288:敗北の代償
赤茶けた堅い地面が広がる荒れた大地に無数の天幕が張られ、大勢の兵士達が地面に腰を下ろし、思い思いの時間を過ごしていた。彼らの肩には疲労が重く圧し掛かり、衣服に大きな裂け目が走り赤く染まっている者もおり、一部には地面に横たわって荒れた呼吸を繰り返し、同僚に気遣わし気な視線を向けられる者も居る。だが全体として見れば彼らの顔は皆一様に明るく、そのボロボロな外見には不釣り合いなくらい浮かれており、決して美味とは言えないはずの配給食を美味そうに頬張っていた。
その大勢の兵士達が屯する陣内に張られた天幕の一つで、二人の女性が座り込み、俯いていた。天幕の中の空気は重く暗く沈み、二人は互いに口を開こうともせず、両手首を縄で縛られたまま、体に纏わりつく恐怖から逃れようと身を縮める。時折年若い娘が鼻を啜り、嗚咽を堪える音が天幕の中を漂うが、年上の女性は娘を慰める事もなく、ただ娘の感情が自分に伝播しないよう必死に唇を噛み続けるだけだった。
二人の居る天幕の布が捲れ、複数の人物が中へと入って来た。二人は天幕を捲る音が聞こえた途端、恐怖に身を強張らせ、やがて怯えた表情を浮かべ、顔を上げる。二人はラ・セリエでは名だたるハンターであったが、素質を奪われ虜囚となった今は暴漢の視線から逃れようとする生娘のように、無力でか弱い姿を曝け出していた。
イレーヌは震えて言うことを聞かない唇を叱咤し、二人の目の前で銀の女から椅子を受け取って腰を下ろす隻腕の男に、恐る恐る尋ねる。
「…あ…あの、トウヤ…何故、私達二人だけを此処に?…お願い、あの人の許に返して…」
隣に居るミリーの手前、必死に感情を抑えていたイレーヌだったが、口を開いた途端、言葉と共に恐怖が堰を切ったように溢れ出す。この世界で捕虜となった者の行く末は、悲惨だ。身代金を支払えなければ、容赦なく奴隷へと堕とされる。特にイレーヌもミリーも若く魅力的な女性であり、彼女達が奴隷となれば、その未来は容易に想像がつくであろう。二人は愛する男の許から引き離され、目の前で開こうとしている望まない運命の扉から逃れようと、目の前に座る片腕の男に温情を求め、縋りついた。
イレーヌの媚びと怯えの綯い交ぜとなった視線を受け、男は椅子に座ったまま目を逸らし、頭を掻きながら答える。
「…アインはすぐ感情的になるし、フルールさんは錯乱寸前だ。まともに話ができるのが、あんた達しか居ない。ただそれだけだ」
素質を失った事でアイン達は治癒ができず、レオはまだ起き上がれない。男は頭から手を下ろすと前屈みになり、怯えているイレーヌへと顔を寄せる。
「イレーヌさん、幾つか質問に答えてくれ。そうしたら、先の事を考えてやらんでもない」
「は、はい…」
感情の籠らない冷たい男の言葉に呑まれ、イレーヌは男の視線に縫い付けられたまま、錆び付いた人形のようにぎこちなく顎を引く。男は頷き、質問を口にした。
「カラディナをはじめとする西方諸国では、古城美香はどんな姿で伝わっているんだ?」
「え?ええ…」
男の質問を受け、イレーヌは隻腕の男の背後に佇む口髭を湛えた壮年の男と、黒い戦馬を思わせる大柄な男の視線を感じながら、躊躇いがちに口を開く。
「…コジョウ・ミカは、この世界へ召喚した私達の期待に背き、ガリエルと手を結んだ裏切り者と言われているの。彼女は中原を我が物にしようとエーデルシュタイン王家に不和の種を蒔き、内乱を引き起こした。そして、ハヌマーンを抱き込んで首都ヴェルツブルグを陥落させ王家を皆殺しにすると、用済みとなったハヌマーンを駆逐して自ら救世主を名乗り、エーデルシュタインを支配したと伝わっているわ」
「支配者となった彼女は人心を操り教会さえも篭絡すると、自らの欲望を満たすためだけに圧政を施き、人々を恐怖と絶望の底へと陥れたわ。コジョウ・ミカは人々が流す血と涙を見て歓び、鞭打たれた若い女性の悲鳴を聞いて興奮し、毎日無数の男達と淫らな情事に耽っていると…ち、違うの!私はカラディナに伝わっている彼女の噂を話しているだけで、私自身は決してそんな風には思っていないわ!本当よ!」
イレーヌはカラディナで噂されているコジョウ・ミカの数々の悪行を口にしていたが、それを聞いていた壮年の男が口髭を震わせ、怒気と殺気をイレーヌに叩きつける。戦馬の如き男も目を剝き、二人の男の殺気をまともに浴びたイレーヌは折檻に怯える女児のように体を強張らせた。両手首を縛られた腕を胸元に添え、男達に懺悔するような姿で震えるイレーヌに、隻腕の男が質問を続ける。
「…で、『東滅』を言い出したのは、カラディナの教会か?」
「…扇動したのは教会だけど、けしかけたのはカラディナ政府…『六柱』の面々だと思う。北伐はともかく、西誅、リヒャルト王子の復権と、ここ最近『六柱』の思惑は外れている。矢面は他人に押し付け裏で自分達の利益を追及する彼らが、ロザリア教の教義に従いつつ、エーデルシュタインの混乱に乗じて自分達の『赤字』を補填しようと画策しているのだと、思われるわ」
「何処の世界の古狸も、やる事は同じか…」
イレーヌが二人の殺気から逃れるように男の話題転換に飛びつき、男が嘆息する。宙を見て鼻から息を吐く隻腕の男の顔色を窺うように、イレーヌがおずおずと尋ねた。
「…ね、ねぇ、トウヤ。私、あとは何をすればいい?貴方が望む事は、私、何でも従うから、だから…お願いだから…」
「…」
イレーヌらしくない媚びの混じった言葉に、銀の女が眉を顰める。一方、男はイレーヌの縋るような目を気にせず、顎に手を当てて宙を眺めていたが、やがてイレーヌへと目を向けた。
「…一旦アイン達の許に戻って、大人しくしていてくれ。後でお使いを頼むから」
「お使い?何処に?」
夫の許へと戻れると聞き、イレーヌの声に喜色が混じる。不安と期待の入り混じったイレーヌの視線を受け、男が答えた。
「カラディナの首都サン=ブレイユに、手紙を届けて欲しいんだ。受けてくれるなら、後でアインとレオさんの治療もしてやろう」
***
「シュウヤ、君は何故あの時、ミカの噂を否定しなかったのだ?」
イレーヌとミリーから再三に渡って「お使い」の履行を懇願され、宥めすかすように二人をアイン達の許へと送り返した柊也に、コルネリウスが尋ねる。この戦いにおける最大の戦功者である柊也にアイン達の対処を一任したコルネリウスだったが、イレーヌの口から齎された美香の醜聞を聞き、腸が煮えくり返る想いだった。その想いはオズワルドも同じで、厳しい視線を柊也に向けているが、その二人に対して柊也は雑作もなく答える。
「この場であの二人を説得しても、無駄です。彼女達は虜囚であり、我々は絶対的な強者だ。この場では我々が何を言っても、彼女達はそれを首肯し、唯々諾々と従うでしょう。しかし、それは上辺だけであり、我々の軛から脱した途端、彼女達の評価は元に戻ります。それに、仮に彼女達の評価が改まったとしても、西方諸国そのものが評価を改めない限り、全く意味を為しません」
「それはそうだが…」
極めてドライな見解を述べる柊也に、コルネリウスが遣り切れない表情を向ける。今や自分の全てとも言える年若い主君の命を救われ、聖王国を快勝へと導いたこの片腕の立役者に対し、コルネリウスは幾ら感謝しても足らなかったが、反面、この徹底した現実主義にどうにも釈然としない想いを募らせていた。
後世「第3次オストラの戦い」と呼ばれる戦いは、結局聖王国の大勝で幕を閉じた。聖王国は総兵力31,600のうち、死者2,800、負傷者は5,100。それに対し東滅軍は総兵力55,000のうち、死者19,000、負傷者は15,000。特に南部小国家群から侵攻した別動隊は悲惨で、そのほぼ全員が死亡したか負傷して捕虜となっており、事実上消滅していた。
だが、コルネリウスの表情は厳しい。戦いこそ勝利したが、西方諸国との溝は更に深まった。早期の関係修復は望めず、せっかく「交髪の宴」によってハヌマーンとの戦いに終止符を打つ事ができたのに、同族との間で新たな血みどろの戦いを繰り広げることになる。しかも、5年後にはこの世界の社会インフラとも言える素質が消滅するのだ。
美香は今、レティシアやカルラと共に、つきっきりでゲルダの看病をしている。西方諸国総出の悪意を一身に受け、「全人族の母」としての葛藤とゲルダに対する罪悪感を抱える彼女に、これ以上負担をかけさせるわけにはいかない。コルネリウスは、美香には今はゲルダの看病に没頭して現実逃避してもらうつもりでいたが、目前に横たわる数々の難題は流石のコルネリウスも手に余った。
「…シュウヤ、西方諸国との確執を、どう収めたら良いと思う?」
コルネリウスは暗澹たる思いを募らせ、主君と同じ世界から喚ばれた片腕の男に助言を求める。すると意外な事に、柊也はコルネリウスが拍子抜けするほどあっさりと首を縦に振った。
「…まあ、何とかなるでしょう。閣下、暫くの間、私にお付き合いいただけませんか?」
「それは構わないが…どうやって纏めるつもりだ?」
柊也は目を剝いて質問するコルネリウスから視線を外し、西の方角を向いて独り言ちる。
「…とりあえず、『六柱』が目障りですし…少しお灸を据えましょうか」
――― そして後日、柊也に「お灸を据えられた」カラディナは、大混乱に陥る事になる。




