31:北の都へ
鬱蒼と茂る森の中から天空を支えるかのように左右のあちらこちらに岩柱がそびえ立ち、その岩柱に苔が生すかのように樹々が纏わりつく。天空から見れば、箱庭のように見えただろう巨岩と森の中に一本の道が走り、そこを蟻の行列のように人馬の一群が進んでいる。
これで霧が出ていれば仙境としか思えない絶景を馬車の中から目の当たりにして、しかし美香は、その景色に心を動かされる事もなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
ヴェルツブルグを出立してすでに1ヶ月余り。ラディナ湖に沿う形で北上を続けていたディークマイアー一行は、2日ほど前から進行方向を西に転じ、ラディナ湖から次第に距離を取りつつ、旅を続けていた。景色は次第に、平野から丘陵へ、そして森と岩山へと変じ、主役の座は人々から自然へと委ねられつつある。それでもところどころに、主役を取り返さんと人族の集落が点在しているが、すでに脇役の座に甘んじており、堂々たる岩柱の根元に生える樹々と競い合うようにへばり付いていた。
「あと2日ほどでディークマイアー領の領都、ハーデンブルグに着きますわ。ミカ、大丈夫?」
「お尻痛い…。レティシアは、いつもこんな長旅してるの?」
「そうね。私はともかく、お父様やお母様は、ここ最近毎年のようにヴェルツブルグに逗留しているから、年に1回は旅をしている事になるわね」
「うぇぇぇ…」
未だ飛行機にも乗った事がなく、せいぜい東京や大阪までの新幹線が経験した長旅であった美香にとって、1ヶ月余りも馬車に乗りっぱなしというは、なかなかの苦行であった。しかも日本と違い、馬車の座席についてもそれほど座り心地を追求したものではない。辺境伯という上級貴族だけあって、素材や作りは上品なものではあるが、快適さという点では日本に遠く及ばないものであった。
うっ血したお尻に手を回してさすりつつ窓枠に顎を乗せ、美香は窓の外を眺める。そのだらしない姿にカルラは眉を顰めるが、主人の心情を慮ってか口には出さず、静かに座っている。美香はカルラの心中に気付く事なく、お尻の痛みに気を散らされながらも、自分の考えをまとめようと四苦八苦していた。
ジブンノ オモウミチヲ ススメ
柊也が去り際に、美香に遺した言葉。それからすでに2ヶ月近くが経過したが、美香はこの言葉に対する答えを未だ持てないでいた。
2ヶ月前、柊也は身の危険を感じて着の身着のままで遁走し、未だ行方知れず。一方、現在の美香はディークマイアー辺境伯の庇護の下、一時的にせよ身の安全を確保している。傍目から見れば、美香の方が順風と言えるであろう。
しかし内面で見た場合、美香は、柊也に比べ自分が大きく出遅れていると痛感していた。柊也は、2ヶ月前にすでにこの世界における自分の立場を理解し、生存のための手段として遁走を選んだ。その道は決して楽ではないだろうが、明確ではないにせよ目的を持ち、自分の足で歩いている。つまり、彼は自分の道を見つけているのだ。
振り返って自分はどうだろう。最初、教皇フランチェスコの提案に乗って自分の立場が決まり、ハインリヒの教育に身を任せた。そして柊也の危機に際しては、彼の置手紙に乗る形でディークマイアーの庇護に入り、レティシアの提案に乗って今ハーデンブルグに向かっている。自分はこの世界で、まだ何一つ決定していない。自分の道を見つけられないまま、他人が引いた線路の上を歩き続けている。もちろんレティシアが引いてくれた線路は、純粋な好意と配慮から来るものであり、何ら引け目に思う必要がないものだが、それでも自分の道がまだないという事実は、彼女の心に少なからず痛みを齎していた。
この世界に召喚されるまで、彼女には「日本国籍」と「美欧大学法学部政治学科1年生」という肩書があった。これが彼女の存在を形作る土台であった。この上に、彼女の性格だとか思考回路だとか高校までの記憶だとかが塗り固められた結果、「古城美香」が出来上がっていた。
しかし、5ヶ月前にこの世界に召喚された時に、この2つの土台が剥ぎ取られてしまった。先進国の中でも特に日本人は、こういった肩書に自己の立脚点を見出す者が多い。ましてや、まだ成人もしていない美香が周囲の「常識」に染まり、同じような立脚点を見出す事はごく自然の流れであったが、それが召喚によって剥ぎ取られてしまっていた。
土台を失った美香は、別のものに寄って立たなければならない。それは新たな肩書か、あるいは肩書を必要としない自分そのものの、いずれかであろう。しかし、美香は5ヶ月経った今でも、そのいずれも見つけられないでいた。自分の足で立つ事ができない人間が、自分で歩く事ができないのは、当然だった。
***
「うわあぁぁぁ…」
馬車を降りた美香は、口を開けたまま上を見上げる。そのまま顔を左から右へと動かしながら、感嘆の声をあげた。
美香の眼前には、高さ10mにも及ぶ堅牢な街壁が、視界一杯に広がっていた。街壁には約50m毎に同規模の分厚い塔が立ち、小窓からは見張りと思しき兵士の頭が見える。
手続きか何かで街門を前に車列が止まっている間、美香はカルラにお願いして馬車を降り、ハーデンブルグを取り囲む街壁に圧倒されていた。
ハーデンブルグは、北東を海、南西をラディナ湖に挟まれた、陸峡とも言える細長い地形の真ん中に広がっている。2日前から点在している岩柱がこの辺りでは多数派となり、その岩棚の間に雨どいのように川が流れ、森や草原が点在しているが、ハーデンブルグはそこを塞ぐように街壁が連なり、陸峡に横たわっていた。北西方向は平均して下り斜面となっているが、その地形に並行する形で街壁が二重に連なり、ガリエル側への備えとなっている。街門は、北西方向に3箇所、南東方向に2箇所あり、美香達ディークマイアー一行は、南東方向の街門からハーデンブルグに入城しようとしていた。
「ミカ様、そろそろ馬車にお戻り下さい。手続きが終わったようです」
「はーい。ありがとう、カルラさん」
南東の街門と、その手前に広がる田園を眺めていた美香に対し、カルラが声をかける。美香を乗せた馬車は、やがて一行とともに入城を開始した。
ハーデンブルグは対ガリエルの最前線であり、フリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアーの領民への想いが映し出されたかのように、街全体をぐるりと街壁が囲っている。街壁の規模だけで言えば、街ごと囲っている分、ヴェルツブルグよりも大きいと言える。当然、この大きさともなれば街壁全てを守るには、一辺境伯の持つ兵では数が全く足らない。それでも、ガリエル側は軍ではなく、単なる魔物達の集団である事と、住民も一体となって防衛に参加しているため、これまでハーデンブルグが危機に陥る事は一度としてなかった。
街並み木造の家屋が多いが、ところどころで一直線に石造りの建物が壁のように立っている。これは区画ごとに仕切りとなっており、万が一街門を破られた時の抵抗線として用意されたものだった。建物の間には分厚い木の扉がついており、いざという時はこれが内部の街門となった。
ハーデンブルグ内部の南東部に小高い丘があり、ここを街壁が再度囲んでいる。一行は、この内側の街壁に面した街門をくぐる。中は、堀のように周囲を囲った池と自然に配置された樹々が彩を添える中、重厚な石造りの建物が、中央にそびえ立っていた。ここが、ディークマイアー辺境伯が住む本丸だった。
屋敷の前に十数名の男女が並んでいる。一行が到着し、フリッツと妻のアデーレが下車すると、青年が一人、夫妻の前に進み出た。
「父上、母上、お帰りなさい。ご無事で何よりです」
「マティアスか、出迎えご苦労。留守中、何か問題はなかったか?」
「ええ。後ほどご報告いたしますが、問題はありません。例年に比べ、ガリエルは大人しかったですね。何度か討伐に出ている事もあって、留守中、街門まで押し寄せた魔物はおりません。今はオズワルドが隊を率いて出ています」
「そうか。ガリエルが一番大人しい時期とはいえ、それは僥倖だ。留守中、ハーデンブルグを上手く治めてくれたようだな。よくやった」
「ありがとうございます」
フリッツに留守中の行動を評価され、マティアスが素直に喜んでいる。マティアスはフリッツの長子であり、レティシアの兄である。年は24歳。2年ほど前から、フリッツがヴェルツブルグに逗留している4ヶ月程の間、次期当主としての修行を兼ねてハーデンブルグの留守を預かるようになっていた。経験豊かな文官武官の補佐があるとはいえ、これまで大きな問題が起きた事はなく、堅実な手腕を有していた。3ヶ月前にフリッツの腹心の娘との婚約を発表しており、来年結婚の予定でもある。髪は父親と同じライトブラウンだが顔立ちは無骨な父親には似ず、母親よりの繊細な風貌を持ち、その目には知性の光があり、留守中の実績と合わせて優秀な文官肌と言えた。
マティアスと一通り会話を交わしたフリッツは、レティシアと美香を呼んで紹介する。
「マティアス、こちらがミカ殿だ。聞いての通り、この度の召喚でこの国にお越しになられた。ヴェルツブルグで一波乱あり、当家にしばらく逗留していただく。ミカ殿、これは私の息子のマティアス。留守中、ハーデンブルグを守るために残っていた。よろしくお願いしたい」
「ミカ殿、初めまして。フリッツ・オイゲンの長子、マティアスです。お噂はかねがねお伺いしておりました。この世界にお越しいただき、様々なご心労もあったかと存じますが、私としては敢えて歓迎の声を挙げさせていただきます。ようこそハーデンブルグへ」
「初めまして、マティアス様。古城美香と申します。こちらこそフリッツ様やアデーレ様には、様々なご厚意に預かりました。特にレティシア…様には、身寄りのない私に親身になっていただき、とても感謝しております。しばらくの間、ご厄介になります」
「お気になさらず。こちらこそ、レティシアに良くしていただいていると聞いています。しばらくと言わず、お気の済むまでいつまでもいらして下さい」
「ねぇ、ミカ。何で私の時だけ間が空いたの?」
「…こそばゆかったから」
微妙な顔をして見つめ合う二人を見て、アデーレがくすくすと笑っている。フリッツも内心で笑みを浮かべつつ、当主としての威厳を保ち、宣言する。
「さあミカ殿、中に入ろう。それと当主として、改めて言わせてもらおう。ようこそハーデンブルグへ。当家は貴女を歓迎しよう」
こうして美香の、ハーデンブルグでの生活が始まった。