256:道中記(2)
どんよりとした分厚い雲が陽の光を遮り、すっきりしない天候の中を、1台の8輪装甲車が北上していた。
上部ハッチから顔を出したシモンは、前方から吹き寄せる風の冷たさに、思わず身を竦める。彼女は柊也から渡されたダウンジャケットの襟を引き上げると、襟の縁を掴んで顔を覗かせるような格好で周囲を見渡した。
ボクサーは殺風景な岩棚の上を走っていた。周囲は緑が疎らで、内陸に群生する木々も針葉樹ばかりになっている。東に目を向けると切り立った崖が南北に連なり、その崖の向こうには空と同じ沈んだ色の海が広がって、水平線を境にして世界を灰と紺の陰鬱な二色に染め上げていた。
シモンは周囲を一通り見渡した後、自分に背を向け東の海を漫然と眺める柊也に声を掛ける。
「…トウヤ、君は寒くないのかい?」
「…んー?」
シモンの問いに柊也は体を捻って後ろを向き、浮かない表情を横顔に貼り付かせながら答える。
「…俺の生まれた国は寒暖の差が激しくてさ、これよりもっと寒い日も当たり前の様にあったんだ。中原では、この寒さは珍しいのか?」
「珍しいも何も、中原でこんなに冷える場所なんて聞いた事もないよ。君も3年間過ごして、そうだっただろう?」
「それもそうか。あそこは赤道に近いもんな」
「セキドウ…?」
柊也の口から飛び出した聞き慣れない単語に、シモンが首を傾げる。柊也は右手で携帯カイロを取り出し、シモンに手渡しながら答えた。
「中原は、地球で最も暖かい地域にあるんだ。この先、北に向かえば向かうほど、どんどん寒くなる。…それ、軽く揉みしだくと暖かくなるから。懐に入れておきな」
「ありがとう、トウヤ」
シモンは柊也に礼を言うと、携帯カイロを両手で挟んで擦り合わせる。柊也は一つ頷き、再びシモンに背を向けて東の海を眺めると、小さく呟いた。
「…まだ仙台くらいの緯度なんだがな…6月半ばで、こんなに冷えるのか…」
***
「…コレ、一度中に入ると、出られなくなりますね」
ボクサーの上に拵えた豆炭コタツの暖かさに、セレーネが蕩ける。コタツの上にはカセットコンロが置かれ、四角い鍋の中で数々のおでん種が湯気を立てていた。
昼間の浮かない天気は夜には回復し、雲の切れ目から星空が顔を覗かせている。ただ、海から吹き付ける風は些か冷たく、屋外での食事は次第に厳しさを増してきていた。柊也がお猪口に熱燗を注ぎながら、答えた。
「これ以上北に行ったら、そろそろ屋外での食事も終わりだ。サラもこの辺には魔物が居ないと言っていたし、楽しめる時に楽しんでおこう」
「君の生まれた国は、本当に風情に溢れているんだな」
シモンが味の染みた大根を頬張りながら、感嘆する。無類の肉好きであるはずの自分が、こんな根菜や「コンニャク」などという正体不明の食材を美味しく味わっている。そもそも、野外での食事に風情を求めるという事自体が、柊也に会う前のシモンにはない発想だった。シモンはお猪口を傾け、喉元を流れる熱に思わず艶やかな息を吐きながら、海を眺める柊也に尋ねた。
「…この海の向こうに、君の国があるのかい?」
「…ああ、あった。今は海の底らしいけどな」
そう答えた柊也の横顔に、悲愴感はない。シモンは息を呑み、衝動を抑えきれずに後悔するとわかっていながら、質問を投げかけてしまう。
「…やっぱり、帰りたいかい?」
「――― どうだろうな…」
シモンの予想に反し、彼は表情を変えず、風に乗って流れてくる波打ちの音に耳を傾けながら、独り言のように呟く。
「…日本は、窮屈な国だったよ。時間に追われ、常識に縛られ、自己を主張しない事が美徳とされてきた。こっちに比べて遥かに文明が発達していて、便利で娯楽も多かったけど、5分の遅刻が咎められるような世界だった」
「大草原では、3日までは誤差の範囲なんですが…」
話を聞いたセレーネがげんなりした表情を浮かべ、それを聞いた柊也が失笑する。
「でも、良い面もあった。この世界と違って個人の権利というのが尊重されていて、医療も充実しており、命の危険に晒される事は早々起きない。曲がりなりにも個人に対する支援制度もあって、一つの不運が身の破滅には繋がらず、奴隷に落とされる事もなかった」
そう答えた柊也はお猪口を呷り、大きく息を吐いて結論付けた。
「結局、無いものねだりなんだ。両方の世界を知ってしまったがために、両方の良い面悪い面が良く見え、どうしても比較してしまう。良いトコ取りなんて、できないのにね。…でも、まあ、どちらかを選べと言われたら、こっちを取るんじゃないかな?」
「何故?」
シモンに問われた柊也は、徳利を傾け、お猪口に流れ落ちる透明な液体を眺めながら答えた。
「――― 君達と、一緒に居られるからな…」
「…卑怯だ、トウヤ」
「そうか?」
柊也がお猪口を手に取って顔を上げると、シモンが下を向き、尻尾をブンブン振り回しながらブツブツと文句と垂れている。
「いいいいきなりそんなクサい台詞を吐いて、君、今絶対、してやったりって顔しているだろ…ああ!もう!頭に来るっ!」
そう声を荒げたシモンは、茹蛸の様に真っ赤になった顔を上げ、徳利をひったくって空いた茶碗に日本酒を流し込みながら捲し立てた。
「かかか覚悟しておきなさいよ、トウヤ!こここ今晩、まともに眠れると思わないでね!」
「口調が変わっちまってるぞ、シモン」
「ううう五月蝿いっ!」
シモンは憎まれ口を叩きながら茶碗を両手で持ち、柊也から顔を隠すように日本酒を飲んでいく。その様子を面白そうに眺める柊也の隣で、セレーネが顔を赤らめ、コタツの中で両手を擦り合わせながら、小さく呟いた。
「…わわわ私だって、ががが頑張るんだから…」
***
「…いや、だから、私は、そういう意味で頑張るって言ったわけじゃないからっ!」
結局、二人がかりで頑張らせられたセレーネが布団の中でプルプルと震える中、一仕事終えた柊也とシモンが、裸のまま缶ビールを片手に昔話をしている。
「そう言えば、シモンの故郷って聞いた事がなかったな。どんなトコなんだ?」
柊也が座椅子にもたれ掛かり、ビールに口をつけながら尋ねると、シモンが柊也の左腕にしがみ付いたまま答えた。
「私の故郷はセント=ヌーヴェルの南西、山脈を二つほど越えた山の中にあるんだ。男達は山野を駆け巡って動物を狩り、女子供を養っている。女達は、力が強く多くの獲物を狩って来る男を好み、一夫多妻も珍しくないよ」
「親御さんは?」
「数年会ってないからわからないけど、多分元気じゃないかな」
「挨拶に行った方がいいかな?」
柊也の質問に、シモンが意地の悪い笑みを浮かべる。
「止めた方がいいよ。皆気性が荒くて、何事も力で決しようとするきらいがある。言い寄る男どもをことごとく蹴り倒して故郷を飛び出した私が男を連れて来たって噂が広まった途端、君は片っ端から決闘を挑まれる事になるだろうね」
「カービン、使ってもいい?」
「使っちゃ駄目だから」
柊也の物騒な言葉を聞いたシモンは失笑し、柊也の胸元に顔を押し付けて楽しそうに頬ずりをする。
「あぁ、でも、この際連れてっちゃってもいいか。喧嘩売られたら、私が片っ端から張り倒せばいいわけだし。『この人が私の旦那さんだよ!』って大声で叫べたら、どんなに素敵なんだろう。ねぇ、トウヤ。いつか、私の両親に挨拶しに来てくれる?」
「ああ、勿論。全てが落ち着いたらな」
「ホント!?絶対だよ!?君に難癖付ける奴が居たら、例えそれが父親だろうと、私が残らず叩き伏せるから、安心して!」
そう答えたシモンは頭を上げ、柊也の後頭部に手を回して、唇を重ねる。
「トウヤ、愛してる…」
冷たい空気が漂う外界とは裏腹に、テントの中は温もりに溢れ、互いに発する熱によってより一層燃え上がっていった。




