184:帰還(1)
「しまったぁぁぁぁぁぁぁっ!寝過ごしたぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「…五月蝿いぞ、コレット。もう少し静かにしないか」
コレットが突然大声を上げて勢いよく身を起こし、安眠を妨げられたミゲルが背中を向けたまま不平を漏らす。二人はお互い一糸まとわぬ姿で寄り添い、同じ毛布に包まって眠っていた。
コレットが窓の外に目を向けると、換気のために少しだけ開いた雨戸の隙間から薄い紺色に彩られた森が見え、早起きな小鳥達の囀りが聞こえて来る。
マ、マズい。せめてリアナが目を覚ます前に、家に戻らないと…。
脳裏に漂う微睡みやら体内に残る余韻やらが血の気と共に引き、コレットは身支度を整えるためベッドから降りようとする。しかし、そのコレットの腕をミゲルが掴んで強く引き、コレットはあえなくベッドへと連れ戻された。
「ちょ、ちょっとミゲル、手を離しておくれよ。早く家に戻らないと…」
「…もう一回」
「へ!?…ちょ、ちょっと待って、ミゲ…んむぅ!?」
ミゲルの言葉を聞いたコレットは慌てて翻意を促そうとするが、ミゲルはコレットを引き寄せ、その口を塞ぐ。そのミゲルの猛々しさの前に抵抗するコレットの力が抜け、やがてコレットはミゲルの背中に手を回し、二人は再び一つに絡み合っていった。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
ヤ、ヤバい。は、早く家に戻らないと。
すでに紺から白へと様変わりした早朝の森の中を、一人の人族の女性が駆け抜けていた。彼女は男の誘惑に負けて貴重な時間と体力を浪費した事を後悔しながら、ともすれば砕け落ちかねない腰を叱咤し、熱を帯び力の入らない体に鞭を打って家路へと急ぐ。
やがて彼女は自分の住む家の前へと辿り着くと、入口の前で膝に手をつき、肩で息をして呼吸を整える。そして、一つ大きく深呼吸をすると静かに入口の扉を開け、中へと忍び込んだ。
「…」
彼女は、まるで敵陣に侵入した間者の様に息を殺し、勝手知ったる家の中を音ひとつ立てずに進んでいく。食卓の脇を抜けて廊下へと進んだ彼女は、左手にある扉の前に立つともう一度静かに深呼吸し、扉に手をかけた。
「…」
扉が小さな軋みを上げ、ゆっくりと開かれる。彼女が部屋の中を覗き込むと、部屋の中央に二つ並ぶベッドの片方の毛布が、大きな山並みを描いていた。それを見た彼女は安堵の息をつくと、扉を開け、静かに部屋の中へと足を踏み入れる。
「お姉様」
「ひぃ!」
突然、彼女は背後から声をかけられ、小さな悲鳴を上げてその場に直立する。彼女が、動悸の激しい、硬直して言う事を利かない体を無理矢理動かし後ろを向くと、閉まりつつある部屋の扉の陰から、見目麗しいエルフの女性が姿を現わした。
「お早うございます、お姉様。随分とお早いお戻りでございますね?」
「…おおおおお、お早う、リアナ…」
扉の陰から姿を現わしたリアナは静かにコレットへと詰め寄り、コレットは瞬く間にベッド脇へと追い詰められる。
「お姉様、昨晩のお使いは、どちらまで?」
「えぇぇ、ええと…」
リアナの形の整った、切れ長の目から放たれる視線に縫い付けられ、コレットは顔を背ける事もできないまま、曖昧な言葉を繰り返す。するとリアナは手を伸ばしてコレットをベッドに押し倒し、馬乗りになってコレットの首元に顔を寄せた。
「…ミゲル様の匂いがする…」
「ごごご、ごめんなさい…」
首元から発せられた呟きにコレットが怯え、身を震わせる。そんなコレットの姿をリアナは馬乗りになったまま、目を細めて見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「…そんなに怯えないで下さい、お姉様。昨日も話したではないですか。お姉様とミゲル様との間を裂きたいわけではない、と」
「…リ、アナ…?」
コレットが恐る恐る目を開けると、リアナは細めていた目を緩め、優しく答える。
「私は、お姉様のありのままの姿を愛していくと、サーリア様に誓いました。それは、ミゲル様をお慕いする、その御心を含めての事です。ですから、お姉様、どうかご自身のお気持ちに蓋をなさらないで下さい」
「…あ…ありがとう、リアナ…」
リアナの言葉を聞いたコレットが緊張を解き、鼻を啜って礼を述べる。リアナは、ベッドに仰向けになったコレットの姿に慈しみの笑みを浮かべて一つ頷くと、一転して妖艶な笑みを浮かべた。
「…ただし!二人の愛の巣に他人の匂いを持ち込む不届き者には、お仕置きが必要です。お姉様、当然、私の言う事を聞いてくれますよね?」
「え!?ままま、待って!これ以上は、もう…んんんっ!」
コレットは弁明する間もなくリアナに唇を塞がれ、二人は光が射し込み喧騒を取り戻しつつある森の中で、染みついた匂いの書き換えに勤しんでいった。
「ふーんふふーん、ふーん、ふーん…」
「…」
台所に立ち、リズミカルに体を揺らすリアナの後姿を、コレットはテーブルの上に魂の抜けた頭を乗せたまま、ぼんやりと眺めていた。すでに彼女は体力を使い果たし、今日一日使い物になりそうにない。
…ヤ、ヤバい。何がヤバいって、早くもこの生活に順応しつつある自分が、一番ヤバい。
「「お早うございます…」」
「お早う、双子ちゃん」
「…お早う、モニカ、エリカ」
思考の回らない頭の中、自己の並外れた順応力を呪うコレットの背後から双子の声が聞こえ、コレットはテーブルに頭を乗せてリアナの方を向いたまま、虚ろな声で挨拶を返す。モニカは向こうを向いたままのコレットに近寄ると、手で衝立を立て、耳元に顔を寄せる。
「…あの、コレットさん…」
「んー?何だい、モニカ?」
「…できれば、もう少し小さな声でシてくれると、助かります…」
「…」
コレットの顔がみるみる赤くなり、リアナの方を向いたまま、動かなくなった。
***
「…で、何でこんなに間が空くんだ?」
「トウヤ、君は一体、何を言っているんだ?」
疾走するボクサーの中で、後部座席に座る柊也が独り言を呟き、隣に座るシモンが窘める。
「エミリア様の御座所から大草原まで、ざっと見ても9,000キルドくらいあるんだ。いくらボクサーで速く移動できるとしても、この道なき道を進む以上、4ヶ月近くかかっても仕方ないだろう?」
「いや、それはわかっているんだけどさ。予定では5話くらいで済ませるつもりがこんなに話が膨らんで、これじゃボリュームが本編とほとんど変わらないじゃないか」
「だから、5話とか本編とか、君は何を言っているんだ?」
要領を得ない柊也の言葉にシモンが眉を顰める中、柊也は身を起こし左手で頭を掻きまわす。操縦席からセレーネの声が聞こえて来た。
「それで、どうしますか、トウヤさん?もうすぐ大草原に入りますけど」
「ああ、もういいよ、セレーネ。面倒だから、このまま行ってしまおう」
「あ、はい、わかりました」
セレーネの問いに柊也はあっさりと答え、ボクサーはなだらかな大地を疾走する。これまで柊也は、右腕の力をシモンとセレーネ以外には明かさず、秘匿し続けてきた。しかし、今やエルフは柊也の味方であり、その一本気すぎる気質と柊也に向ける崇拝の目は、信頼に値する。サーリアのメインシステムで起きた戦いと、その後の熱気球での脱出によってこの世界の物資を全損し、ハヌマーンに服を破かれたセレーネの着替えがない以上、右腕の力を秘匿したまま大草原に帰還する事は、土台無理な話だった。シモンが、柊也に質問する。
「それでトウヤ、この後はどういう予定なんだい?」
「とりあえず、ティグリの森で暫くの間ゆっくりしよう。その後、セント=ヌーヴェルから中原へと戻り、ハーデンブルグへ向かう」
「君と一緒に召喚された女性の許へ、か?」
「ああ」
シモンの心に小さなささくれが立った事に気づかないまま、柊也は質問に答える。美香を連れてヴェルツブルグへと赴き、ロザリアから真相を聞く。柊也は、そこで初めて、この世界で自分達がどう生きていくか決める事ができると考えていた。シモンが傷の痛みに蓋をして、柊也の方針に懸念を表明する。
「だが、どうやってハーデンブルグまで向かうんだ?確かにグラシアノ殿との定期連絡で、エルフと中原との間に和平が成立したと聞いた。それでも両者の緊張は残っているだろうから、セレーネを伴って中原を横断するのは楽ではないし、我々はカラディナとエーデルシュタインに対し、脛に傷を持っている。何事もなくハーデンブルグまで行けるとは思えないのだが…」
「いや、手はあるさ」
「…え?」
シモンの懸念に柊也はあっさり答え、顎に手を当てて考え込んでいたシモンは、思わず目を瞬かせる。
「あの回廊を進めばいい」
「また回廊ぉ!?トウヤ、あれだけヘルハウンドに苦労したのに、また懲りもせず通るだなんて、君は一体何を…」
「今は、コレがあるじゃないか」
「…あ…」
柊也の答えに思わず声を上げたシモンだったが、柊也が真上を指差すと固まり、やがて得心する。柊也は指を下ろし、座席に背を預けた。
「ボクサーで回廊を東進し、ラディナ湖の西岸まで向かう。ハーデンブルグにはガリエル側からは入れないだろうから、そこでボートを出してラディナ湖を横断するのが、一番楽だろうな」
「トウヤ…、君は無茶苦茶だな…」
常識に囚われない柊也の見解に、シモンは呆れたように溜息をつく。
三人を乗せたボクサーは、懐かしい大草原へと差し掛かっていた。