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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第14章 想像できない未来に向けて
262/299

260:前哨戦(2)

 鮮やかな新緑に彩られた原野の中を、1台の8輪装甲車が疾走していた。


 総重量が33tにも上る装甲車の分厚いタイヤは地面を力強く蹴り、太い轍を拵えながら疾駆する。つい数時間前まで、その進行方向には緑溢れる木々と草原が広がっていたが、今や至る所に踏み潰された巨大な蟻の遺骸が転がり、装甲車はご丁寧にその遺骸を二度轢きして粉砕しながら、速度を緩めることなく滑走する。そして、装甲車の後ろには数百に及ぶ蟻の集団が追い縋り、多くの仲間の命を奪いながら反省もせず逃走を続ける凶悪なひき逃げ犯を捕らえようと、広い大地を舞台に壮大なカーチェイスが繰り広げられていた。


 疾走を続けるボクサーの中で、セレーネは操縦桿を握りしめたまま、青い顔を浮かべていた。その額には脂汗が浮かび、現実から目を背けようと前方を凝視し、歯を食いしばる。しかし彼女は、押し寄せる気配を振り切る事ができず、すでに蝕まれた手足は自分のいう事を利かず、小刻みに震え続ける。やがて彼女は自分を抑える事ができなくなり、前方を凝視したまま、悲鳴を上げた。


「…も、もう無理です!シモンさん、早く助けに来て下さい!」

「もう少し頑張ってくれ、セレーネ!今すぐに行く!」


 後方から「妹」の声が聞こえ、上部ハッチから降りる音が聞こえて来る。でも、私はもう駄目かも知れない。僅か30秒の差が、乗り越えられない絶望的な壁としてセレーネの前に立ちはだかり、彼女の脳裏に楽しかった思い出が次々と浮かび上がり、走馬灯のように流れていく。


「セレーネ、待たせた!」

「シ、シモンさん!」


 セレーネにとって永遠と思われた30秒が過ぎ、頼もしい妹の姿が操縦席に現れた。彼女は走行中にも構わず操縦桿から手を離すと、妹の体を掻き分けて後方へと駆け出し、目に涙を浮かべながら叫んだ。




「もう駄目!もう、我慢できない!もう、漏れちゃうよおおおおおおおおおおっ!」




「…あ、危なかったぁ…危うく全ての尊厳を失うところだった…」


 車中から流れてくる腑抜けた声を聞きながら、柊也は何個目になるか分からないM67破片手榴弾のピンを抜き、後方へと放り投げる。数秒の後、後方で四散する蟻の体を眺めながら、げんなりとした表情を浮かべ、呟いた。


「…ああ、もう疲れた。いい加減、休憩を入れるか」


 すでに鬼ごっこが始まって数時間が経過したが、蟻達は休む間もなくボクサーを追い駆けて来る。彼らは疲れも恐怖も見せず、仲間達の死体を乗り越え、ボクサーに襲い掛かって来ていた。正直、彼らは柊也達にとって脅威ではなく、仮に真正面から突入しても轢き潰せると思われたが、万が一群中で停止してしまうと、脱出不能になる恐れがある。カービンでちまちま狩る気にもならず、手あたり次第手榴弾をばら撒いて片付けていたが、まだ昼食も取れていない。柊也は今日中の決着を断念し、ハッチから下に向かって怒鳴り声を上げた。


「シモン!一度撤退してくれ。昼休憩にしよう!」

「わかった!」

「ト、トウヤさん、まだ降りてきちゃ駄目ですよ!」


 車内からシモンの(いら)えとセレーネの焦った声が上がり、やがてボクサーは蟻の群体を引き連れ、カエリアのドームから遠ざかって行った。




 ***


 肌を切り刻めるほどの凍剣と化した横殴りの風が吹き(すさ)ぶ、雪と氷に覆われた大地の中に、1台の8輪装甲車が停車していた。装甲車はエンジンをかけたまま動きを止め、間断なく打ち掛かる凍剣にその身を晒している。周囲には生命の息吹は一切感じられないが、装甲車から200mほど離れた所を先頭に点々と数十体の蟻の凍死体が帯状に連なり、その向こうには一変した緑の世界と、その縁に群がる無数の蟻の蠢く姿が垣間見えた。


 外の世界から隔絶された暖かな車中で、柊也達が熱々の参鶏湯(サムゲタン)を頬張っている。


「…熱っ…いやぁ、こりゃ収拾がつかんわ。2~3日はこのイタチごっこを続けないと、駄目かも知れないな」

「うぅ…もう面倒臭い…」


 ハフハフと口を動かしながら柊也が参鶏湯を食む傍らで、セレーネがレンゲに掬ったスープを冷ましながら嫌そうな表情を浮かべる。シモンが鶏の大腿骨を摘まんで口に放り込み、豪快に噛み砕きながら感想を述べた。


「アレを片付けない事には、ドームの中にも入れないからね。ボクサー(こいつ)がなければ、完全に手詰まりだ」

「シモンの言う通りだ。ドームの中に入ったら最後、ボクサーを失う事になる。安全地帯がこの吹雪の中にしかなく、チャンスが一度きりである以上、時間を掛けてでも徹底的に排除して、蟻の数を減らしておかないとな」

「この中に居る限り安全ってだけでも十分に有難い事だっていうのは、良くわかっているんですけどね…」


 草原の民であるのにも関わらず、カエリアの地に入ってから引き籠もり生活が続いている事に、セレーネがボヤキを入れる。それを聞いた柊也は笑い、セレーネの頭を撫でて労わった。


「もう少しだけ辛抱してくれ、セレーネ。カエリアに無事に接触できれば、長い旅も終わりだ。そうしたら、大草原に戻って、思う存分余暇を満喫しよう」

「ええ、もう、思う存分休みますとも!大草原を思いっ切り走り回るんだから!」

「私も体が(なま)って仕方がない。ねぇ、トウヤ。後でリハビリがてら、アイツらと肉弾戦やらせて貰ってもいいかい?」

「もっと数を減らしてからな」


 同じく引き籠もり生活によって鬱憤の溜まっているシモンにねだられ、柊也は器の底に溜まったスープを掬いながら答えた。




 ***


「ハッ!」


 鋭い棘を持つ大顎を広げた大蟻に飛び掛かかられたシモンは、体を捻ってその咢から逃れると、下から掬い上げるように体節を蹴り上げる。体が浮き上がり、腹を晒して宙を舞う蟻を目の前にして、シモンは腰を落とし、右拳を握って引き絞り、正面へと突き出した。シモンの拳は無防備な蟻の喉元へと吸い込まれ、頭部と泣き別れとなった胴体が二転した後、藻掻くように脚を動かし、走り去って行く。


「シモンさん、後ろ!」


 ボクサーの上に乗ったセレーネが警戒の声を上げるが、シモンは冷静に背後を一瞥すると、振り切った右腕を払うように打ち下ろしながら跳躍する。直後にシモンの真下を蟻が通り過ぎ、シモンの体が蟻の背中に添えた右肘を基点にして、空中で一回転した。


 一瞬で蟻の背後を取ったシモンは、着地と同時に右足を蹴り出して一瞬で距離を詰めると、蟻の尻の先に爪先を引っ掛け、蹴り上げる。シモンの目の前で逆立ちとなった蟻の喉元に、シモンの踵が突き刺さり、2体目の頭部が胴体から離れ、草原の上に転がる。その流れるような姿に、車上で肩にカービンを担いだまま観戦していた柊也が、感嘆の声を上げた。


「大したもんだな。それだけ動ければ、大丈夫じゃないか?」

「いや、まだやらせてくれ。『疾風』と『防壁』なしの状態に、もう少し慣れておきたい」


 ただ一人地上に降りたシモンが、右拳の握り加減を確かめるように開閉を繰り返しながら、答えた。


 カエリアのドームに接触してから4日目を迎え、その間寒暖の激しいエリアを行き来して鬼ごっこを繰り返した結果、蟻達はめっきりとその数を減らしていた。緑豊かだった草原は今や一面蟻の死体で覆われ、その上にボクサーの轍が幾重にも連なり、不吉な斑模様と縞模様を描いている。ボクサーはカエリアのドームから少し離れた場所に停車し、柊也とセレーネは車上に陣取って、散発的に押し寄せる蟻達を迎え討っていた。


 人類という種族特性でカエリアの管轄地でも魔法が使える柊也とは異なり、ロザリアでしか使用認可を得ていないシモンは、素質が使えない。シモンの返事に柊也は頷き、カービンを構えると、カエリアのドームの入口に向かって続けざまに発砲した。


 フルオートで放たれた銃弾はドームの中へと飛び込み、耳障りな音が跳ね返ってくる。やがてドームの中から5体の蟻が現れ、その姿を見たシモンがセレーネに声を掛けた。


「5体は面倒だな。セレーネ、2体潰してくれ」

「はい、わかりました」


 セレーネが車上でカービンを構え、無造作に2回トリガーを引いて、2体の蟻を仕留める。残りの3体が一列になって自分の許へと押し寄せて来るのを見たシモンは、蟻に向かって飛び出し、先頭の蟻の胸部を踏み潰しながら跳躍した。


「俺を踏み台にしたぁ!?」


 背後から聞こえる柊也の叫びを無視し、シモンは飛び掛かって来た2体目の顎を空中で蹴り上げ、直立して無防備になった胸部を3体目に向けて蹴りつける。すぐさま、折り重なるようにして吹き飛ばされた2体に駆け寄ると、頭部と胸部の節目を踏み潰し、次々と切り離していった。


「トウヤさん、今の掛け声は何ですか?」

「深く聞かないでくれ」


 先頭の蟻に止めを刺しながらセレーネが尋ね、柊也が横を向いて頬を掻く。一仕事終えて戻って来たシモンが、乱れた髪型を整えながら指摘する。


「放っておけ、セレーネ。どうせ、向こうの世界の漫画か何かだろう?」

「そろそろ食事にしよう。シモンは血の滴るレアステーキで良いか?」

「うん、ありがとう」


 この件でもう少し弄ろうと思っていたシモンだったが、柊也から提示された賄賂を受け取り、機嫌良く矛を収める。柊也は上部ハッチを開け、身を滑りこませながら、二人に声を掛けた。


「今日一日掃討を続け、明日ドームへと突入する。午後、もうひと頑張りしてくれ」

「わかった」

「はい、わかりました!」


 柊也の言葉に二人は頷き、三人は分厚いボクサーに守られ、束の間の歓談を楽しんでいた。

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