289:脅迫
「…じゃあ、何だい?暫くの間は、此処オストラで待機って事になるのかい?」
前王朝時の荒廃から立ち直り、今新たに聖王国西部の重要拠点として発展を続ける、オストラの街。その一角に建てられた無骨な木造建物の一室で、ゲルダはベッドの上で仰向けに寝っ転がったまま、レティシアに尋ねた。レティシアは頷き、ベッド脇の椅子に腰かけながら言葉を続ける。
「ええ、そういう事になるわ。シュウヤ殿が言うには、じきに『六柱』の面々も音を上げて、対話のテーブルに付くだろうからって」
「アイツ、また何かとんでもない事、やらかしているのかい?」
「多分ね。あの自信満々の表情を見たら、一体どれだけ酷い嫌がらせを受けているのか、カラディナが可哀想になるわ」
レティシアの言葉を耳にして、ゲルダは思わず下唇を突き出し、渋い顔をする。柊也のヴェルツブルグにおける「前科」を知る二人としては、例え敵対する相手だとしても、同情を禁じえなかった。レティシアは諦めにも似た溜息をつくと、話題を転じた。
「…で、ゲルダ。あなた、体の調子はどうなの?まだおかしいところ、ある?」
「ヤベェのはもうないと思うんだけど、体を動かすと至る所で皮が引き攣ってさ、気持ち悪いんだ」
そう答えるゲルダはベッドに仰向けになったまま右手を動かし、顔を顰める。幸いな事にゲルダの顔や頭部に惨い傷は見当たらなかったが、雷撃を受けた体のあちらこちらに火傷を負い、全身が包帯で覆われていた。ゲルダがシマウマのように縞模様を描いた体をベッドに横たえ、レティシアとの会話を続けていると、異なる方向から別の女の声が聞こえてきた。
「…で、何で私は、こんな所に居なきゃいけないわけ?」
ゲルダが声のした方向に顔を向けると、ベッドの上で自分に跨っている美香と目が合った。美香はゲルダの腰の上に馬乗りになり、包帯の巻かれた逞しい腹筋の上に両手をついて、恨めし気な表情を浮かべている。ゲルダは意地の悪い笑みを浮かべ、スカートからはみ出した美香の太腿を右手で撫で回しながら答えた。
「治った後の予行練習に決まっているじゃないかい」
「…付いてないくせに」
自分の下で舌なめずりをするゲルダに、美香は顔を赤らめながら憎まれ口を叩く。するとゲルダは太腿を撫で回していた右手を上に向け、人差し指と中指を交互に動かしながら、事もなげに言い放った。
「自分の指ですればいいじゃないかい」
「馬っ!?あなた、一体何を考えてっ…!?」
「満天の星空の下で」
「…っの、変態!」
ゲルダのあからさまな表現に、美香は馬乗りになったまま顔を真っ赤にして俯いてしまう。目の前で繰り広げられるセクハラ漫才にレティシアは呆れ、腕を組んで苦言を呈した。
「…どうせカラディナが来るまでやる事がないから、いいけどさ。ゲルダ、傷口が開くから、ほどほどにしておきなさいね?」
「えっ!?ちょっと、そこ止めるところじゃないの!?」
***
カラディナ共和国の首都サン=ブレイユ。その政府庁舎の一室で、複数の男女がテーブルを囲んで座っていた。会議室は重苦しい雰囲気に包まれ、誰一人言葉を発しようとしない。一同は皆一様に、自分の前に置かれた文面に釘付けとなり、動かない。日頃常に会議を主導し、不遜の笑みを絶やす事のなかった「六柱」筆頭のジェローム・バスチェでさえ、他の当主と同様に顔色を蒼白にして下を向き、唇を噛み続けていた。
ロザリア教カラディナ支部を統括する枢機卿ジャクリーヌ・レアンドルは、「六柱」の面々と同じテーブルを囲み、「六柱」と同じように下を向いたまま震えていた。彼女の顔色はジェロームに劣らないほど蒼白になり、形良い目は大きく見開かれ、紙の上に書かれている文字を何度も目で追い、言葉にならない呟きを繰り返している。
…嘘でしょ…嘘でしょ…?こんな事ができるなんて、もはや人ではない…!
―――
ロザリア教会カラディナ支部統括 ジャクリーヌ・レアンドル、「六柱」筆頭 ジェローム・バスチェ、及び「六柱」の各当主へ告ぐ。
カラディナ国内の素質は、全てこの私が預かった。
素質を無事に返して欲しければ、ガリエルの第3月25日までに、貴殿ら7名、誰一人欠けることなく、聖王国国境へと出頭せよ。
さもなければ、貴国に二度と素質は戻らないものと思え。
ジョーカー
―――
底冷えする静寂に満たされた会議室とは裏腹に、外部では廊下を駆け回る足音と、幾人もの人々の怒号が飛び交っている。
「『クリエイトウォーター』による給水が途絶え、深刻な水不足に陥っています!人々が水を求めて川へと押し寄せ、至る所で諍いが起きています!」
「何でもいい!ありったけの甕を掻き集め、給水体制を整えるんだ!」
「駄目です!『ライトウェイト』が機能せず、物流が破綻しています!水のみならず、全ての物資が逼迫しています!」
「治癒魔法も使えず、医院は怪我人で溢れ返っています!」
「何なんだ!?一体何者なんだ、このジョーカーという奴は!?」
会議室の外から聞こえてくる悲鳴に耐え切れず、「六柱」の当主の一人がテーブルを叩きつけ、怒鳴り声を上げる。ジャクリーヌや他の「六柱」の面々が誰一人口を開かない中、ジャクリーヌの背後に佇んでいたアインが決然とした表情を浮かべ、口を開いた。
「奴の名は、トウヤ。元々は、ラ・セリエのD級ハンターだった男です」
「貴様!せっかくS級にしてやったと言うのに、D級なんかに負けたのか!?恥を知れ!」
男が行き場のない怒りの捌け口を見つけ、アインを指差して非難する。それに対し、アインは腹に据えかねた表情で男を睨みつけ、反論する。
「奴がD級だったのは、もう4年も前、俺もまだ同じD級でした。それに当然、当時の奴はこんな恐るべき力を持っていたわけではない。この俺も奴に素質を奪われ、『雷』も『疾風』も失い、負けたんだ」
「アイン様…」
人々の期待に応える事ができず、背後で無念の表情を浮かべるアインに、ジャクリーヌが振り返って気遣わし気な目を向ける。下を向いて押し黙っていたジェロームが、目の前に置かれた紙を凝視したまま、唇を震わせた。
「…我々はとんでもない思い違いをしていた。真に立ち向かうべき相手は、コジョウ・ミカではなかったという事か…糞!」
いつもの彼であれば決して見せる事のない、余裕のない台詞を吐くジェロームに秘書官が近づき、追い打ちをかける。
「…閣下。庁舎に多数の市民が押し寄せ、皆様に対する責任の追及と、国境への出馬を求めています。これ以上はもう、抑えられません」
「畜生!ジョーカーめ!ふざけやがって!」
秘書官の報告を聞いたジェロームは感情を抑えることができず、テーブルに拳を叩きつけて喚き散らす。
聖王国はオストラの戦いにおいて数千人にも及ぶ捕虜を得たが、身代金の要求や奴隷商人への売却を行う事なく、その全員をカラディナへと送り返した。その代わり、その捕虜達に多数の手紙を持たせ、カラディナに入国した後に読むよう、指示したのである。国境を越えた後、カラディナ国内で起きた異変に気づき、ジェローム達に宛てた内容と同じ手紙を見た兵士達が国元で騒ぎ立て、瞬く間に市民達の間に広まったのは、当然の結果と言えよう。
カラディナは共和国で、表向きは市民達に主権がある。その市民達に素質を奪われた責任を追及され、「六柱」の面々は追い詰められていた。ジェロームが秘書官へと振り返り、感情を剥き出しにしてがなり立てる。
「期日まで時間がない!敗残兵でもハンターでも構わない!とにかく数だけでも兵を揃えろ!」
「『ライトウェイト』と『クリエイトウォーター』が使えず、輜重がもちません」
「戦時徴収でも何でも発令して、荷馬車を押さえるんだ!」
首都サン=ブレイユから国境まで、通常でも半月かかる。素質が使えない今は大幅な遅延が予想され、早急に出発しないと期日に間に合わない。日頃の冷静さをかなぐり捨て怒鳴り散らすジェロームの姿にジャクリーヌが顔を強張らせていると、アインが近づき、耳元で囁いた。
「ジャクリーヌさん、せめて俺にあなたの護衛をさせて下さい」
「アイン様!?でも、あなたはもう、素質が…!」
驚きの声を上げ振り返ったジャクリーヌの目の前で、アインは唇を噛み、思い詰めた表情を浮かべている。
「これは、俺がコジョウ・ミカとトウヤを斃せなかったせいだ。俺には、事の顛末を最後まで見届ける義務がある。それに、すでにこの国に住む全員が素質を奪われている。誰に頼もうと、条件は同じです」
「アイン様…」
ジャクリーヌは暫くの間、アインの苦渋に満ちた顔を見つめていたが、やがて静かに頭を振る。
「…いいえ、アイン様。あなたのせいではありません。これは全て、私やジェローム殿をはじめとする、情勢を見誤った上層部の責任です」
そしてジャクリーヌはアインの顔に手を伸ばし、夫との別れを惜しむ妻のように、儚げな笑みを浮かべた。
「…ですがアイン様、せっかくですから、御言葉に甘えて私の護衛をお願いできますでしょうか?」
「ええ、任せて下さい、ジャクリーヌさん」
こうしてガリエルの第3月2日、ジャクリーヌ・レアンドル、及びジェローム・バスチェをはじめとする「六柱」の当主達7人は、「オストラの戦い」の敗残兵を中核とする17,000の兵に守られ、首都サン=ブレイユを進発する。
その軍には希望に溢れる正義の輝きも力強さの欠片もなく、まるで邪悪な存在に生贄を運ぶ村民のように、重苦しい雰囲気を漂わせていた。




