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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第13章 忘恩の徒
235/299

233:耐え忍ぶ日々

「ただいまー。ごめんなさい、ミカ、遅くなっちゃって」

「お帰りなさい、レティシア。さ、ご飯食べようか」

「え、何?まだ食べてなかったの?先に食べていて、良かったのに…」


 会議を終え、すでに日も落ちて暗闇に覆われた頃にディークマイアー家に戻ったレティシアは、迎えに出た美香の言葉に思わず眉を下げる。美香は、申し訳なさそうな表情を浮かべるレティシアの手を取りながら、宥めるように笑う。


「気にしないで、レティシア。一人で食べても(わび)しいじゃない?私も一緒に食べたかったし」

「ありがとう、ミカ」


 レティシアは、以前より情が溢れるようになった美香の笑顔に胸をときめかせながら、繋いだ手を組み替え、指を絡ませる。美香もレティシアの動きに応えながら、背後に続くコルネリウスに笑顔を向けた。


「お帰りなさい、お父さん。今日もお疲れ様でした」

「…」

「どうしたんですか?お顔が真っ赤ですけど…」

「…あ、いや、気にしないでくれ、ミカ」


 コルネリウスは、小首を傾げながら自分を覗き込む少女の顔を間近に見て、思わず口を手で覆い、赤面してしまう。いくら知らなかったとは言え、この世界に生きる全ての人族の「母」に、「お父さん」と呼ばせているのだ。畏れ多いやら、背徳的な悦びやら、云いようのない高揚感がコルネリウスの胸の中に渦巻き、しかも今はそれを(おもて)に出す事ができない。コルネリウスが自己完結型の拷問に身悶えながらも決して「お父さん」の称号は手放すまいと心に誓っていると、美香がコルネリウスの背後を見ながら尋ねて来た。


「…あれ?お父さん、ヴィルヘルム様は、どうなさったんですか?」

「ぅぐ…ヴィルヘルム殿には、急遽、国の南部へと向かってもらった」

「え?南部に、ですか?」


 容赦のない「お父さん」攻撃に心臓を貫かれ、コルネリウスが身を捩りながら質問に答える。彼は体勢を立て直すべく仰々しい咳払いをすると、説明を続けた。


「おほん…ミカも知っての通り、今この国は王家という支柱を失い、空中分解寸前だ。このままでは王城陥落という衝撃から立ち直った後、地方の領主が自己の利益を追及して割拠してしまう恐れがある。そのため、我々の中でもっとも顔の広いヴィルヘルム殿に、各領主の説得と糾合をお願いしたのだ」

「そうなんですね…。でも、こんな夜に急に出発しなくても…、明朝でも好いような気もするんですが…」

「い、いや、南部と言ってもそれなりに広い。事が起きてからでは、手遅れだからな」

「そうですか…」


 美香の疑問に、コルネリウスはしどろもどろで答える。確かに地方の領主の取り纏めは、遅れる事の許されない喫緊の重要課題だ。だが、ヴィルヘルムがすぐに出立したのには、別の理由がある。


 ヴィルヘルムは、美香の前から逃げ出していた。


 先の会議において、美香を奉戴する事、地固めが済むまでそれを美香に伝えない事が、決定された。だがヴィルヘルムには、それを守れる自信がなかった。今、美香の姿を見たら最後、彼は迷わず五体投地してしまう。少なくとも自分の心の整理がつくまで、美香には会えない。こうしてヴィルヘルムは断腸の思いで、美香に挨拶もせずヴェルツブルグを出立した。


 これはヴィルヘルムに限った事ではなかった。レティシアを除く、あの会議に出席した者達の共通の難題だった。そして、その最初の犠牲者で、最も長く苦しむ事になる男が、他でもないコルネリウスである。ただ一人、その呪縛から逃れているレティシアが薄笑いを浮かべ、美香を(そそのか)した。


「コルネリウス様、顔の赤みが引きませんわね。ミカ、コルネリウス様のお熱を測ってくれる?」

「あ、うん。お父さん、大丈夫ですか?」


 レティシアの言葉に美香は頷き、背伸びをしてコルネリウスの額に手を当てる。


「ぐぉぉぉぉ…!」

「え!?ちょっと、お父さん、凄い熱出てるじゃない!?すぐにお布団に入って下さい!」

「…い、いや、だ、大丈…ぐぉぉぉぉ…!」

「大丈夫じゃないでしょ!お父さん!」


 コルネリウスの大きな額に「母」の小さな手が乗せられ、彼の頭が沸騰する。彼は慌てて言い繕おうとするが、目くじらを立てる「母」に腕を組まれると、その温もりの前にあえなく陥落し、寝室へと引き摺られて行った。




 ***


「何という厳しい戦いだ。これほど絶望的な戦いが待ち構えているとは、予想だにしなかった…」

「何をやっているんですか、あなたは…」


 寝室で横になったコルネリウスが無念の表情を浮かべ、傍らの椅子に座ったオズワルドが呆れる。コルネリウスをベッドに押し込んだ美香は、コルネリウスに絶対安静を言い渡すとオズワルドにお目付け役を頼み、レティシアと共に部屋を出た。残されたコルネリウスは、身を横たえたままオズワルドとゲルダへと顔を向ける。


「お前達にも、会議の結果を伝えておこう。王家亡き後、ミカにこの国の頂点に君臨していただく事に決定した。ハヌマーンをもひれ伏させ和平を齎した、全人族の『母』でもある彼女にこの国を照覧いただき、行く末を見守っていただくのだ。我々は彼女からいただいた数々の御恩をお返しし、彼女に安らかな日々を送っていただけるよう、お守りせねばならぬ」

「ミカは、その決定を知っているのですか?」


 オズワルドの質問に、コルネリウスの眉間の皴が寄る。


「知っていたら、私はこんな苦労をせんよ。彼女に余計な心労は、与えたくない。我々だけで地歩を固め、お膳立てを整えるのだ」

「ミカは、権力に全く興味を示しませんからね。それが彼女の美点でもあり、崇拝に値する清らかさでもあるのですが、支える側としてはもどかしいばかりですね…」


 コルネリウスの言葉に、オズワルドが嘆息する。主君の清廉潔白ぶりをオズワルド達は好ましく思っていたが、その謙虚さとは不釣り合いなほどの偉業を立て、もはやこの国の頂点に君臨せざるを得なくなった立場との精神的なアンバランスさに、懸念を感じていた。


 オズワルド達は、美香に忠誠を誓った者として彼女の幸せを願っていたが、同時にこの国を統べる者はもはや彼女の他にはいないとも考えていた。彼女の幸せとこの国の幸せ、この両方を成立させる。それが、コルネリウスやオズワルド達の至上命題となっていた。コルネリウスが頷き、言葉を続ける。


「お前達も当分の間、伏せておいてくれ。あと1ヶ月もすれば、フリッツ殿もヴェルツブルグに到着するだろう。ヴィルヘルム殿が中南部の説得を済ませ、国内の意思統一が図れるまでの辛抱だ」

「分かりました、コルネリウス様」


 コルネリウスの言葉を受け、オズワルドとゲルダが頭を下げる。その後もコルネリウスは二人に対し会議の決定事項を伝えていると、美香とレティシアの二人が戻って来た。料理の並べられたトレイを両手に抱えたレティシアが、コルネリウスに声を掛ける。


「コルネリウス様、食事をお持ちしましたわ。ミカ、コルネリウス様を起こして差し上げて?」

「うん。さ、お父さん、頭を上げて下さい」


 コルネリウスの枕元に美香が歩み寄り、後頭部に手を差し入れて起き上がらせようとする。コルネリウスが再び顔を真っ赤にしながら、しどろもどろで答えた。


「ミ、ミカ、私は大丈夫だから…ぐぉぉぉぉ…!」

「ほら!また、熱が上がっている!今日はちゃんと大人しくして、お父さん!」


 コルネリウスの額に美香の手が乗せられ、コルネリウスの体温が上がる。美香と並んでベッドの傍に座ったレティシアが、シチューの入った器とスプーンを美香に手渡した。


「だいぶ熱が上がっているご様子だし、食べさせてあげた方が良さそうね。はい、ミカ」

「あ、ありがとう、レティシア。はい、お父さん、あーんして下さい」

「い、いや、待ってく…」

「…お父さん…言う事を聞かないと、『コルネリウス様』と呼びますよ?」

「…」


 シチューを湛えたスプーンと共に突き出された無慈悲な脅迫にコルネリウスは抵抗できず、オズワルドが笑いを堪えゲルダがニヤつく中、あえなく往生した。

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