うわ、凄い!こんなに泡立ってるぅ!ふわふわだぁ…」

「それで、こうやって体を洗うんだ」

「へぇ。…うわ、ホントだ。シモンさんの肌、凄いツルツル!…綺麗。いいなぁ、シモンさん。グラマーで胸も大きいし」

「セレーネだって、肌が白くてすごい透明感があって、羨ましいぞ。まるでガラス人形みたいだ」

「あ、やだ。シモンさん、そんなトコ触らないで!くすぐったいよぉ!」


 壁の向こうで繰り広げられる桃源郷に、柊也は次第に本の内容が頭に入らなくなる。柊也の頭の中で始まった煩悩との戦いを余所に、二人の会話は続く。


「あ、そうだ。せっかくだから、服も綺麗にしておかないと。ここんとこ雨が降らなくて、全然洗えなかったからなぁ」


 湯船の中でセレーネが思い付き、鼻歌を交えながら衣服を洗い始めた。シモンは湯船に浸かりながら、黙って横目でその姿を見ている。


「シモンさんは、服、洗わないんですか?」

「…ああ。今は湯浴みを堪能したいからな。私は後で洗うよ」


 シモンは笑みを浮かべてセレーネの問いに答えると、空を見上げる。赤く染まり、遠くに渡り鳥の見える、風情のある夕焼けだった。


 セレーネは首を傾げ少しの間シモンを眺めていたが、やがて視線を服へと戻し、洗濯を再開する。そうして二人は思い思いのひと時を過ごし、疲れと汚れを綺麗に洗い流していった。





「あああああああああああああぁぁぁ!」


 突然、壁の向こうからセレーネの叫び声が上がり、柊也は本を投げ出して浴槽へと駆け寄った。


「どうした、セレーネ!?」


 柊也は石壁の角を曲がり、浴槽へと顔を出す。そこには。


「…替えの服、全部森に置いてきたんだった…」

「…ああ、お腹痛い」


 びしょ濡れの衣服を胸に抱えたまま、全裸で湯船に佇むセレーネと、その後ろで湯船に浸かったまま、笑いをこらえるシモンの姿があった。




 ***


「実際、服が1着だけというのは、問題だからなぁ…」

「そうなんだよねぇ…」

「…」


 テントの中で、柊也とシモンがセレーネを見ながら、意見を交わす。セレーネはトウヤが出したバスタオルを一枚羽織っただけの姿で、胸と足を腕で押さえ、顔を赤くしていた。


 実のところ着の身着のままというのは、柊也とシモンも同じである。ハヌマーン及びレッドドラゴンの襲撃の際、三人とも全ての所持品を遺棄してしまっていた。以前、柊也とシモンがラ・セリエからセント=ヌーヴェルへと移動した時には、数着ではあったが替えの衣服を所持している。全く予備がないのは、今回が初めてだった。


 柊也が左手で頭を掻きながら、結論を述べた。


「ま、この件については、対応策は一つだけだな。『向こう』から持ってこよう」

「え、向こうから?」


 そう結論づけた柊也は、右手で思いつくままに女性用の衣服を取り出し、二人の前に積み上げていく。ショーツ、ブラ、ブラウス、シャツ、ベスト、スカート、パンツ、ワンピース等々。様々な大きさと色と生地の衣服が幾重にも積み上がり、二人は初めて見る異界のファッションに興味津々となった。


「うわ、これ、すごい鮮やか。こんな綺麗な色、どうやって出すんだろ」

「うむむむ…、これはまた、ずいぶんと大胆な…」


 セレーネは、明るい若草色のスカートを見て驚きの声を挙げ、頭上に掲げてまじまじと眺めている。すでに自分がバスタオル一枚である事を、忘れてしまったようだ。シモンは黒く大胆なデザインのブラとショーツを広げ、困惑している。


「…トウヤ。君は、こ、こういうのが好きなのか?」


 目の前にブラを広げたまま、シモンが柊也に目を向け質問する。それに対し、柊也は視線を外しながら奥歯に物が挟まったような答えを返した。


「別にそういうわけではないんだが…、シモンには似合うんじゃないか?」

「そ、そうか…」


 二人とも視線を合わせないように左右に揺らし、お互いの様子を窺っている。やがて、柊也は咳払いを一つすると、二人に宣言した。


「とりあえず、サイズも色々出しておくから、試着してみてくれ。俺は後ろを向いている。大きさが合わなかったら、言ってくれ」

「はーい、わかりました」

「わ、わかった」


 柊也はそう答えると後ろを向き、ぼんやりと入口の石壁を眺める。今、本を読んでも頭の中に入らないのは、明白だ。案の定、後ろから無視できない声がかかる。


「ちょ、ちょっと、これキツいな…。トウヤ、もっと大きいサイズのブラを出してくれないか?」

「あ、トウヤさん。私は、このデザインで水色のショーツをお願いします」

「…」


 石壁を向く柊也の顔の両脇にブラとショーツが差し出され、柊也はどちらに顔を向けるべきか、そもそも顔を向けるべきではないのか、葛藤するのであった。




「ど、どうだろう。変じゃないか?」

「…」


 柊也の目の前で、シモンが不安気な表情で膝立ちをし、両手を広げている。それに対し柊也は一言も声を発しないまま、呆然とシモンを眺めていた。


「な、何か言ってくれないか?すごく不安になってしまうんだが…」

「あ、いや、すまない。すごい似合っているよ、シモン」

「え、あ、あ、ありがとう…」


 慌てて柊也が感想を述べると、シモンは顔を赤くして礼を述べる。シモンは、白いワイシャツと、ぴっちりとしたスキニーパンツに身を包んでいた。シモンの豊かな胸がワイシャツを押し上げ、深い切れ込みの入った襟からは、煽情的な黒いブラに包まれた深い谷間が、顔を覗かせている。白いワイシャツの生地の下から薄っすらと下着の色が透けて見え、シモンが恥ずかしがって両腕を寄せた結果、押し出された胸がワイシャツから溢れ出そうになっていた。ゆったりとした袖を肘下まで捲り、金色のシンプルなブレスレットが2本、彩を添えている。


「トウヤさん!私も見て下さい!どうですか?」

「お、セレーネはずいぶん可愛らしく着飾ったな。似合っているよ」

「ホントですか?やった!」


 セレーネは柊也に褒められ、小さく飛び跳ねる。セレーネは膝上までの高さの、丈の短いダークグレーのプリーツスカートを履き、上には透かしの入ったニットを羽織っている。透かしの内側からはスカートと同じ色のタンクトップが見えており、可愛らしさの中に大人の雰囲気が醸し出されていた。スカートからは彼女の白く美しい脚が伸び、スカートの色と鮮やかなコントラストをつけていた。


 エルフの集落では決して手に入らない可愛らしい服を着る事ができ、セレーネはテントの中でクルクル回っていたが、テントの隅に置かれた、濡れたままの自分の服を見て思い出す。


「あ、そうだ。服を乾かさないと。トウヤさん、服を干す竿を出してもらえますか?」

「ん?いや、干す必要はないぞ?」

「え、どうしてですか?」


 柊也から意外な回答を聞き、セレーネは首を傾げる。


「それ、右手で出したお湯で洗ったんだろ?であれば、俺から2メルド離れて5分経てば水分が消えるから、すぐに乾くぞ」

「あ、そっか。じゃ、ちょっと行ってきますね」

「あいよ」


 柊也から理由を聞いて納得すると、セレーネは濡れた服を両手で抱えて、テントの外へと出ていく。それを見送った柊也は、シモンに話を振った。


「こっちの世界の服は、洗ってしまっておこう。今は我々以外に人がいないから、あちらの世界の服を着ても問題ないが、セント=ヌーヴェルに戻った時に困るからな」

「そうだな。この服は人目を惹き過ぎるしな」

「それと、靴も用意しておこう。ただ、デザインは期待しないでくれ。山歩き用は機能重視で、今シモンが着ている服には似合わないんだ」

「ああ、それは構わないよ」


 そう言って、柊也はいくつかトレッキングシューズを取り出し、シモンに説明を始める。そうしているうちにテントの扉が開く音が聞こえ、二人は入口へと顔を向けた。


「あ、お帰り、セ…レーネ?」

「…」


 戻ってきたセレーネは、出ていった時と異なり、目に涙を浮かべ膨れている。その慎ましい胸元に水気が飛んで綺麗に乾いた服を抱え、全裸で佇んでいた。


「…あ、そっか」

「…トウヤさん、嵌めましたね?」

「いや、そんなつもりはなかったんだが…」


 セレーネに詰め寄られ、柊也は横を向いて頬を掻く。随所に転がる2mトラップに引っ掛かり、セレーネは、水分とともに自分が着ている服まで蒸発させてしまっていた。




 ***


 二度目のファッションショーの後、柊也は風呂へと向かい、シモンとセレーネはテントの中で座り、柊也の帰りを待っている。セレーネは襟元の服の生地を指で摘まみながら、シモンに話しかけた。


「何て言うか、着ている服がいつ消えるかわからないと考えると、不安で落ち着かないですね」




「…ああ。このままでは、また新しい世界に目覚めてしまいそうだ」


 すでに柊也の前で色々な世界に目覚めてしまっているシモンが、しみじみと呟いた。

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