224:奇妙な二人
聖者は浜辺に横になり、盛大に燃え上がる炎で体を暖めながら、戸惑っていた。
…何故、こんな事になったのだ?
聖者の傍らには一人の人族が座り、彼とともに焚火で暖を取っていた。ハヌマーンには人族の個体の区別がつかないが、体格からすると、恐らく若い雌なのだろう。そうアタリを付けた聖者の前で人族の雌が立ち上がり、焚火に背を向けたまま動きを止めた。ハヌマーンと違って人族は毛に覆われておらず、他の動物の毛皮や草葉を身に纏っていると聞いた事がある。それを乾かしているのだろう、難儀なものだな。聖者はそう推察し、動かない彼女の背中を眺める。
だが、聖者は不思議と、警戒や身の危険を感じる事なく、安らかな時間を過ごせていた。目の前で燃えさかる焚火の熱が凍り付いた聖者の体を溶かし、体を駆け巡っていた悪寒はほとんど感じられなくなっていた。濁流と雨に塗れ重く湿っていた毛も乾き、焚火から供給される熱を存分に抱え込んで、小春めいた温もりを聖者に齎した。頭痛も和らぎ、いつもの明晰な思考を取り戻した聖者は、彼女から視線を外し、自分の左足を眺める。
乾いた地面の上に投げ出された左足は、血が固まった跡が残っていたが、動かしても違和感がない。先ほどまで聖者を苛んでいた鋭い痛みは、全く感じられなくなっていた。聖者は左足首を動かしながら、当惑する。
何故、この人族の雌は、敵対しているはずのハヌマーンの私を、ここまで気遣うのだ?
遥か神話の時代、狡猾なエルフの虚言によってサーリア様を殺した犯人との濡れ衣を着せられたハヌマーンに、人族は怒りを露わにして襲い掛かって来た。それに対し、ハヌマーンはサーリア様の亡骸を奪い返し、諸悪の根源であるエルフの心臓を奪い取ってサーリア様を復活させるべく、悠久の戦いを繰り広げて来た。以来、ハヌマーンと人族が不倶戴天の敵である事は、両種族にとって周知の事実。この人族の雌も、それを知っているはずだ。なのに、何故彼女は私を殺そうとせず、それを知らないかのように振る舞うのだ?
砂の動く気配を感じ、聖者が顔を上げると、背中を乾かしていた人族の雌が前を向き、再び焚火に向かって腰を下ろしていた。彼女は下を向いて暫くの間自分の腹を擦っていたが、腰に括り付けられた筒を取り出し、中から角ばった固形物を摘まみ上げた。
彼女は口を開けて固形物を頬張ろうとしたが、聖者と目が合うと、口を開けたまま動きを止める。やがて彼女は固形物を引っ込めると、もう1本筒を取り出し、蓋を開けて筒を傾けた。2本目の筒の中から水が流れ、器と化した蓋が水で満たされる。
そして、彼女は水で満たされた器の上に先ほどの固形物と干し肉を添えると、聖者の前に置いて口を開く。
「Tabete iiyo」
聖者にそう答えると、彼女はもう1本固形物を取り出し、口に含んで噛み始めた。
「…」
聖者は、目の前で食事を始めた人族の雌を、呆然と眺めていた。何もかも予想外だった。不倶戴天の敵であるはずの人族が、ハヌマーンに対し、自分の食料を分け与えた。毒などあろうはずがない。私を殺すつもりがあれば、先ほどの弱り切っていた時に済ませれば良いのだから。彼女は、明らかに私を助けようとしている。何故?何故、そんな事をするのだ?
焚火の熱によって体が温まり、一昨日からの体調不良でまともな食事を摂れていなかった聖者の胃が鳴る。聖者は堂々巡りに陥った思考を中断し、砂浜に横になったまま、彼女に頭を下げる。
「□△×&&% 〇\ □△\\〇 %%$×△」
かたじけない。ご相伴に与ろう。
そう答えた聖者は上半身を起こし、固形物を手に取って口に含んだ。
「…」
固形物は口の中で容易に割れ、乾いた味が口の中に広がる。何かの種を粉にして焼き固めた物の様だ。馴染みのない味だが、食べられなくもない。聖者は頷き、固形物によって渇いた喉を潤すべく器に手を伸ばし、水を口に含んだ。水は痩せ衰えた聖者の体に染みわたり、食べ物は胃の中でこなれて、聖者の体に活力を与える。
聖者は先ほどまでの疑問を忘れ、人族の雌とともに久々の食事に没頭した。
「▽△%〇 \$$□× ÷〇◇ #$$○○△× %% △$&&」
馳走になった。大変、美味しかった。
やがて全てを平らげた聖者は、頭を下げて器を彼女へと押し戻す。正直、食事に餓えていた聖者には全く足りていなかったが、彼女も同じ量しか食べていないのだ。これ以上迷惑をかけるわけにも、いかぬ。聖者が頭を下げると彼女は頷き、器を持って立ち上がる。そして、湖畔に歩み寄ってしゃがみ込むと、器を湖面に浸し洗い出した。聖者は浜辺に身を横たえたまま、湖畔にしゃがみ込む彼女の後姿と、その向こう側で少しずつ明るさを増し、薄れていく霧を眺める。
彼女は、何者なのだろうか。
聖者は、彼女の後姿を眺めながら思案に沈む。未だ、僅かな時間しか彼女と関わっていない聖者だったが、彼女が敵意を持っていない事を知り、聖者も彼女を受け入れる事にした。少なくとも彼女には、一食と暖を分けて貰った恩がある。いくら不倶戴天の敵とは言え、ハヌマーンは、エルフのように恩を仇で返すような真似はしない。もし自分が再び同胞達と落ち合う事ができた時には、この雌にだけは手を出さぬよう、厳命せねば。そう心に誓う聖者の視線の先で彼女が再び聖者の傍らに座り、筒に蓋をすると、焚火越しに霧に覆われた湖を眺め始めた。
「…」
「…」
彼女は湖を眺めたまま口を噤み、聖者は彼女を眺めたまま、沈黙する。人族の美醜は分からないが、聖者の見る限り、彼女は幼いながらも目鼻立ちが整っている。この目鼻立ちで毛に覆われていれば、さぞかし男達の目を惹き付け、誘惑する事だろう。そう結論付けた聖者の前で、彼女が湖を眺めながら口を開く。
「…Nee, Goma chan」
彼女の声を聞いて品定めを止めた聖者に、彼女が顔を向ける。
「…Naze, anata tachi Hanuman ha, Chuugen ni semete kuruno?」
彼女は聖者に真っすぐな目を向け、尋ねて来た。
「…□×△▽% @@#&& ×$□ @%%$ +#$$▽◇ □◇□# \&\△#&%%〇$…?」
娘よ、私にはお主の言葉がわからぬ。お主は、何が聞きたいのだ?
彼女の言葉が理解できない聖者は、しかし彼女の質問に真摯に答えるべく、彼女の目を見て尋ね返した。その聖者の視線の先で、彼女は再び目を逸らし、焚火越しに湖を眺めながら、言葉を続ける。
「Chuugen no iitsutae deha anata, tachi Hanuman ha, エミリア no mori ga urayamashikute, semete kuru to iwareteiruno. Kedo, nanasennen mae ni エミリア no mori ga anata tachi Hanuman no te ni ochita atomo, anata tachi ha Chuugen ni semete kuru. Anata tachi no mokuteki ha nani?」
聖者の思いを知ってか知らずか、彼女は聖者の不理解を気にせず、自分の種族の言葉を並べ立てる。辛うじて「エミリア」の名だけは聞き取れたが、それ以外は全く理解できない。聖者は顔を顰め、彼女を窘めた。
「□×△▽% $$%〇□ \@&〇 ×$$◇ △*#〇%%&\□△ ×〇#%$□\\!」
娘よ、お主はもう少し、相手の事を考えて話さぬか!
聖者は、聞く方の苦労も考えずに言いたい放題並べ立てる彼女に、腹が立った。人族の風習は分からぬが、これではいくら顔が良くても、姦しくて嫁の引き取り手が居らぬぞ。聖者は彼女の将来を案じ、何とかして性根を正せないかと頭を悩ませる。だが、彼女は聖者の苦言に構わず、まるで小鳥が囀るように甲高い声で口走った。
「Nee, Goma chan. Anata tachi ha naze サーリア sama wo koroshitano?」
「□×△▽%! □×□$$% △〇*% @*×△▽$〇 ×%&&\!?」
娘!今、お主は何と申したのだ!?
突然、聖者の耳に彼女の言葉が雷の様に落ち、聖者は跳ね起きて彼女に縋りついた。
「E?Chotto Goma chan, Kyuu ni dou shitano?」
聖者の突然の行動に、彼女は驚きの表情を浮かべたが、聖者には彼女を気遣う余裕がなかった。聖者は彼女の腕を掴んだまま激しく揺さぶり、問い質す。
「□×△▽%! □×□$$% △〇*% サーリア〇$ ▽×□○○ ×%&&\!? □×□$$% ▽×○○%&& サーリア〇$!?」
娘よ!今、お主はサーリア様と申さなかったか!?お主はサーリア様を知っているのか!?
「E? Goma chan? サーリア sama ga doushitano?」
「▽〇〇$%%! サーリア〇$! □×△▽% ▽&&%! サーリア〇$ *+▽○#$□ ×\&&〇…!」
そうだ!サーリア様だ!娘よ、頼む!サーリア様が何処に御座すか、教えてくれ!我々にとって、サーリア様が全てなのだ!娘よ、頼む!この通りだ!
「Chotto Goma chan, Nani wo itte iruka wakaranaiyo…」
彼女の困惑を余所に、聖者は彼女の腕を掴んだまま頭を下げ、戦慄くように懇願する。思いもよらぬところで飛び込んで来たサーリア様の消息に聖者は狼狽し、不倶戴天の敵であるはずの人族の雌に対し、臆面もなく懇願を繰り返した。
「□×△▽% ▽&&%! ▽%%&& \$%%〇*…」
娘よ、頼む!この通りだ…。
***
ハヌマーンの突然の変貌に、美香は驚きの声を上げた。
先ほどまで瀕死の状態だったハヌマーンは、焚火で暖を取り食事を摂った事で、大分持ち直した。彼は華奢な身を横たえ、焚火が発する熱を存分に浴びながら、美香の呟きを聞いている。美香が問い掛けると彼は何かを口走ったが、ハヌマーンの言葉は当然理解できない。仕方がないので話を続けたが、話の途中で舌打ちの音が聞こえた。ゴマフアザラシに舌打ちされた。美香は何気にショックを受けながら、彼に質問を続ける。
「ねえ、ゴマちゃん。あなた達は何故、サーリア様を殺したの?」
その途端、ハヌマーンが飛び起き、美香の腕を掴んで激しく揺さぶった。
「□×△▽%! □×□$$% △〇*% @*×△▽$〇 ×%&&\!?」
「え?ちょっと、ゴマちゃん、急にどうしたの?」
突然の変貌に美香は驚き、ハヌマーンの顔を見て尋ねる。短い時間ではあったが、彼が少なくとも美香に対して害意を持っていない事に気づいていた美香は、突然の変貌にも恐れる事なく、何を伝えたいのか、彼の表情を窺う。
「□×△▽%! □×□$$% △〇*% サーリア〇$ ▽×□○○ ×%&&\!? □×□$$% ▽×○○%&& サーリア〇$!?」
毛に覆われたハヌマーンの表情は非常にわかりづらかったが、彼は目を見開いて涙を浮かべ、口を大きく開けて戦慄いていた。その表情は、泣いているのか、驚いているのか、何かを頼もうとしているのか。美香は、ハヌマーンが初めて見せる表情に困惑しながらも、彼の発した言葉で唯一理解できた単語を擬える。
「え?ゴマちゃん、サーリア様がどうしたの?」
「▽〇〇$%%! サーリア〇$! □×△▽% ▽&&%! サーリア〇$ *+▽○#$□ ×\&&〇…!」
美香の問いに、彼は大きく頷き、美香の腕を揺さぶりながら、目を真っすぐ見て大声を繰り返す。やがて彼は顔を伏せて頭を上下に振り、美香に向かって平身低頭を繰り返した。
「ちょっと、ゴマちゃん。何を言っているか、わからないよ…」
「□×△▽% ▽&&%! ▽%%&& \$%%〇*…」
美香の困惑を余所に、彼は美香の腕を掴んだまま、懇願するかのように頭を下げ続ける。サーリア様を殺してしまった事を、そんなに悔やんでいるのだろうか?ならば、彼らは何故、中原に攻めて来るのだろうか?
一つ分かった事は、ハヌマーンはサーリアに対し、敵意とは異なる特別な感情を抱いている。だが、その何かが、分からない。すれ違いを繰り返す言葉に挫折した美香は溜息をつき、取り乱した様にも見える彼を落ち着かせようとする。
「ミカ!」
彼に声を掛けようとした美香の耳に、草を掻き分ける音と、第三者の声が聞こえて来た。




