34:覚悟
ハーデンブルグでの生活が始まって、1ヶ月が経過した。
美香はこの1ヶ月の間、ほぼ毎日ニコラウスの指導を受け、また2~3日毎にレティシアとともに街へと繰り出し、人々の生活を見て回った。
ニコラウスは優れた技量の持ち主だが、彼の持つ素質は凡庸である。そのため、ニコラウスの指導で美香は火属性の上級魔法を新たに覚える事はなかったが、彼の講義は応用に富み、美香に様々な可能性を齎した。
一日、美香はニコラウスに対し、自分が思いついた疑問を口にする。
「ニコラウスさんは、火と地、両方同時に使う事はあるんですか?」
問いかけられたニコラウスは、にっこりと笑い、答えた。
「良く気づかれましたね。ミカ様のご指摘の通り、複数属性の複合詠唱というものは存在します。例えば…」
そう答えたニコラウスは、案山子の方を振り向き、詠唱を開始する。
「汝に命ずる。礫を束ねて岩となり、炎を纏いて我に従え。空を駆け、彼の者を打ち据えよ」
ニコラウスの詠唱とともに地面から多数の石が浮き上がり、彼の頭上で一塊の岩となる。そして、その周囲に炎が纏わりつくと、案山子に向かって飛翔する。岩は案山子を直撃してなぎ倒すと地面を転がり、その場で暫く燃え続けた。
「これが、『ロックバレット』と『ファイアボール』の複合詠唱になります。ただ、私を含め、この複合詠唱は誰も使いません。突破力を求めるなら『ロックバレット』で十分ですし、延焼を狙うなら、ターゲットに付着せず転がってしまう複合詠唱は、むしろ邪魔です。複合詠唱で最も多く使われるのは、『ロックジャベリン』と『ファイアジャベリン』ですね。『ロックジャベリン』で相手の防具を突き破って、内部で延焼させるのに使われます」
「『ロックジャベリン』と『ファイアジャベリン』か…」
ニコラウスの説明を聞いた美香は、脳筋よろしく「一日の奇跡」を起動して早速試してみる。そして余計な一言も付け加える。
「汝に命ずる。礫を束ねて四槍となり、青く輝く炎を纏いて我に従え」
美香の頭上に4本の石槍が現れ、青い炎を纏う。ニコラウスの笑顔が固まり、レティシアが頬を引き攣らせる中、美香はしばらく頭上の石槍を眺め、石槍が橙色に染まり始めるのを見て詠唱を再開する。
「四槍は2対の牙となり、空を駆け、その咢を彼の者に突き立てよ。さすれば必ずやその牙は相手を穿ち、噛みちぎるであろう」
4本の石槍は、詠唱とともに案山子に向かって飛翔する。そして全てが案山子から外れ、1本が地面に突き刺さり、3本が案山子の向こう側にある外壁に直撃すると、3本の石槍は圧力に耐えきれず砕け散る。後には、外壁を大きく抉った孔が3つと、直立して火を噴き上げる1本の石柱、そしてそこかしこで燃え上がる瓦礫の山が残された。
「…ああ、全部外した」
「いや、指摘すべきは、そこではないのでは…?」
美香の嘆きにレティシアがツッコミを入れ、ニコラウスが再起動する。
「いやはや、参りました。ミカ様ほどの素質となると、我々の常識が通じませんね。初めての挑戦でこれだけの成果となると、ミカ様の場合は複合魔法をより深く追求していくべきかも知れません」
「え、でも一日1発しか撃てませんよ?」
「それでもです。知っていて使わない、もしくは使えないのと、知らないのとでは、取り得る選択肢が大きく異なります。ミカ様は『火を極めし者』を持ち、元々ポテンシャルが高いのですから、『一日の奇跡』との相乗効果は計り知れません。それをわざわざ単発で在り来たりの他属性魔法に使うのは、正直勿体ない。火との複合魔法で使えば、最強の切り札となるでしょう。一日1回しかできませんが、これから一つずつ複合魔法を試してみましょう」
「わかりました、ニコラウスさん。今日もありがとうございました」
ニコラウスの助言に新しい可能性を見出した美香は、彼にお礼を言う。彼女の計り知れない潜在能力に気付いたニコラウスも、我が子の事のように喜ぶ。柄にもなく彼は右手を差し出し、それに気づいた美香も右手を出して、二人は固い握手を交わす。明日からの、約束されたとも言える飛躍に向け、師弟の新たな絆が生まれた瞬間だった。周囲もそれを祝福するかのように燃え上がり、赤く輝いている。
「…あの、そろそろ火を消した方が良くないですか?」
ただ一人、置いてきぼりにされたレティシアだけが、現実を見据えていた。
「え、魔物討伐への参加…ですか?」
「はい」
煤で汚れた顔を濡れた布で拭いながらニコラウスが問い、美香が答える。背後の壁は黒く焦げてしまったが、ほとんどが石材だったため、見た目に反して建物への損傷はない。とはいえ、ついさっきまで行われていた消火活動を尻目に、目の前の椅子に座り全く関係ない会話を冷静に行う二人を、レティシアがジト目で眺めている。
この1ヶ月の間、美香は何度も街を見て回り、人々の生活を観察してきた。一度はフリッツの許可を得て街壁を出て、街の背後に広がる田園地帯で働く農民達も見ている。様々な街の人々を見てきた彼女は、皆将来に希望を持って生活している事に気付いた。
この世界は、日本と比べて文明が大きく遅れており、美香も様々な事で不便と不自由を感じていた。しかし、そこに住む人々は絶望しておらず、明日が明るい事を信じてその日を暮らしている。文明は遥かに進んでいるが、バブル崩壊後の失われた20年の中で育ち、上がらない賃金と増税、少子化問題と年金への不安等、将来に閉塞感の漂う日本を見てきた美香にとって、彼らが持つ裏付けの全くない将来への楽観視は、羨ましささえ感じられるものだった。それはまるで敗戦直後の日本の様な、全てを失って、しかしもう新たな戦火に怯える必要のない、自分の働いた結果が将来に結び付くと安易に思い込める、無責任な世界だった。美香は彼らと触れ合ううちに、この無責任な楽観視を羨ましく思い、次第にそれを守っていきたいと思うようになっていた。
自分の素質は、完全に攻撃偏重だ。彼らを守るためには、盾ではなく鉾が相応しい。そう結論付けた美香はニコラウスに対し、魔物討伐への参加を申し出たのだった。
申し出を受けたニコラウスは、口に指を添え、上を向いてしばらく考えていたが、やがて美香に顔を向け、首肯する。
「わかりました。実戦への参加となると、騎士団との調整が必要ですね。一人、話の分かる大隊長がいますから、彼に話を通しておきます。それまで少しお時間を下さい」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
***
「改めて自己紹介しよう。ディークマイアー騎士団第1大隊長、オズワルド・アイヒベルガーだ。久しぶりだな、ミカ殿。その後お変わりなさそうで、幸いだ」
「古城美香です。オズワルド様もお元気そうで、何よりです。本日はお時間をいただいて、誠にありがとうございます」
「様付けはなくて結構。早速本題に入ろう」
「はい、オズワルド…さん」
3日後、ニコラウス、レティシアとともに指定された部屋で待機していた美香は、副官とともに入室してきたオズワルドに圧倒された。オズワルドの言う通り、美香は過去に彼と面識がある。あの街中でのすれ違いの後、フリッツの紹介で顔を合わせていた。ただ、あの時は他にも3人の大隊長がおり、またフリッツの手前、込み入った会話もせず、社交的な挨拶だけで終わっている。今回のように中身のある会話をするのは初めてだった。
美香は召喚されてから少し背が伸び、現在は155cmを超えた。それでも30cm近く身長差のあるオズワルドを見上げるように、テーブル越しに相対する。目鼻立ちの整った精悍な顔つきに浮かぶ表情はうかがい知れず、鋭い眼光が美香を見つめている。年齢はレティシアが言うには、確か27歳。贅肉ひとつない引き締まった肉体は黒を基調とした服に包まれ、黒髪黒目を含めたその姿は、黒いサラブレッドを思わせた。
「とは言っても、私はまだミカ殿の事を何も知らない。まず、何故あなたが魔物討伐に参加を希望したのか、教えてくれないか」
「は、はい」
椅子に腰かけながらオズワルドに問われ、美香は背筋を伸ばす。まるで就職活動の面接試験だと美香は思いながら、オズワルドに自分の動機を説明する。ハーデンブルグを見て、元の世界の人々と、この世界の人の意識の違いを感じた事。この世界の人々の希望を支えていきたいと思った事。自分の素質を鑑み、最も役立てるのが魔物討伐だと感じた事。美香は、一つ一つ丁寧に、オズワルドに説明していった。
美香の説明の間、オズワルドは椅子に深く座り腕を組んだまま、ほとんど相槌もせずに、じっと美香の目を見つめて聞き入る。美香が「就活面接のハウツー本読んどくんだった」と内心泣きながら説明を終えると、オズワルドは一度目を閉じ、腕を組んだまま動きを止める。やがて目を開けたオズワルドは、背後に立つ副官に向かって指示を出した。
「おい、アレを修練場に連れてきてくれ」
「わかりました」
副官が退室したのを見届けると、オズワルドは美香の方を向いて、口を開く。
「ミカ殿、あなたの考えはよくわかった。あなたがこの世界に召喚された経緯を踏まえた上でその志をお持ちになるとは、私としては頭が下がる思いだ。この世界に生きる人族として、あなたに敬意を表する」
そういうと、オズワルドは椅子に座ったまま膝に手を付き、頭を下げる。美香は腰を浮かせ、慌ててオズワルドを引き留めた。
「そんな、オズワルドさん、頭を上げて下さい。私はまだ、この世界で何もしていません」
美香の声に、しかしオズワルドは動じず、自分の意志で顔を上げると話を続ける。
「あなたが気に病む事ではない。私が頭を下げたかっただけだ。…さて、その志を伺った上で、1つ質問をしたい」
「な、何でしょう」
オズワルドの問いかけに、美香は改めて背筋を伸ばし、脳内で想定質問集を開く。自分の長所と短所だとか、大学で力を入れた事だとか、希望年収だとか、おおよそこの世界では意味のない質問ばかりが並び、美香が涙目になったところへ、オズワルドの質問が聞こえてきた。
「あなたは自分の手で、鶏を絞めた事はあるか?」
「え…?」
想定質問集の何処にも書かれていない質問を投げかけられた美香は、本を閉じ、オズワルドを見やる。彼の目は先ほどと変わらず、真っすぐに美香を見つめている。
「あなたは自分の手で、鶏を絞めた事はあるか?」
「い、いえ、ありません」
「では自分の手で、牛や豚を解体した事はあるか?」
「いえ、それもありません」
美香は視線を外し、下を向いて質問に答える。美香の頭頂部にオズワルドの声がかかった。
「わかった。それでは、これから修練場へと向かう。皆ついて来てくれ」
美香が顔を上げると、すでにオズワルドは席を立ち、扉へと体を向けていた。
***
修練場に来たオズワルドは、美香達3人を中央に誘導すると、自分は少し離れた場所で腕を組み、仁王立ちして目を閉じる。そのまま動かなくなったオズワルドを見て、美香は居心地が悪そうに、レティシアと顔を見合わせた。
やがて、オズワルドの後ろ、修練場の入口から先ほどの副官と騎士の二人が、1頭のヤギを連れて現れた。副官と騎士は壁際にヤギを括りつけると、オズワルドの後ろに下がって待機する。
ヤギを訝し気に眺めていた美香に、オズワルドが声をかけた。
「ミカ殿」
「は、はい!」
突然の声掛けに美香は背筋を伸ばし、オズワルドへと顔を向ける。オズワルドは、美香を真っすぐに見つめたまま、口を開いた。
「ミカ殿、あのヤギを殺してみてくれ」
「…え?」
言葉の意味が分からず、美香は呆けたようにオズワルドを見やる。オズワルドは、それに構わず、もう一度繰り返す。
「あのヤギを、ミカ殿の魔法で殺してみてくれ」
オズワルドはそう言い放つと、腕を組んで仁王立ちしたまま、ヤギの方に顔を向けた。
美香は、オズワルドに引き摺られるように、ゆっくりとヤギの方を向く。ヤギは、二人の視線を気にする事なく、修練場の隅に生える草を食んでいた。
美香は、ゆっくりと両足をヤギの方へと向ける。その動きは、生まれたばかりの小鹿の様にたどたどしく、覚束ない足取りだった。膝は曲がり、腰は引け、背中は前かがみになる。目は大きく見開き、ヤギを見つめたまま動かない。やがて、目を見開いたまま美香の頭が動きオズワルドの方を向くが、彼はヤギを見つめたまま微動だにせず、視線が交差しない。美香は、そのままニコラウスの顔を伺うが、ニコラウスもヤギを無表情に見つめたまま、視線を合わせてくれなかった。
美香は、機械仕掛けの様に首を回転させ、レティシアの方を向く。彼女は、泣きそうな顔で美香を見つめていた。その顔を見つけた美香は、レティシアが首を縦と横、どちらに振るか見続けていたが、レティシアは美香の顔を見つめたまま動かず、首を縦にも横にも振ってくれない。やがて彼女は首を横に振ったが、美香が期待した動きではなく、涙を流しながら視線をヤギに向けると、そこで動かなくなった。
誰もがヤギの方を向き、見捨てられた美香は、ゆるゆると視線をヤギへと戻す。ヤギは相変わらず下を向き、草を探し回っている。
どれぐらい時間が経っただろう。やがて美香の右腕がゆっくりと上がり、人差し指が天頂を指す。
「な、汝に命ずる。炎、を纏いし…、球となり…ぅ…、わ、我に、従え…」
美香の詠唱に応じ、頭上に火球が一つ灯る。美香は目を見開き、涙を浮かべ、ゆっくりと、可能な限りゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「…そ、空を、…駆…け…ひぅ…、彼の、も…の…を…う…ぅく…」
足が震え、膝が笑い、左手で膝を押さえる。口が震えて歯が鳴り、上手く言葉が紡げない。右腕も上を向いたまま、彫像の様に動かなくなった。
突然、ヤギが顔を上げ、美香を見やる。ヤギと美香の視線が交差し、互いを見つめ合う。
「…っ!」
美香は目を瞑り、顔を背ける、瞼が閉じた事で押し出された涙が、頬を伝う。
そして、右腕がヤギに向けて振り下ろされ、―――
――― 美香の頭上の火球は、霧散した。
「…これが討伐だ」
修練場に座り込み、レティシアに介抱されながら泣き始める美香に、オズワルドが歩み寄って言い放った。
「討伐は、単なる殺し合いだ。相手の都合を一切考慮しない、一方的な殺戮だ。相手の命や家族、意思を想って、躊躇する暇はない。ただただ相手の腕を落とし、首を刎ね、心臓に剣を突き刺す。何も考えずに実行しなければならない。でなければ首を刎ねられるのは、自分か、自分の仲間だ」
下を向いて泣き続ける美香の頭上に、オズワルドの声が容赦なく降り注ぐ。
「ミカ殿、今日あなたは、あのヤギを殺せなかった。あなたは討伐の何たるかを、頭では理解していたはずだ。もし、これが魔物であったら、あなたはここに屍を晒していたはずだ。あなたは今日、ヤギの身を案じ、自分の身を捨てたのだ。その決断を私は、―――」
「――― 評価する」
美香は泣くのを止め、涙まみれの顔でオズワルドを見上げた。オズワルドは表情を変えず、真っすぐに美香を見つめたまま、言葉を続ける。
「フリッツ様の奥方であるアデーレ様は、虫一匹殺せない方だ。しかし、我々はそれを恥ずべき事とは思わない。あの方はフリッツ様の妻として、自身を弁え、フリッツ様とディークマイアー家を支え、自分のやるべき事をなさっている。討伐だけが全てを評価するものでは、ないのだ」
「ミカ殿、確かに我々人族はミカ殿に対し、討伐によるガリエルからの解放を期待して、あなたを召喚した。しかし、それは我々の勝手な都合だ。あなたが、我々の都合に付き合う必要はない」
「あなたは今日、ヤギを殺せなかった。あなたはそれを事実として捉え、殺せなかった事が何を意味するのか、考えてみてくれ。その上で、それでも討伐を志すのであれば、声をかけてくれ。また付き合おう」
そう言い放ったオズワルドは美香に背を向け、副官や騎士とともに修練場を後にする。その背中を、美香は座り込んだまま見つめ、ニコラウスは深く一礼した。