285:巡り廻って(2)
「…そ、そんな…」
ミリーは愕然とし、弓を引き絞ろうとしていた手から矢を取り落としてしまう。戦場の、しかも敵陣の真っ只中で引き起こした失態だが、彼女の仲間達は誰一人それを咎めようとしない。仲間達はミリーの失態に気づかぬまま、アインの前に立ちはだかった一人の女の姿に釘付けになり、金縛りにあったかのように動きを止めている。
ラ・セリエで知らぬ者のいない、銀の髪と灼熱の太陽を湛えた、孤高の雌狼を目にして。
「…シモンさん!」
呆然とするミリーの脇から女の金切り声が聞こえ、彼女は弾かれるように声のした方向に目を向ける。ミリーの視界に、フルールが髪を振り乱し喚き散らす姿が映し出された。
「シモンさん!覚えていますか!?私です!フルールです!…シモンさん、生きていたんですか!?何故、何故!今まで姿を隠していたんですかっ!?シモンさん、答えて下さいよぉ!」
「フルール、堪えて!」
「お願い!離してぇ!」
ヒステリックに喚きながら銀の女に詰め寄ろうとするフルールをイレーヌの手が遮り、仲間のハンターが後ろから羽交い絞めにする。仲間の拘束から逃れようと藻掻くフルールを放置し、イレーヌが必死に心の平静を保ちながら尋ねた。
「…貴方…本当にシモンなの?」
「ああ、久しぶりだな、イレーヌ」
「…ならば!貴方は何故、私達の邪魔をするの!?」
我慢できず語尾が跳ね上がったイレーヌの詰問に、銀の女は目に灼熱の炎を湛えたまま、静かに言い放った。
「決まっている。――― 君達が、私の敵だからだ」
「…ゲ…ルダ、さん?」
銀の女が放った言葉の槍に心臓を抉られ、「呼吸困難」という名の彫像と化したアイン達の視界に、二人の人物が姿を現した。
一人は、艶やかな黒い髪の女。彼女は奇怪な馬車の陰から姿を現すと、まるで生まれたばかり小鹿の如き頼りない足取りで地面に斃れている獣人の許へと歩み寄り、その場にへたり込む。小鹿は呆けた表情を浮かべ、アイン達には目もくれず、目覚めない母鹿を起こそうとするかのように、その体を揺すり始めた。
コジョウ・ミカ。アイン達にとって、今すぐに殺さなければならないはずの、最大の標的。
だがアイン達は、それほど重要な女でさえも目に入らず、同時に姿を現したもう一人の人物を認めた途端、衝撃を受け、動けなくなった。
「…な、なん…で…」
ミリーは矢を取り落とした右掌を口に当て、馬車の屋根から姿を現した新たな男の姿を見て、喉から出かかった悲鳴を必死に抑える。アインも目の前に立ち塞がった銀の女の存在を忘れ、屋根の上に立ち上がった黒髪の男に釘付けになったまま呆然とし、レオ、イレーヌ、フルールでさえも息を呑み、動きを止める。
男はこの世界では珍しい黒髪ではあったが、ごく普通の容貌の持ち主であった。それなりに上背はあるものの決して突出しているわけでもなく、また体格が優れているわけでもない。至極平凡な人族の男と言えよう。
だが男は一つ、アイン達にとって見間違いようのない、忘れようのない特徴を有していた。
男は右腕がなく、隻腕だった。
レオ、イレーヌ、フルールの三人は、隻腕の男を一人しか思い出せなかった。一度しか関わった事がなかった。
かつてレオ達は、一度だけ男とクエストを共にした事があった。男の階級は低く、そのクエストには隙間を埋める補助要員として参加していた。
だが、男はその階級に見合わないほどの活躍を見せ、一度は全滅の憂き目を見たパーティを救い、クエストの成功に大きく貢献した。
しかし、直後にパーティを襲った悪魔の降臨によってパーティは散り散りになり、ハンター達は己の才覚だけを頼りに魔物の蔓延る山野を抜け、街へと戻らざるを得なくなった。レオ達は辛うじて生還する事ができたが、多くのハンターが命を落とし、悪魔に憑かれた銀の女と隻腕の男もついに戻って来る事はなかった。
アインとミリーは、隻腕の男をより深く知っていた。より身近な存在だった。
当時、未だ駆け出しのハンターであった二人にとって、男の存在は貴重だった。彼らと同じ低い階級であったにもかかわらず地と水の魔法を唱え、高額だが別料金で治癒もできる優秀な魔術師。素質も持たず経験の浅い二人にとって男の後方支援は絶大で、二人は過酷な生存競争に欠く事のできない貴重な経験を、命の危険を伴う事なく獲得する事ができた。男がクエストから戻らない事を知ったミリーはショックを受け、それ以降アインの体を異常なほど気遣って傍らから離れなくなり、やがて二人はそれをきっかけに一線を越えた。
その、生きていて欲しいと願っていた男が、生きてミリー達の前に現れた。同じクエストで潰えたはずの銀の女と共に、中原を救おうとするミリー達の前に、敵として立ちはだかった。ミリーはその事実が信じられず、男の正気を呼び覚まそうとするかのように、悲鳴混じりの声で男の名を呼んだ。
「――― トウヤさん!」
「…」
男は、ミリーの呼び声に答えようとしなかった。男は奇怪な馬車の上に立ったままアイン達を一瞥すると、そのまま周囲を見渡し、黒槍の射線を避けて迫り来る東滅軍を少しの間眺めていた。そして再び前を向き、地面に斃れている獣人を揺すり続ける黒髪の女を見下ろし、静かに語り掛けた。
「――― 古城」
***
美香の目には、ボクサーも、柊也も、自分の命を奪おうとしたハンターの姿も、東滅軍も、一切映らなかった。彼女はただひたすら、地面にうつ伏せになったまま動かない大柄な獣人の女を見つめたまま、頼りない足取りで女の許へと近づく。
「…ゲ…ルダ、さん?」
美香は獣人の女の脇に崩れ落ちるようにしゃがみ込むと、震える手で女の肩を揺する。女は美香の反応に応えず、うつ伏したまま動かない。
「…ねぇ、ゲルダさん、起きて?」
美香は女の革鎧を掴んで渾身の力を籠め、彼女を仰向けにする。美香の目の前で女は熟睡しているかのように目を閉じ、動かない。その逞しい体を覆う革鎧は左肩から腹にかけて袈裟懸けに炭化して脆くなり、彼女を仰向けに動かした事で亀裂が走っていた。美香は亀裂に両手を差し込んで引き裂くようにこじ開けると、彼女の豊かな胸に両手を押し当てる。そして、そのままの態勢で震え、戦慄き出した。
「…ねぇ、ゲルダさん…勘弁してよ…冗談でしょ…?ふざけてないで、早く起きてよ…わ、私がそんな悪戯に騙されるわけがないじゃない…」
女の胸へと押し当てた手が握り拳へと変化し、炭化した服を掴んで揺さぶる力が次第に激しさを増す。女を揺さぶる美香の目に涙が溢れ、頬を伝って止めどもなく流れ始めた。美香は目を見開き、涙を流しながら目を覚まさない女を揺さぶり続け、嗚咽混じりの駄々をこねる。
「…や、やだよぉ…ゲルダさん…逝っちゃ、やだよぉぉぉ…」
「古城」
泣きながら駄々をこねる美香の頭上から男の冷たい声が降り注ぎ、美香は体を震わせた。彼女は女を揺さぶる手を止め、恐る恐る顔を上げる。
「…せん…ぱい…?」
美香の視線の先には、ボクサーの上に仁王立ちし、二人を見下ろす柊也の姿があった。柊也の顔には何の感情も浮かんでおらず、美香はこれから降り注ぐであろう不吉な言葉を拒否するかのように、怯えた表情を浮かべ、震えながらゆっくりと顔を左右に振る。
「…やだ…言っちゃ、やだ…」
「…」
だが美香の必死の願いは叶わず柊也は口を開き、現実から目を背けようとしている彼女の許に、彼の言葉が容赦なく降り注いだ。
「――― お前が、ゲルダさんを救うんだ」
「…え?」
恐れていたものとは異なる言葉と共に、美香は柊也が放り投げた一つの箱を受け取る。箱はこの世界の物とは明らかに異なる形状をしており、その表面は色鮮やかな橙色に染まっていた。橙色の箱の表面に大きく書かれた白い3文字が、美香の目に飛び込んでくる。
――― AED。
途端、美香は橙の箱に噛り付き、蓋を引き剥がす勢いでこじ開けた。彼女は箱の中に納められた機器を睨みつけ、目まぐるしく瞳を動かしながらヒステリックな声を上げる。
「オズワルドさん!ゲルダさんの服を脱がして!早く!」
「わ、わかった!」
駆け寄ってきたオズワルドとレティシアが美香の変貌に驚きながらも、指示に従って女の革鎧を外し始める。
『胸を裸にして、AEDの蓋から四角い袋を取り出して下さい』
美香は、押し寄せる東滅軍の鬨の声も、3倍にも届く敵を前に背水の陣を敷く近衛師団の姿も、数人の女性騎士が美香の背後に並び剣を抜いてハンター達と相対するのも無視し、箱から流れる音声メッセージに従って袋を取り出す。
その美香の頭上から、男の声が降り注いだ。
「管理者権限をもって命ずる ―――」




