181:全てに背を向けて
「…リアナが、…私に…?」
コレットは、空になった木製の皿を受け取りながら、力のない顔を向けた。ミゲルは、コレットの顔に浮かぶ、縋る様な表情に心を揺さぶられる。
「ああ。お前と少しだけ話をする事に、同意してくれたよ。今、彼女は気を落ち着かせている。俺が合図をしたら、こちらに来てくれ」
「…」
ミゲルの言葉を受けコレットは頷くものの、その瞳には異なる思いの光が宿っている。その光に中てられ、ミゲルは耐えきれずに白状する。
「…俺が頼み込んだ。俺には、我慢できなかった。お前が何ら弁明もせず、謂れなき罪を背負い、彼女へ謝罪を繰り返す事に。モニカとエリカが全幅の信頼を寄せ、誓いを立てるほど慕われているお前が、何ら理解されないまま拒絶されている事に。…何よりも、この俺が我慢できなかったんだ…」
「…ミゲル…」
コレットはミゲルの名を呼ぶと、項垂れるミゲルに手を伸ばし、その手を取って自分の胸元へと引き寄せる。そして、恐る恐る顔を上げたミゲルの前で弱々しい笑みを浮かべ、目を閉じて手の甲に頬ずりを繰り返した。
「…ありがとう、ミゲル。そこまで私の事を想ってくれて。こんな素敵な旦那様を持てて、私は幸せだよ」
***
馬車から降りたリアナは、辺りを漂う懐かしい草原の匂いに、頭から毛布を被ったまま、思わず顔を上げた。
辺りには低木や木々が疎らに点在し、未だ大草原に入り切ったとは言い難かったが、北から流れる淡い風が大草原の空気を運び、リアナの身に染みついたおぞましい中原の臭いを剥ぎ取っていく。リアナは頭を覆っていた毛布を取り、身を包んでいた毛布をマントの様に広げると、目を閉じて北から流れ込んでくる心地良い空気を一心不乱に吸い込み、その身に取り込んでいった。
刹那の間、故郷の空気を存分に味わっていたリアナだったが、やがて彼女の許に近づいて来る足音を聞くと毛布を閉じ、身を固める。深層で蠢く恐怖に蓋をしてリアナが目を開けると、前方から一人の人族の女がゆっくりと近づいていた。
女は、馬車を牽く馬の脇を過ぎても歩みを止めなかったが、蓋から顔を覗かせた恐怖に負けてリアナが後ずさりすると即座に足を止め、その場に佇む。女は俯いたまま、リアナと視線を合わせないように少しずつ顔を上げていったが、前髪の間から女の顔が見えた途端、リアナは体が竦み仰け反ってしまう。それを見た女は、寂しそうに笑う。
「…ゴメンね、怖がらせてしまって…こうした方が、話しやすそうだね…」
女はそう答えると、その場で後ろを向いてリアナに背中を向け、そのまま膝をついて地面の上に正座した。
女の無防備な背中を見てもリアナの身に巣食う恐怖は拭えず、リアナは身を硬くし、立ったままじっと見つめている。そのリアナの怯えを背中越しに感じ取った女は、リアナに背を向けたまま、口を開いた。
「…私、ラ・セリエのコレットは、リアナを傷つける事があれば即座に自害する事を、サーリア様に誓います」
「…え…!?」
コレットの誓いの言葉を聞いたリアナは、その意味を知って息を呑む。サーリアの誓い。エルフにとって、命を賭けて守るべき神聖な誓い。その言葉の重みを知り尽くしているリアナは、誓いに籠められたコレットの想いを受け止め、その一言は恐怖と嫌悪と種族の垣根を飛び越え、リアナの心へと届く。
「…リアナ。私と話をする時間をくれて、本当にありがとう。私の名は、コレット。元はカラディナにある、ラ・セリエという街に住むハンターだ」
リアナの前に座るコレットが語り始め、それまで誓いの言葉に気を取られていたリアナは我に返り、コレットの背中に目を向ける。コレットはリアナの返事を待たずに言葉を続け、コレットの綺麗に切り揃えられた髪と、起伏に富んだ綺麗な曲線を描く背中が、言葉とともに揺れ動いた。
「私達はロザリア教の宣言に従い、西誅と呼ばれる戦争に従軍したんだ。そこでは、セント=ヌーヴェルとエルフはガリエルに唆された裏切り者と断罪され、老若男女問わず誅伐の対象となった」
「…」
「西誅軍は、セント=ヌーヴェルとエルフに対し、正義の名の下、暴虐の限りを尽くした。セント=ヌーヴェルでは、兵士達は逃げ惑う人々を背中から斬り、欲望の赴くままに金品をせしめ、女子供を暴行して回った。私は女として男どもの醜い姿に吐き気を覚えたが、それを押し留める力もなく、その愚行に同調せず、耳を塞ぐ事しかできなかった…」
背中を向けたまま話を続けるコレットの言葉から段々と力が無くなり、声が小さくなる。
「そして、西誅軍はモノへと襲い掛かり、あなた方から全てを奪った。愛する家族を奪い、思い出深い故郷を踏みにじり、女性達に癒えようのない傷を負わせた…」
「…私は、その中で…何も、しなかったんだ…」
背中を向けたコレットの頭が下がり、縮こまった肩が小さく震え出す。
「…私は、あなた方の故郷が蹂躙される間、何もしなかったんだ。欲望を丸出しにしてあなた方に襲い掛かる男どもを制止しようともせず、あなた方が逃げ惑うのを助けようともしなかった。私が藪に隠れるモニカとエリカを見つけた時も、手を差し伸べる事もなく、逃げる先を指し示す事もなく、ただ見なかった事にして、その場を離れただけなんだ。彼女達が他の誰かに見つかった時の事も考えずに、そのままにして置いて来たんだ。私はただ単に目を瞑り、耳を塞いで、嵐が過ぎ去るのを待つように、その場に蹲っていただけなんだ…」
「…」
コレットの頭が背中の向こう側へと隠れ、鼻を啜る音が聞こえる。
「…なのに、あの娘達は、命を賭けて私を助けたんだよ!」
「…私がミゲルに襲われ、その剣で心臓を貫かれそうになった時、あの娘達は身を挺して私を庇い、私を助けたんだよ!ただ私は、目の前で醜悪なものを見たくなかっただけで、西誅軍の前に立ち塞がろうともせず、目を瞑り、耳を塞いでいただけなのに!あの娘達は、私のために同胞の剣の前に身を投げ出し、サーリアの誓いまで立てて、私の命を救ってくれた!何もしてない!私は、何もしてないのに…!あの娘達は…!」
告白を聞いたミゲルが固く拳を握りしめ身を震わせる中で、コレットはリアナに背を向け、地面に深々と頭をつけたまま、動かない。贖罪と悔悟を纏った身を縮め、嗚咽を上げながら震え続ける。
「…モニカ…エリカ…、私は、何もしていないんだ…ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…」
「…」
リアナは、その身に巣食っていた怯えの存在さえも忘れ、ただ彼女の目の前で蹲る様にして震えるコレットの後姿を、見つめていた。
ふと、リアナが我に返ると、自分の右手がいつの間にかコレットの背中に置かれている事に気づいた。彼女は己の行動に驚き、思わず背中に置いた手が強張る。
だが、その背中からリアナの手へと伝わってくるものは、恐怖でも穢れでも気持ち悪さでもなかった。ただ、柔らかく心地良い人の温もりと、自らを傷つけ自己を否定する、贖罪の嵐だった。リアナは、まるで狩人に捕まったウサギの如く、目の前で蹲ったまま怯え震える背中にかつての自分の影を認め、胸の内に湧き上がった憐憫の想いに誘われるままに、その背中をゆっくりと擦る。
震える背中は一瞬身を硬くするが、リアナが怖がらせまいと優しく擦ると落ち着きを取り戻し、リアナに身を任せて少しずつ全身の力を抜いていく。リアナは、手の動く範囲を次第に広げ、しっかりと手に力を籠めながら、蹲る背中に声をかけた。
「…双子ちゃんは、元気?」
リアナの問いに背中は一つ大きく鼻を啜ると、震え混じりの明るい声を上げる。
「…ああ、元気だよ。今はモノの森に戻って、三人で一緒に暮らしている。アイツら、華奢な体をしているくせに、凄い大喰らいなんだ。それに甘ったれでさ、毎晩二人で私のベッドを取り合っているんだよ。いくつになったら、アイツらは一人で寝れるようになるんだい?」
「ふふふ…」
コレットの背中越しに伝わる不満の声と、その奥に隠れた双子への愛情に、リアナは思わず笑みを浮かべた。リアナはモノの森の近況を聞きながら地面に膝をつき、コレットの肩に左手を添え、右手で背中に少しずつ大きな円を描いていく。コレットも地面に腰を下ろしたまま次第に頭を上げ、二人はまるで浴室で背中を流すような格好のまま、時折笑顔を交え、話に花を咲かせる。
「ねぇ、リアナ…」
「なぁに、コレットさん?」
やがて、笑いを堪え切れなくなって目に涙を浮かべていたリアナの耳に名を呼ぶ声が聞こえ、リアナは指で涙を拭いながらコレットに応える。内心、自分が自然にコレットの名前を呼んだ事に驚いていると、コレットが前を向いたまま、おずおずとした声色でリアナに尋ねた。
「…手…触ってもいい?」
「…え…?」
突然の申し出にリアナが一瞬逡巡すると、右手越しにコレットの背中が強張り、身を固くする様が伝わってくる。それに気づいたリアナは慌ててコレットに体を摺り寄せ、右手をコレットの体の前に回して優しく抱きしめた。
「勿論、いいわよ」
「…ありがとう、リアナ…」
頭をコレットの首筋に添え、目を閉じたリアナの右手に、コレットの手の感触が伝わってくる。リアナも左手を回してコレットの手に重ね、二人はひしと抱き合ったまま目を閉じ、背中越しに伝わる互いの温もりを確かめる。
「…リアナ…ごめんなさい…ごめんなさい…」
「…うん…うん…」
リアナの腕の中でコレットが再び震え、リアナは涙を流しながら繰り返し頷いていた。