187:訣別
中原暦6626年、ガリエルの第5月。エーデルシュタイン王国の北辺の要ハーデンブルグの当主、フリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアーは、応接室のソファに腰を下ろし、腕を組んだままじっと目を閉じていた。
フリッツの右には妻アデーレが座り、左にはアデーレと向かい合う形で長子マティアスが腰を下ろしている。三人はテーブルを取り囲むように座ったまま一言も喋らず、目を閉じてじっとその時が来るのを待っていた。
応接室の扉が控えめにノックされ、フリッツが目を開いて応える。
「どうぞ」
「失礼します。フ…お父さん、お呼びでしょうか」
扉が開き、最初にレティシアが入室すると、後ろを向いて手を差し伸べる。美香は、そのレティシアの手を取りながら、杖をついて応接室へと足を踏み入れた。
フリッツ、アデーレ、マティアスの三人は目を開き、美香がソファへと足を運ぶのを静かに待つ。美香は右足を若干引き摺り、右手で杖をつきながらゆっくりとソファへと向かう。やがて、美香がフリッツと向かい合う形でソファに腰を下ろし、一息ついたのを見届けると、フリッツはソファに座り直し、姿勢を正す。美香がソファに座るのを介添えしていたレティシアも、アデーレの隣に座った。
「ミカ、すまんな。わざわざ来てもらって」
「いいえ、気にしないで下さい、お父さん。とにかく歩き回らないと、元に戻りませんから」
フリッツの気遣いの言葉に、美香は若干照れながら答える。あの時からフリッツに押し切られる形で「父」と呼ぶようになった美香だったが、未だこそばゆさが抜けなかった。フリッツに代わり、アデーレが尋ねる。
「それで、ミカさん。あとどのくらいで、杖を手放せそう?」
「ニコラウスさんの見立てでは、1週間もかからないだろうとの事です、お母さん。…もっとも、その後も駆け足とか練習しないとですけど」
「そう…でも、もう少しの辛抱ね」
「はい」
答えを聞いたアデーレが肩の力を抜いて息を吐き、美香は笑みを浮かべる。そして、気を引き締めると向かいに座るフリッツに顔を向け、口を開いた。
「それで、お父さん。ご用件は何でしょうか?」
「ああ…」
美香の視線を受けたフリッツは珍しく目を逸らし、少しの間、腕を組んでテーブルの上を見つめる。そして彼は小さく鼻で息を吐くと、美香の目を見て静かに尋ねた。
「ミカ、細かい事情は一切考えなくていい。率直に教えてくれ。…君は、お妃様になりたいか?」
「…え?」
フリッツから放たれた予想外の質問に、美香は目を瞬かせ、思わずマティアス、アデーレ、レティシアの順に目を向ける。その誰もが美香に真剣な眼差しを向けているのを認めた美香は、再びフリッツの方を向き、口を開く。
「…えっと、それはどういう…」
フリッツの目を見たまま動きを止める美香を見て、フリッツは内心に湧き上がる想いに蓋をして、静かに答える。
「…ヴェルツブルグから連絡が来た。クリストフ王太子が、君の事をお妃に迎えたいと言っている。ミカ、君はこの国のお妃になりたいと思うか?」
「…え…」
フリッツの言葉を聞いても美香は理解が追い付かず、フリッツの顔を見たまま動きを止める。やがて再び彼女は口を開いたが、フリッツの求める答えは得られない。
「…クリストフ王太子って…あの、クリストフ殿下ですか…?」
「ああ」
「…何故、殿下が、わざわざ私を?」
「…」
美香の問いにフリッツは答えず、ただじっと美香の顔を見つめている。美香はフリッツの視線から逃れるように下を向き、テーブルの木目を眺める。アデーレとレティシアが沈痛な面持ちで見つめているのにも気づかず、美香の頭の中は困惑に満たされていた。
な、何でクリストフ殿下が、私を?
美香は当惑の表情を浮かべながら、2年半前の事を思い出す。この世界に召喚されてまだ間もない頃、美香は王城の一廓を借りてこの世界の様々な事柄を学んでいたが、もっとも親しい関係にあった王族は、当時王太子の地位にあったリヒャルトだった。彼は王太子の地位を嵩にも懸けず美香に気さくに話しかけ、身一つでこの世界に放り込まれた美香が何ら不自由を覚えないよう気を配り、手を差し伸べてくれた。美香はそのリヒャルトの厚情に感謝し、恩義の念を抱いていた。
しかし、その一方で同じ王族であるクリストフとの間には、美香は全くと言っていいほど、関りを持つ事がなかった。クリストフとの面会は、僅かに2回。召喚直後のヘンリック2世との謁見と、その後の晩餐会だけである。美香は、晩餐会の時のクリストフの姿を思い出す。
晩餐会の時のクリストフは、美香と柊也に対し、冷たい視線を放っていた。その振る舞いは洗練されており、美香への接し方も貴族令嬢へのそれと同様で礼儀に適ったものだったが、その所作には心が籠っておらず、社交辞令の域を超えていなかった。彼の視線は美香と柊也を観察し、如何にこの世界に役立てるかの計算に満たされたものであり、未だ成年に至っていなかった美香でさえ居心地の悪さを感じるものであった。
そのクリストフが、2年半もの空白期間を経て、求婚してきたというのだ。その間、一度の接点もなく、手紙の一つもなかった間柄であるのにも関わらず、妃に迎えようとしている。
この求婚を受ければ、美香はヴェルツブルグに向かう事になる。この世界の、第二の故郷とも言えるハーデンブルグを離れ、ヴェルツブルグへと向かう事になる。大好きなレティシアやオズワルドと別れ、父と母と呼ぶようになったフリッツやアデーレとも袂を分かち、リヒャルトも居なくなって誰一人親しい人の居ないヴェルツブルグの王城で見知らぬ人々に傅かれ、冷たい視線を放つ夫とともに煌びやかな玉座に縛られる。王太子妃として王城に閉じ込められ、気ままに外出する事も叶わない。そもそも、あのクリストフが自分を愛しているとは、到底思えない。
「…あの…この縁談、お断りできませんか?」
やがて美香はテーブルの木目から視線を剥がし、しかしフリッツと視線を合わせようとせず、フリッツの胸元を見つめながら躊躇いがちに口を開く。
「…王太子様に求婚されるなんて、勿論光栄な事だと思っていますが、でも、クリストフ殿下とはほとんど面識がありませんし…お人柄もご存じありませんし…ハーデンブルグを離れ、親しい人も居ないヴェルツブルグに嫁ぎたいとはどうしても思えなくて…、いえ!身に余る光栄な事だとは思います!…だけど…」
王太子からの求婚を断る事なんて、できるのだろうか?
どうしてもクリストフとの結婚を受け入れられない美香は、不安を抱えたままフリッツの胸元を眺め、様子を窺う。しかし、美香にとって意外な事に、フリッツはあっさりと首肯した。
「わかった」
「…え?」
美香が思わず顔を上げると、フリッツは腕を組んだまま、美香に向かって頼もしく頷く。
「殿下には、私からしっかりとお断り申し上げておく。ミカ、そんなに肩肘を張らなくていい。嫌な事は嫌と、はっきり言って構わないからな」
「そうよ、ミカさん。後の事は、私達に任せて。あなたはまず、体をしっかりと治さないとね」
アデーレは美香に向かってウインクすると、レティシアの方を向いて頷く。
「悪かったわね、リハビリの邪魔をして。レティシア、もういいわよ。ミカさんをよろしく頼むわね」
「わかりましたわ、お母様。さ、ミカ、行こうか」
「う、うん。お父さん、それではよろしくお願いします」
「ああ、任せておけ」
美香は、レティシアの介助を受けてソファから立ち上がると、深々とお辞儀する。それに対しフリッツは腕を組んだまま剛毅な笑みを浮かべ、アデーレがにこやかに手を振った。
「さ、ミカ。今度は3階まで階段の上り下りね」
「えぇぇぇ!?もう3階!?」
「文句を言わないの!」
一安心して気の緩んだ美香がレティシアの言葉を聞いて泣き言を言い、レティシアが美香のお尻を引っぱたきながら、応接室を出て行く。途中、レティシアはもう一度後ろを振り向き、部屋の中に残る三人に一つ頷くと扉を閉め、部屋を出て行った。
部屋に残された三人は扉を見つめ、やがてフリッツが口を開く。
「アデーレ」
「はい、あなた」
アデーレの応えに、フリッツが覚悟を決めた眼を向ける。
「…国を傾けた反逆者の汚名、甘んじて受けてもらうぞ?」
「ええ、喜んで」
フリッツの問いに、アデーレは間髪入れず微笑み首肯する。フリッツは左を向き、マティアスの顔を見て言葉を続ける。
「マティアス、お前達は好きにしろ。レティシアとともにミカを支えても良し、我々が斃れた後、この街の建て直しに奔走するのも良い。いずれにせよ、この街から一旦去れ」
「いえ、私とデボラは、父上とともに」
マティアスはフリッツの目を見てしっかりと頷き、直後に笑みを浮かべる。
「ミカ殿も、小姑が二人も居ては、煙たくて仕方ないでしょう。本音を言えば、デボラにはミカ殿について行ってもらいたいところですが、アレも意外に強情でして」
「そうか」
マティアスの言葉にフリッツは頷き、厳かに宣言する。
「マティアス。第1から第4の各大隊長と、ゲルダ、ニコラウスを召集しろ。――― 当家は、王家と訣別する」