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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第15章 巡り廻って
277/299

275:崩れる均衡

「東滅」の宣言と時を同じくした、ロザリアの第2月26日。セント=ヌーヴェル王国の首都、サンタ・デ・ロマハ。


 この日、王宮の一角に設けられた執務室の中で、フレデリク・エマニュエルは本国から届けられた一通の手紙を前にして、苦渋の表情を浮かべていた。手紙を届けた副官が、手紙を見つめたまま微動だにしない彼の姿を不安そうに眺めている。


 やがて副官は部屋の中を漂う重苦しい雰囲気に耐え切れず、息継ぎをするかのようにフレデリクに尋ねた。


「…閣下、本国からは、何と?」

「…」


 副官の問い掛けにフレデリクは沈黙を続け、彼は次第に息苦しさを覚える。だが、副官にとって幸いな事に、彼が窒息死するよりも早く、上官が口を開く。


「…兵2万、及び遠征に必要な糧食を揃え、ロザリアの第6月30日までにエーデルシュタインとの国境沿いに集結させよ、との命令だ」

「…兵2万!?」


 フレデリクが齎した情報に副官は思わず息を呑み、再び呼吸が止まる。セント=ヌーヴェルが全盛であった3年前の北伐、あの時派兵した兵力でさえ、兵18,000と輜重4,000の合計22,000。それが、セント=ヌーヴェルの対外派兵能力の限界と言える。しかもその後22,000の北伐軍は全滅し、西誅軍によって国内を蹂躙されたセント=ヌーヴェルの凋落ぶりは目を覆うばかりであり、全土に展開する正規兵は今や15,000を割り込み、国防にも支障が出ている。


 つまり、カラディナ本国の要求に応じるためには、すでに危機的水準に陥っている正規兵から更に兵を割き、不足分をハンターは勿論、徴兵によって市民で賄って民兵として送り出す他にない。この要求によって、セント=ヌーヴェルは更に弱体化する。




 …「六柱」め、やってくれる。


 フレデリクは、己が属する国の首脳部の悪辣さに憤り、唇を噛む。彼が憤ったのは、セント=ヌーヴェルに対する仕打ちだけではなかった。それは、フレデリク自身への仕打ちも含まれていた。


 自分達の未来を託したリヒャルトはクリストフとの権力争いに敗れ、カラディナに身を寄せた。そしてカラディナの傀儡にまで身を落として掴んだ最後のチャンスさえも活かせず、オストラの地で命を落とした。それによって、フレデリクが率いるサンタ・デ・ロマハ駐留軍3,000は完全に後ろ盾を失い、占領地で孤立する事になった。


 だが、不思議な事に、リヒャルトが敗死した後もカラディナ政府はサンタ・デ・ロマハ駐留軍に対し、何の連絡も寄越さなかったのである。西誅に敗れて以降の独断専行を咎める事もなく、帰還命令を出すわけでもなく、放置され続けた。フレデリクはそんな本国の沈黙に不吉なものを覚えながらも、故国に帰る術を失って動揺の広がる兵達を必死に宥め、駐留軍の空中分解を防ぐのに躍起になった。


 そのさなかにフレデリクに届いた手紙によって、「六柱」の真意が明らかになった。「六柱」は、残された駐留軍を乗っ取り、寄生虫のようにセント=ヌーヴェルの資源を吸い上げ、痩せ細らせようとしていた。


 そして、フレデリクには、この命令を拒否する事ができない。


 未だカラディナ政府は、駐留軍に対する賞罰を明らかにしていない。それにより、いつ何時でも西誅における独断専行を咎め、処罰する事ができるのである。その意思は、この手紙の宛先からも、ありありと感じ取れる。




 ――― フレデリク・エマニュエルへ。




 役職も肩書も付帯していない、一個人としてのフレデリクに宛てたもの。この一文からも、カラディナ政府が未だフレデリクの駐留軍司令としての立場を認めておらず、態度を保留している事に他ならない。




 ――― 西誅における抗命を咎められたくなければ、働け。




 だが、「六柱」に従って働いても、(いばら)の道が続く。これまでフレデリクは現地に配慮した善政を敷き、カルロス・ロペスら友誼派と親交を深めた事で、セント=ヌーヴェル国内は数々の問題を抱えながらも平穏を保ってきた。だが、本国の命令に従って搾取を繰り返せば、セント=ヌーヴェルとの軋轢を生むであろう。


 そして、その軋轢が破綻する直前で「元凶」であるフレデリクをカラディナが自ら処罰する事で、カラディナとセント=ヌーヴェルは、かつての友誼を取り戻す。


 そこまで読めてしまう。読めていながら、フレデリクにはそれを覆す事ができない。




 フレデリクの肩には、3,000の兵士達の未来も係っているのだから。




「…教会は、何と言っている?」


 上官の苦悩に塗れた質問を受け、副官が答える。


「教会でもエーデルシュタインを襲った不幸を嘆き中原の将来を憂う声が大勢を占めており、西誅に匹敵する何らかの宣言が出されるであろうと、見られています」

「良かろう」


 副官の報告を受け、フレデリクは決意の光を眼に湛え、明言する。


「教会に使いを走らせ、枢機卿との面会を取り付けてくれ。此度のエーデルシュタインを襲った不幸については、西方諸国が一丸となって対処せねばならない。教会と見解を一致させた上で、友誼派と共に国王に奏上し、派兵を促そう」


 今回は教会の声を借りて危機感を呷れば、凌げる。次はどうなるか、わからんがな。




 こうしてセント=ヌーヴェルは東滅の檄に呼応し、兵20,000、輜重5,000という北伐を超える軍を揃え、東方へと送り出す。カラディナは北伐の時とは異なりセント=ヌーヴェル軍の国内通過を認め、カラディナ東部の国境沿いには、続々と兵士達が集結していった。




 ***


「お父様、お母様、急に如何なさいましたか?」


 ロザリアの第4月16日。


 ヴェルツブルグにあるディークマイアーの館の一室に呼び出されたレティシアは、部屋に入った途端、不吉な予感を覚える。部屋の中では、フリッツとアデーレの二人がソファに腰を下ろし、苦渋の表情を浮かべて俯き、レティシアと視線を合わせようとしない。特にアデーレの顔は蒼白で、膝の上でハンカチを握りしめた両手は小刻みに震えており、そこまで怯えるアデーレの姿を見たのはレティシアにとっても生まれて初めての事だった。


「…お父様、一体何が?」


 アデーレさえも耐えられないほどの凶報が来る事を知り、レティシアは膨れ上がる不安に耐え切れず、聞きたくない報告を促す。フリッツは俯いたままテーブルから引き剥がせなくなった顔面をそのままにして視線だけ前を向き、極めて事務的な抑揚で答えた。




「――― カラディナ、セント=ヌーヴェルの両教会がミカを魔族と断定し、聖王国に対する『東滅』が宣言された」




「…何ですってぇ!?」


 フリッツの言葉を理解したレティシアはテーブルに手を叩きつけ、そのまま身を乗り出してフリッツに詰め寄った。


「一体!何処の!誰が!その様な世迷言を口にしたのですかっ!?ミカが魔族だなんて!そんな、親に唾を吐くような恥知らずな事を!よりにもよって、教会が宣言したというのですかっ!?」

「レティシア、抑えろ。声が大きい」

「…あ…」


 レティシアは、怒りに身を任せてフリッツを糾弾した。彼女の理性は吹き飛び、頭に血が上ったまま、思い浮かんだ言葉を鷲掴みにしてフリッツに投げつける。でなければ、背後から忍び寄る恐怖に耐えられない。怒りでも何でも、とにかく体に火をくべなければ、この身が凍えてしまう。


 だが、フリッツに窘められ、レティシアは口を閉ざしてしまった。怒りという燃料を失った彼女は瞬く間に凍え、テーブルの上に身を乗り出したまま、氷の彫像と化す。フリッツが「娘」という題名の氷像に向かって語り続けた。


「カラディナへと赴いた枢機卿二人が捕えられ、ミカと結託して教義を捻じ曲げた罪で、火あぶりの刑に処された。西方諸国では、ミカはエーデルシュタイン王国を滅亡に追いやった諸悪の根源とされ、口の端に乗せるのも(はばか)れるような醜聞が広まっている。西方との対話の道は、断たれた。我が国は単独で西方諸国全てを相手取り、ミカを守り抜かねばならぬ」

「…そ、んな…」

「幸いヴェルツブルグの教会が即座に反論し、ミカの潔白を表明してくれたおかげで、国内の瓦解は防げるだろう。私はこれからコルネリウス達と協議し、国民の動揺を抑え、防備を固める。アデーレがまだ立ち直れない。レティシア、ミカを頼んだぞ」

「…で、ですが、お父様…ミカに何て伝えたら…」


 衝撃と共に到底抱えきれない難題を押し付けられ、レティシアは凍り付いた体で軋みを上げながら、フリッツに縋りついた。




 魔族。それは、中原に住む者にとって、存在の否定を意味する。


 如何な功績を打ち立てようと、中原に貢献しようとも、魔族と判明した時点でその全てが否定され、死刑に処せられる。今まさに、西方教会の手によってミカの首に縄が架けられ、憎悪に追い立てられながら、崖下へと突き落とされようとしている。


 そんな事、彼女に何て伝えたらいいの?




「…今は、ミカには伝えるな。どう伝えたら良いか、コルネリウス達とも相談しておく。それまで理由を設けて公務を控え、館に留め置いてくれ」

「…畏まりました。お願いします、お父様」


 そう答えたレティシアは席を立ち、サイドテーブルに置かれた水差しから三人分のグラスに水を注いでいく。


 こんな顔色では、ミカに会えない。せめて紅茶があれば…。


 火と水の魔法が使えず、侍女を呼ばなければ紅茶も淹れられない状況に、レティシアは苛立ちを募らせていた。




 ***


「一体!何処の!誰が!その様な世迷言を口にしたのですかっ!?ミカが魔族だなんて!」

「――― っ!?」


 廊下を歩いていたカルラは、扉の向こうから飛び込んできた言葉を耳にして、背筋が凍る。カルラは声の聞こえた扉へと忍び寄り、耳をそばだてた。


「…いた枢機卿二人が……火あぶり……西方諸国では、ミカは……諸悪の根源とされ……醜聞が広まって…」

「…そんな…」


 扉の向こうから微かに聞こえて来るフリッツの言葉に、カルラは目を見開き、息を呑む。やがてカルラは扉に貼り付いてしまった耳を無理矢理引き剥がすと、足音を立てないよう静かに部屋から離れ、廊下を駆け出した。


「…はぁ、はぁ、はぁ…」


 ミカ様が魔族と宣告され、西方諸国が襲い掛かって来る。


 脇目も振らず走るカルラの鼓動が次第に早まり、呼吸が激しくなる。カルラは最も奥にあるひと際壮麗な扉の前に立つと、ノックもせずに扉を開け、その隙間に体を滑り込ませた。


「…あれ?どうしたんですか、カルラさん?そんなに慌てて」


 扉に背を預け、後ろ手で鍵をかけるカルラに、部屋の主が振り返って尋ねる。彼女は純白のネグリジェに身を包み、鏡台の前に座って、艶やかな黒髪を櫛で梳いていた。


 カルラが扉から離れ彼女の許へと歩み寄ると、彼女は髪を梳く手を止め、椅子に腰を下ろしたままカルラを見上げる。彼女の漆黒の瞳の中に、未だ息が整わず、喘ぐ自分の姿が映し出される。


「どうしました、カルラさん?」




 ――― 今 シ カ、 ナ イ。




「――― 西方教会において、ミカ様が魔族だと宣告されました。聖王国を除く全ての国が、ミカ様の罪を糾弾し、押し寄せて来ます」




「…え?」


 カルラの言葉が彼女の頭の中に染み込んだ途端、彼女の顔が罅割れ、その隙間から怯えが滲み出る。カルラは彼女の顔に広がっていく怯えの表情を見つめながら、淡々と事実を告げた。


「ミカ様がリヒャルト殿下を無傷で捕らえながら問答無用で首を刎ねた事が、西方諸国の怒りを買いました。彼らはミカ様がエーデルシュタインに破滅を齎した元凶であると断じ、ミカ様を捕らえ死をもって償わせようとしています」

「ご、ごめんなさい…」


 彼女は体を震わせ、後悔と罪の意識に苛まれながらカルラに手を伸ばし、縋りつこうとする。カルラは、まるで迷子の幼児のような、頼りない壊れそうな彼女の手を取ると微笑み、彼女の背中に手を回して慰めた。


「大丈夫です、ミカ様。私は何があろうとも、ミカ様の味方です。いいえ、私だけではありません。フリッツ様やコルネリウス様が国を挙げて、きっとミカ様の事を守り抜いてくれます」

「…ごめんなさい…ごめんなさい…」


 カルラが背中を優しく擦っても、彼女はカルラの腕の中で身を縮ませ、震えながら懺悔の言葉を繰り返す。それでもカルラが構わず彼女を擦り続けていると、やがて彼女が顔を上げ、縋るような眼で懇願した。




「…カルラさん、私が悪いの! ――― 私を罰して!」




 ――― ツ イ ニ、 来 タ。




「…わかりました、ミカ様」


 彼女の縋るような視線を受け、カルラは逸る心を落ち着かせて熱の籠もった息を吐くと、テーブルを指し示す。


「ミカ様、あのテーブルに手をついて、後ろを向いて下さい」

「は、はい」


 カルラの指図を受け、彼女はおどおどとした様子で立ち上がると、テーブルに手をつき、カルラに背中を向けた。カルラの目の前に、彼女のしなやかな姿態が、ネグリジェ越しに映し出される。


「ミカ様、もっとお尻を突き出して」

「はい…」


 カルラの言葉に応えるように彼女の腰が動き、ネグリジェの襞が伸びて衣越しに美しい曲線が露になる。カルラは彼女の脇に立つと左手を背中に添え、目の前に突き出された曲線を右手で愛でるように撫でた。




 ――― ツ イ ニ、 ツ イ ニ !




 息が乱れ、何度深呼吸を繰り返しても、体に酸素が行き渡らない。興奮が止まず、鼓動が頭蓋の中で木霊する。


 カルラは、目の前に差し出された曲線に目が釘付けになったまま右手を振り上げ、溢れ出る期待と共に勢い良く振り下ろした。


「「あぁっ!」」


 張りのある肌にカルラの右手が叩きつけられ、乾いた音と二つの声が重なる。一つは悲鳴、もう一つは嬌声。休む間もなくカルラの右手が上がり、二度三度と振り下ろされ、その都度彼女の悲鳴が上がる。


「あぁっ!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「あぁっ!ミカ様!ミカ様!」


 カルラの目の前で彼女が仰け反り、美しい黒髪が宙を舞う。カルラは息を荒げ、上気し、笑みを浮かべながら愛おしい曲線を撫で回し、そして体の疼きに誘われるまま、繰り返し右手を叩きつける。


 他の誰も入れない広い部屋の中で、一つの乾いた音と、二つの啼き声が、繰り返し響き渡っていった。

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