223:邂逅
「…ぶへぇっくしょぉい!…うう、寒ぅ」
乙女の恥じらいの欠片もない盛大なくしゃみの音で目を覚ました美香は、体に纏わりつく不快な水の冷たさに身を震わせる。左の頬には湖岸の湿った砂がびっしりと貼り付き、腰から下は水に浸かり、打ち寄せる波の感触が下着の中まで押し寄せてくる。
「うえぇぇぇ…びちゃびちゃで気持ち悪い…」
水を含み、べったりと肌に張り付いた衣服に辟易しながら、美香は地面に手をついて身を起こす。水に浸かった足を引き上げると、そのまま湖岸に座り込み、髪の毛の間から砂粒を掻き落としながら。周囲を見渡した。
そこは、恐らくはリーデンドルフ湖畔の奥まった小さな入り江にある、砂浜だった。周囲は鬱蒼とした木々に囲われており、その中に食い込んだ入り江を三日月状に取り囲むように砂浜ができている。湖は濁ってはいるものの波は穏やかで、2日間続いた雨も止んでいる。ただ、辺りには白く濃い霧が立ち込めており、湖の対岸は窺い知る事ができなかった。
周囲には静寂が漂い、鳥の囀りも聞こえない。早朝ってトコかな?美香はそう考えながら手足を動かし、体の様子を確認する。うん、意外と大丈夫かも。左足がちょっと痛いだけかな?美香は左足を覗き込み、ふくらはぎに比較的大きな裂傷を見つけた。
恐らくは昨日の事だろう、美香は自分の最後の記憶を思い出して安堵する。突然のハヌマーンの襲撃を受け、崖下を流れる濁流に呑みこまれた美香はそのまま気を失ったのだが、それで左足の傷だけで済んだのであれば、僥倖と言えるだろう。全身水浸しだが、今のところはまだ寒気もない。早いトコ乾かせば、何とかなりそうだ。美香は頷き、立ち上がろうとするが、ふと右側を見て顔を顰めた。
「うえぇぇぇ。ちょっと、これは勘弁」
美香の右側には、1頭のハヌマーンが打ち上げられていた。恐らくは2mを越えるであろう巨体は、うつ伏せで両足を浜辺に投げ出し、胸から上が湖面に半分沈んでいる。土左衛門の隣では、ゆっくりできない。美香は死体から顔を背けるように左を向き、森と湖の境目を縫うように走る狭い草むらを見つけた。あそこから向こう側に行けるかな?多分あっちが北だろうし。東岸に切り立った崖が連なる湖を思い浮かべ、此処が西岸と判断した美香は立ち上がり、左足を庇いながら砂浜を後にした。
***
顎が自分の意思に反して小刻みに振動を続け、歯がけたたましく鳴り響く。体は灼熱のように熱く、それでいて体のあちらこちらを悪寒が走り回る。側頭部を槌で繰り返し殴りつけられるような鈍痛を覚え、左足に鋭い痛みが走る。
寒い…寒い…。
聖者はずぶ濡れになった自らの体を拭う事もできず、両足を未だ湖に浸したまま砂浜に横たえた身を縮こませ、震え続ける。いつもであれば彼の異常に気づき、自らの身を寄せて体温を分け与えてくれる供回りの者達は、誰一人としていない。虚弱な彼は、何一つ、自分ではできなかった。彼は「ロザリア」との戦いで精根を使い果たし、連日の雨で身を削られ、激しい濁流に呑みこまれ体力を奪われた。そうして浜辺に一人打ち棄てられた彼は最早何もできず、やがて押し寄せて来るであろう、緩慢な死を待つ他になかった。聖者は熱と痛みにうなされ、悪寒に身を震わせながら、サーリアに詫び続ける。
サーリア様…申し訳ありませぬ…事成らずしてあなた様の御霊の許に参る私を、お許し下さい…。
砂浜に蹲ったまま詫び続ける彼の霞む視界の中で、砂浜の隅に生える草むらが揺れ動いた。
***
…あれ?何か居る?
草むらを掻き分けて隣の砂浜へと足を踏み入れた美香は、砂浜の真ん中で丸くなった白い毛玉を見つけ、首を傾げた。
砂浜は、美香が打ち上げられた所とそれほど大差のない大きさだった。周囲は鬱蒼とした森に覆われ、その中に草むらに縁どられた砂浜が広がっている。砂浜には、多数の流木が打ち上げられていたが、その中に一つだけ、真っ白な毛玉が見えた。美香は深く考えもせず毛玉に近づき、そしてその正体を知って、驚きの声を上げた。
「…あっ!アルビノのハヌマーンだ」
浜辺に蹲っていたのは、真っ白な毛に覆われ、真っ赤な瞳を持つ、先天性色素欠乏症のハヌマーンだった。身長で言えば美香と同程度だろうか、アルビノのハヌマーンは、他のハヌマーンと比べてかなり小柄で華奢な体格だった。
アルビノのハヌマーンは、美香の姿を認めた後も体を動かそうとせず、浜辺に打ち上げられた姿のまま体を縮こませてブルブルと震えている。まるで胎児のように蹲る姿を見て、美香は思う。
何か、ゴマフアザラシみたい。
昔、動画で見た真っ白なゴマフアザラシの赤ちゃんを思い出す。全身を毛で覆われたハヌマーンは、顔も毛で覆われており、目も思ったより丸く、くりっとしていた。
こうして見ると、顔だけ見れば猿よりもアザラシっぽいな。可愛…くはないな。アザラシやダックスフンドみたいに手足が短くないせいかな?
美香は眉を顰め、脳内に湧き出た筋骨隆々の手足を持つ二足歩行のゴマフアザラシとダックスフンドを打ち消すと、自分より小さく、蹲ったままブルブル震えているハヌマーンに対し、アルビノの物珍しさも手伝って、無警戒に近づく。そして、
「…くしゅん!」
「□$$%!」
二人揃って、盛大なくしゃみをした。
「…」
「…」
美香は鼻の下を擦りながら、ハヌマーンは蹲って身を震わせながら、お互いの顔を見つめている。やがて美香は視線を外し、ずぶ濡れになった自分の袖を眺めて呟いた。
「…まあ、いいか。どうせ、私も体を温めないといけないし」
そう呟くと、美香は湖岸に打ち上げられた流木を引き摺って集め、昔のキャンプファイアの記憶を頼りに、井桁状に組み上げていく。ハヌマーンが寒さに震えながら見つめる傍ら、美香は両手を腰に当てて積み上がった流木を眺める。
「…ちょっと湿りすぎだけど、ジャベリンならいけるかな?」
流木はどれも、昨日までの雨と濁流によって水を含み、重く湿っていた。美香は顔の前に両手を翳し、詠唱を開始する。
「汝に命ずる。青く輝く炎の槍となり、我に従え。空を割く線条となり、彼の者を貫け」
脳筋よろしく、「火を極めし者」まで用いて最大火力で放たれた青炎の槍は、井桁に付着して少しの間白い湯気を上げていたが、突如盛大な炎を噴き上げる。過剰な火力の前に井桁が崩れ、流木が爆ぜて火の粉が舞った。
「だぁぁぁぁぁ!火力強すぎた…」
身の丈にも届く火柱を前に美香は顔を引きつらせながら地面に腰を下ろそうとするが、左足に鋭い痛みが走る。
「痛っ…」
左ふくらはぎを見ると、動き回ったせいか、血が流れ出していた。傷、大丈夫かな。美香は少しの間傷口を眺めていたが、ある事を思い出して両手を打ち鳴らす。
「…あ、今は全魔法使えるんだっけ。忘れてた。…汝に命ずる。我に生の息吹を与え、安らぎと癒しを齎せ」
美香が傷口に手を翳し、治癒魔法を詠唱すると、傷口が淡く輝き、少しずつ傷が塞がっていく。やがて、出血が止まった事を認めた美香は魔法を切り、大きく一息つくと、未だ湖岸に蹲ったままのハヌマーンに向かって手招きをした。
「ゴマちゃん、おいで。こっちに来て、暖まりなよ」
勝手に「ゴマちゃん」呼ばわりされたハヌマーンは、それでも少しの間美香の様子を窺っていたが、やがて両手を使って焚火の傍に這い寄ろうとする。だが、ハヌマーンは突然顔を顰め、呻き声を上げた。
「□##〇% &\\!」
「え?どうしたの?」
美香が立ち上がってハヌマーンの傍らにしゃがみ込むと、真っ白な毛に覆われたハヌマーンの左足が赤く染まっていた。それを見た美香は、自分だけ治癒してしまっている事に引け目を感じ、頬を指で掻きながら呟く。
「…もう、いいか。毒を食らわば皿までだ。…汝に命ずる。彼の者に生の息吹を与え、安らぎと癒しを齎せ」
美香の詠唱に応じ、ハヌマーンの左足が淡く輝く。ハヌマーンは驚いたような表情を浮かべていたが、美香の行動を妨げる様子はなく、淡く輝く自分の左足を眺めている。
やがて、美香は魔法を切り、しゃがみ込んだままハヌマーンの顔を見て尋ねた。
「…どう?これで、大丈夫?」
「…□△×&&% 〇\」
意図が通じたのだろうか、ハヌマーンは横たわったまま左足を振り、美香の顔を見て頷く。美香は安堵の笑みを浮かべ、立ち上がりながらハヌマーンを誘う。
「よし。じゃ、焚火で暖まろうか」
そして、美香はハヌマーンの答えを待たずして焚火へと歩き出し、ハヌマーンは美香の後を追い、浜辺を這いずって行った。




