57:二人だけの一夜
左肩から頬にかけて熱を感じ、美香はぼんやりと考える。
やべ、また寝ちゃった。私、寝る前に日焼け止めクリーム塗ったっけ?また片面焼きになったら、久美子達に笑われる。裏返して、もう片面も焼かないと。
そう思って美香は寝返りを打とうとするが、体が動かない。理由が思い至らず、美香はゆっくりと目を開いた。
辺りが暗く沈み渡る中、目の前で焚火が煌々と揺らめいていた。時折、薪の爆ぜる音が聞こえてくる。
「…あれ?」
私、キャンプに来てたんだっけ?そう考え込む美香の頭上から、男の声が降り注ぐ。
「ミカ殿、気づかれたか」
「…え?」
美香が見上げると、精悍な男の顔が、上下逆さまに美香を見下ろしている。その向こうは、満面の星空に覆われていた。
「…オズワルド、さん?」
「ああ」
あれ?何で私、オズワルドさんとキャンプに来てるの?オズワルドさんて、久美子と知り合いだっけ?
「ミカ殿、体の塩梅はどうだ?動けそうか?」
「…あれ?」
あれ?何で私、体が動かないんだ?
「あれ?何で私、体が動かないの?」
「…『ロザリアの槍』を詠唱したためだろう。やはり、前回よりダメージが深いようだな」
「…あ…」
美香の混乱は、「ロザリアの槍」を聞いた途端終息し、思考がクリアになる。それでも、その後しばらくの間、美香はオズワルドを見上げたまま黙り込み、頭の中を整理していた。
「…」
オズワルドはしばらく美香を見続けていたが、やがて前を向き、焚火に薪をくべる。一瞬、橙色の光が大きく揺らぎ、影が美香から見て上下に揺れた。
「…オズワルドさん」
「何だ?」
「…ロックドラゴン、どうなりました?」
「…わからん」
オズワルドが美香を見下ろし、言葉を続ける。
「我々は、『ロザリアの槍』の発動とともに吹き飛ばされ、川に落ちた。だから、結果はわからない。だが、きっと上手くいったはずだ」
「…そうですね」
オズワルドの回答は、全く根拠のないものだ。しかし、美香はオズワルドの気遣いに感謝し、彼の見解に同意した。
「…」
二人は口を噤み、静寂の中、時折薪の爆ぜる音だけが聞こえてくる。オズワルドは再び顔を上げ、右を向いて何かに手を伸ばした。薪か何かだろうか。美香はオズワルドの行動につられて下を向き、そして動かなくなる。
焚火が齎す橙色の光が、慎ましい自分の体の表面を明るく照らしている。スクリーンは肌色一色で統一され、胸と足の付け根の2箇所だけが白色の布で覆われているが、布は湿気を含み、内側の色を淡く透かし上げている。その上で橙の光と黒い影が、激しく踊り狂っていた。
「…オズワルドさん」
「何だ?」
美香が上を向いてオズワルドに問いかけ、オズワルドが再び下を向く。
「…見ました?」
「…」
オズワルドは顔を上げ、焚火を見つめる。
「…いいや」
「…」
薪が爆ぜ、光が揺らぐ。
「…オズワルドさん。怒りませんから、正直に話して下さい」
オズワルドは顔を上げたまま、焚火を見つめる。
「…」
「…」
ちょっと、何で黙るの?何か喋れ。
***
「ミカ殿、食事は取れそうか?」
暫らく時間が経ち、時効を迎えたと判断したのだろうか、オズワルドが話題を変えてきた。美香は内心色々と追求したかったが、後日の楽しみに取っておく事にする。
「はい。何とか」
「わかった」
そう答えると、オズワルドは美香を抱え上げ、自分の膝の上に座らせる。そして、右手をゴソゴソと動かし、背中に回した左手に筒を持たせると、右手で固い大きめの葉を添える。そして筒を上下に振ると、葉の上にしっとりとした米粒が出てきた。
「携帯食だ。川の中で濡れてしまったが、その分食べやすくなっているだろう」
オズワルドはそう説明すると、美香の口元に葉を寄せる。美香が口を開くと、オズワルドは葉を傾け、携帯食を注ぎ込んだ。
「んぐ…」
美香はゆっくりと携帯食を噛む。携帯食は思ったよりも味が良く、水を含んだ事で冷えた塩おにぎりの様な味がした。美香が携帯食を噛んでいる間にオズワルドは葉に次の携帯食を盛り、美香の口元に寄せ、じっと待っている。そして美香が口を開くと、次の携帯食を注ぎ込んだ。
やがて美香が口を動かしながら大きく首を縦に振ると、オズワルドは頷き、葉を引っ込める。そして筒を右手に持ち替えると、自分の口に寄せ、上を向いて流し込んだ。
オズワルドは顎を動かしながら下を向いてもう1本筒を取り出し、美香の口元に寄せた。
「水だ。飲むか?」
「いただきます…」
美香は雛鳥のように口を開き、オズワルドは筒を傾けた。
***
「ミカ殿。あまり期待はできないが、私の素質で手足が回復するか、試してみても良いか?」
「え、オズワルドさんの?」
「ああ」
食事が終わり、人心地ついたところで、オズワルドが右掌を美香の目の前に広げながら説明する。
「私のもう一つの素質『癒しの手』は、手を触れたところに治癒魔法と同等の効果を齎す素質だ。戦で生じる外傷は、大抵これで治癒できる。ミカ殿の手足の不調は外傷とは異なるのかもしれないが、やって見て損はないと思う。構わないか?」
「はい、お願いします」
美香が了承するとオズワルドは頷き、美香の体を仰向けに横たわらせる。そして上から覆い被さるように身を乗り出すと、美香の両肩を両手で掴み、そのまま動きを止めた。
「…」
美香の目の前に、オズワルドの真摯な表情が迫っている。視線を合わそうとせず、かといって下も向けないオズワルドは、美香の首元を一心不乱に見つめている。その視線を受けた美香は首元に云いようのない熱を覚え、「癒しの手」の効果と思われるぽかぽかとした両肩の温かさと合わさって、上半身全体が熱を帯びていく。
え、ちょっと待って。このシチュエーションは、大変マズいのでは…。
美香は、自分の取り巻く環境を想像し、大いに慌てる。手足は動かず、下着しか着けてない姿のまま、筋骨逞しい、上半身裸の男に圧し掛かられている。「癒しの手」の効果で体全体が火照り、血流が良くなって、鼓動が次第に早くなる。生まれて初めて遭遇した状況に美香は動揺し、場の雰囲気を和らげようと、黙ったままのオズワルドに声をかけた。
「オズワルドさんは、今付き合っている人は、いるんですか?」
「…何!?」
だあああああああああああぁっ!私の馬鹿馬鹿馬鹿!よりにもよって、何で今その質問なのよ、私!?
目を逸らしていたオズワルドが顔を上げ、美香は交差してしまった視線に縫い付けられたまま、心の中でツッコミを入れる。鼓動が高まり、オズワルドの目から離せなくなった美香の前で、オズワルドは視線を外し、俯きがちに答えた。
「…いない。許嫁はいたんだが、流行り病に斃れてな」
「…そうでしたか。申し訳ありません」
「いや、気にしないでくれ。もう6年も前の話だ」
大きく脈打っていた心臓に氷の矢が刺さり、美香の心にささくれだった痛みが走る。明らかにしょげ返った美香を見たオズワルドは、慌てて言い繕った。
「ちょうど、君みたいな可愛い子だったよ。生きていれば、君と同い年だ」
「え…?」
「…あ、すまない。今のは、忘れてくれ。言い過ぎた」
思わず顔を上げた美香から逃げるように、オズワルドは顔を背ける。そのオズワルドに、美香が低い声で問いかけた。
「…オズワルドさん、今の『言い過ぎた』は、何処にかかる言葉ですか?」
「え?」
「まさか、『君みたいな可愛い子』じゃないですよね?」
「も、勿論だとも。君が可愛いのは、本当だ」
氷点下を下回りそうな美香の声を聞き、オズワルドは急いで答える。
「あの頃の許嫁みたいに?」
「ああ、その通りだ」
「…つまり、私の体型は14歳と変わらないという事ですね?」
「いや、そんな事はないぞ!あの頃よりずっと立派に…!」
「どの辺が?」
「どの辺って…あ」
美香の質問に釣られたオズワルドは、美香の両肩を抱いたまま視線を下に向け、そのまま動かなくなる。
「…」
「…」
ちょっと、何でそこから動かないの?比較しないでいいから。
***
焚火が揺らめき、薪が爆ぜる。美香は、先ほどと同じようにオズワルドに抱きかかえられ、ぼんやりと焚火を見つめている。結局「癒しの手」の効果はなく、美香の手足は未だ動かないままだった。
オズワルドが右手で薪を取り、焚火へくべる。薪を無理矢理捻じ込まれた焚火が抵抗を試み、薪が大きく爆ぜ、火の粉を散らした。
「熱っ…」
「大丈夫か?ミカ殿」
オズワルドが美香を気遣い、声をかける。美香はしばらくの間黙っていたが、やがて口を開いた。
「…オズワルドさん」
「何だ?」
「…それ、止めて下さい」
「…何を?」
「『ミカ』って、呼んで下さい」
「…」
薪が爆ぜ、光が揺らぐ。
「…呼ばないと、今日の事、言いふらしますよ?」
「なぁ!?…はぁぁぁ、わかったよ、ミカ」
オズワルドが盛大な溜息を吐きながら了承したのを見届けた美香は、顔の向きを変え、オズワルドの胸板に鼻を押し付ける。そして、大きく息を吸いこんだ。
――― やばい。これ、癖になりそう ―――
肺の中までオズワルドに満たされた美香は、安心し、急激に睡魔に飲み込まれていく。
色々と問い詰めたい一日が、終りを告げようとしていた。