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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第3章 初陣
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35:定める者

 次の日の講義は、ニコラウスに急な仕事が入ったため、中止となった。




「殺せなかった事が何を意味するのか、か…」


 美香は、自室の寝台の上で体育座りをし、小さく呟く。あれから1日が経過したが、オズワルドが放った一言が、美香の頭の中を巡り続けている。美香はカルラに席を外させ、自室で一人、オズワルドの言葉と向き合い続けていた。


 美香は、オズワルドの一言を踏まえて、改めて自分の意識の再確認を行う。1ヶ月に渡って人々の生活を見てきて、この人達の生活を守っていきたいという思いは未だに美香の心の中にあり、また、そのために魔物を倒すという意識にも変化はない。また、生きた魔物をまだ見た事がなく実際に相対した時に殺そうという意識を保てるかは不明だが、少なくとも今ここでの意識では、魔物が倒すべき相手であるという認識にも変化は起きていなかった。


 転じて、昨日のヤギはどうだろう。あのヤギは、いたって普通のヤギだった。騎士に引き摺られ、あの場所で草を食むだけの、ただのヤギだった。何の力もない、あの場で騎士が剣を振り下ろせば、すぐに首が飛んでいたであろう、か弱いヤギだった。


 にも拘らず、美香はヤギを殺せなかった。美香の魔法の力をもってすれば、ヤギを容易に殺せたはずなのに、彼女はそれができなかった。何故できなかったのか。ファイアボールによって、ヤギが焼け爛れ、のた打ち回るのが見たくなかったのか。皮膚が捲れて肉が露になり、水ぶくれができ、痙攣しながら死んでいくのを見たくなかったのか。怖気の立つ場面を想像し、鳥肌を立てながらも、美香は一つ一つ検証していく。映画鑑賞同好会のお陰で余計な想像力だけ発達してしまった彼女は、やたらリアリティのある殺戮のシーンを想像し、その中で血まみれのヤギがよろよろと立ち上がり、鳴きながら美香に迫りくるシーンまで、脳内で再生して見せた。




 その日レティシアは、美香の部屋へ、ついに行く事ができなかった。レティシアは、自室のベッドの上で体育座りをし、部屋の一点を見続けていた。


 あの時、美香は確かに、レティシアに答えを求めていた。自分がヤギを殺すべきなのか否なのか、彼女はレティシアに尋ねていた。しかし、自分は答える事ができなかった。彼女がどちらを選ぶべきか判断がつかず、いや、自分が判断すべきではないと放擲して、彼女に差し戻した。彼女の親友を自認しているのに、助けを求める彼女の手を振り払ったのだ。その結果、彼女はヤギを殺す事ができず、彼女は泣き崩れる事になった。


 もし、自分があの立場になったら、どう決断したのだろう。レティシアは想像をしようとしてみたが、どうしても自分を当てはめられない。レティシアは、未だヤギを殺した事はなかった。未だ、あの様な選択を迫られた事がなかった。自分の精神的な許容を遥かに超える決断を迫られた時の、あの逃れられない圧迫感を、レティシアは体験した事がなかった。そして、それに直面した親友に対し、その恐怖を共有してあげられなかった自分を恥じていた。


 明日、美香の部屋に行こう。レティシアはそう決めた。そして、美香から何と言われようと、罵声を浴びようと、受け入れ、一緒に居てあげられなかった事を詫びよう。そう思いながらレティシアは、その日、ほとんど眠る事もできず、一夜を過ごした。




 ***


 翌日、引き続きニコラウスの講義が中止となり、レティシアは重い足取りで美香の部屋へと向かった。レティシアは扉の前で3分間は優に立ち続けた後、深呼吸を一つして、扉をノックする。


「…ミカ?…私。レティシアよ。中に入るわ」


 中から応えがない事に痺れを切らしたレティシアは、思い切って扉を開ける。カルラのいない美香の部屋は、いつもより冷たく、広く感じられた。美香はその部屋の中央、彼女のベッドの上で体育座りをしたまま前を見つめ、動かない。


「…っ!ミカっ!」


 レティシアは一瞬息を止め、美香の許へと駆け寄る。彼女の目は宙の一点を見据えたまま微動だにせず、その瞳には知性の光がなかった。


「ミカっ!あなた大丈夫!?」


 レティシアが慌てて美香の肩を掴み揺さぶると、彼女が濁った目のまま、レティシアの方を向く。


「レティシア…」

「…何?」


 美香がレティシアに向かって両手を伸ばし、レティシアが美香に顔を寄せる。だが、次の瞬間、美香が行った行為に、レティシアは目を見開いた。


 美香は、レティシアの首を両手で包み込み、親指を首元に添えた。まるでレティシアを絞め殺すかのように。




「…ミ…カ…」


 美香の体温を首で感じながら、レティシアは愕然とする。自分の行った行為が、ここまで美香に殺意を抱かせるものであったとは、思いもしなかった。自分の行った裏切り行為にレティシアは打ちのめされ、美香の手を振り払う事なく首を差し出し、涙を浮かべ、彼女に詫びようと口を開く。


「ミカ…、ごめんなさ…」




「…同じだ」




「…え?」

「そっか。同じなんだ…」


 レティシアの言葉を遮るように、美香が呟いた。


「…ねぇミカ、お願い、教えて。何が同じなの?」


 首を絞められたまま問うレティシアの不安そうな瞳を、美香は知性の光が戻った瞳で見つめ、やがて口を開く。




「…ヤギは、レティシアと同じだったんだ」




「…え?」


 発言の意味が理解できないレティシアをそのままに、美香は部屋を飛び出し、隣室へと駆け込む。


「カルラさん!オズワルドさんの所に先触れをお願いします。後ほどお邪魔しますと。私は、ニコラウスさんの所に行ってきます!」


 そうして再び自室に顔を覗かせた美香は、ベッドに座ったまま呆然とするレティシアに声をかけた。


「レティシア、ニコラウスさんの所に行くけど、一緒に来る?」

「…私が、ヤギと同じ…」




 ***


「正直、驚きました、ミカ様。ずいぶんと早く立ち直られましたね」

「ニコラウス、あなた、涎…」


 白昼堂々、自室でうたた寝をしていたニコラウスに対し、ヤギ呼ばわりされたレティシアが行き場のない苛立ちをぶつけた。


「だいたい、あなた、昨日今日と仕事が入ってたんじゃなかったの?」

「どうせ方便に決まってるでしょ、ニコラウスさんの事だし」

「ええ」


 ニコラウスに代わって美香が返答し、ニコラウスが首肯する。そんな二人を、レティシアは青筋を立てて睨みつける。何この二人、昔から師事されている私より、師弟してない?


「それで、ミカ様。意味はわかりましたか?」

「正直、意味までは。でも、私がヤギを殺せなかった理由はわかりました。これから、オズワルドさんの所に伺うんですが、一緒に来ていただけますか?」

「もちろんですとも」




「早かったな、ミカ殿。それで、考えはまとまったかね」

「はい」


 先日と同じ、オズワルドの鋭い眼光を前にして、美香は臆することなく返事を返し、自分の出した結論を述べる。


「私は、やはり討伐に参加します」

「…」


 美香の真っ直ぐな目をオズワルドはしばらく見つめ、やがて席を立つために一旦視線を外し、自分の椅子を見る。


「わかった。では、もう一度ヤギを…」

「いいえ」


 オズワルドの話を美香が遮り、オズワルドが顔を上げる。眦の上がった彼の顔を見ても、美香は動じず、言葉を続ける。


「ヤギは、殺しません」

「…理由は?」


 オズワルドの質問に、美香は一呼吸入れ、断言する。


「ヤギは、私にとって、守るものだからです」

「…ニコラウス殿?」

「私は何も。ミカ様が、独力で結論を出しました」


 暫く美香の顔を見つめていたオズワルドは、視線をニコラウスへと向ける。だが、穏やかな顔でニコラウスが否定し、オズワルドは再び美香へと向いた。


「…よく気づかれた。ミカ殿」


 やがて、美香に対し賞賛の言葉を贈るオズワルド。しかしこの後、彼は揺るぎない自信を持って、日本であれば到底許されない言葉を続けた。


「――― 将とは、命の貴賤を定める者だ」




「将とは、命の貴賤を定める者だ。将は、何を殺し、何を救い、何を見捨てるか定め、兵に指し示さなければならない。そして、その指し示した事で齎される結果は、将が全て責を負う。兵が、誰を殺そうと誰を救おうと、誰を見捨てようと、それは全て将の責任だ。そして兵は、将に従い、将の指し示すままに敵を殺し、味方を救い、同胞を見捨てるべく行動しなければならない」

「ミカ殿、あなたは先日、私の命に背いてヤギを殺さなかった。その時、あなたは兵たる資格を失ったのだ。とはいえ、あなたはここに兵として募った者ではないから、あなたが兵でなくとも、些かも問題はない。問題は、あなたが将なのか、それとも民なのか、だ」

「今日のあなたの発言で、私はあなたが持つ、将たる資格の一端を垣間見た。その事については、誠に喜ばしく思う。後は、その資格がまやかしか、真なるものか、だ」


 オズワルドの発言を、美香は一つ一つ頷きながら聞き入る。


 美香は昨日からずっと、頭の中でヤギと向かい合っていた。何故ヤギを殺す事ができなかったのか、美香は頭の中でヤギの凄惨な姿を何通りも想像し、その都度、自分の感情を確かめた。


 その結果、出た結論。美香は、ヤギの死体が嫌だったではなかった。ヤギを殺した自分を受け入れられなかったのだ。


 結果を見つけた美香は、更に掘り起こす。では、ヤギを殺す自分を受け入れられないのであれば、何を殺す自分は受け入れられるのか。映画鑑賞同好会で見た映画の敵役を想像して、美香は検証を続ける。やがて頭の中で一通り殺し終わった美香は、自分が何を殺せないのか、様々な例を頭の中に浮かべ、手をかけていく。その中には、元の世界で関わりのあった友人等も含まれていた。だが、想像だけでは、あのヤギの時に体の中からせり上がってきた恐怖は湧き上がらない。美香の検証は、行き詰まりを見せていた。


 そこへ、レティシアが現れた。レティシアの細く美しい首を見た美香は、反射的に考える。私は、レティシアを殺せるのだろうか。そう思った美香は、両手を伸ばし、レティシアの首に手を当て頸動脈に親指を添えてみた。


 その途端、美香の躰の中を、ヤギの時とは比較にならないほど大きな恐怖が駆け巡る。心と体が悲鳴を上げ、喉元から胃の内容物がせり上がる。手は硬直し、瞳孔が縮まり、ぼんやりとしていた思考回路が恐怖の波に押し流され、思考に光が入る。この世界で最も自分を案じてくれ、そして自分が最も心を許す相手を手にかけようとしている事実に、全身が拒絶反応を示していた。


 美香にとってレティシアは、この世界で最も大切な、幸せを願った相手だった。美香がこの世界を守っていきたいと思ったのは、突き詰めればレティシアの世界を守っていきたかったのだ。体を駆け巡る拒絶反応の中、美香はこの時、自分が何を守りたいのか、何を殺せるのか、判断基準を見つける事ができたのである。


 オズワルドの話が続く。


「あなたが将なのか、それとも将の顔を被った単なる民なのか、それを確認しなければならない。しかし、こればかりはヤギ等の代用品を持ち出して、どうにかなるものではない」

「…と、なると?」


 美香の問いに、オズワルドが頷く。


「実戦で調べるしかあるまい。ニコラウス殿、後でフリッツ様の所へ同行いただけるか。フリッツ様に、出戦とミカ殿の同行を、許可いただかなければならないからな」

「承知しました」


 こうして、美香は初めて、魔物と相対する事になるのであった。

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