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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第10章 エミリア
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180:謂れなき罪を背負い

 硬く冷たい石畳の上に、一人の女がしゃがみ込んでいた。女は膝を抱え、顔を伏せたまま、長い間動かない。彼女の周りには重く湿った空気が纏わりつき、灯りの少ない通路の雰囲気をより一層重苦しいものに変えていた。


 石畳の上に堅い靴の音が響き、一人の男が女の前に立つ。男は沈痛な面持ちで女を見下ろしながら、声をかけた。


「…大丈夫か、コレット?」

「…」


 男の声に女は答えず、ただ顔を伏せたまま首を横に振る。男は静かに息を吐くと女の隣に座り込み、石壁に背を預けた。


「…今、リアナに着替えて貰っているところだ。何とか俺達の言う事は、聞いてくれるよ。体に触れようとすると、怯えるがね」

「…」


 ミゲルの言葉に、コレットは顔を伏せたまま頷く。そのまま二人は暫くの間黙っていたが、やがてコレットが顔を伏せたまま、ポツリと呟いた。


「…私が、浅はかだった…こうなる事に思い至らなかった。こんな事になるなら、モノの女性を一人連れて来るんだった…」

「コレット…」


 顔を伏せたまま鼻を啜る音が聞こえ、ミゲルは胸の痛みを覚える。下を向いたまま、コレットの呟きが続く。


「…彼女は1年近くもの間、地獄を味わってきた…人族の男の手によって。彼女にとって『人族』と『男』は、恐怖なんだ。この建物の中で、彼女は『人族の男』に繰り返し辱められ、『人族の女』はそれを知りながら『人族の男』に与し、その行為を支持した。彼女にとって『人族』は、男も女も恐怖なんだ。そして『男』は、例えエルフであろうとも、恐怖なんだ…」

「…」


 ミゲルはコレットの独語を聞き、衝動の赴くままにコレットの肩に手を回して引き寄せる。コレットは膝を抱えて蹲ったままミゲルの行為に身を委ね、ミゲルの腕の中で震える。


「…ごめんなさい…本当にごめんなさい…」


 コレットの蚊の哭く様な呟きと鼻を啜る音だけが、冷たい石畳の上を繰り返し漂っていった。




 ***


 闇に覆われていた空に光が差し、白く輝き始める頃、救出隊は石造りの建物を後にした。


 一行は手入れの行き届いていない、凹凸の激しい道をゆっくりと歩いて行く。男達は周囲に警戒を払い、不測の事態に備えて、慎重に歩を進める。


 ミゲルと並んで先頭を行くコレットは、歩きながら後ろを振り返り、気遣わしげな視線を向ける。ミゲルとコレットの二人は、一行の中で不自然なほど先行し、後ろを歩く面々との距離が大きく開いていた。後ろの面々はリアナを中心にして6人のエルフが周囲を固めていたが、互いに間を取って大きな空間ができており、中心に居るリアナは誰とも目を合わせず、建物から持ち出した毛布を頭から被ったまま、足元の地面を見つめ続けている。


「…」


 コレットは唇を噛み、涙で滲む目を細めながら前を向くと、黙ったまま歩き続けた。




「ミゲル殿、コレット殿、首尾はどうだった?…どうした、何があった?」


 南街道の入口で網を張っていたカルロスが、一行を見つけて顔を出す。だが、ミゲルとコレットを除くエルフ達が立ち止まり、そのまま留まっている姿を見て、二人に問いかけた。


 カルロスの問いにコレットは俯いたまま答えず、そのコレットの肩をミゲルが抱き寄せながら、カルロスに答える。


「カルロス殿、馬車を1台置いて、そのまま人族全員、下がってくれないか?彼女は、人族そのものに怯えている」

「…わかった、ミゲル殿。…大変、申し訳ない」


 事情を察したカルロスは、唇を噛みながらミゲルの提案を受け入れる。そして、脇道の途中で立ち止まったままのエルフ達に向かって深々と頭を下げると、カラディナの兵士達に声をかけ、後ろへと下がらせた。




 建物の中に残るペドロ達の後始末をカラディナの部隊長に託すと、一行は、サンタ・デ・ロマハへと出発した。


 一行は、コレットとカルロス、そしてカルロスの供回りら人族のグループが先行し、幾分離れて1台の馬車をエルフが取り囲んで追従する。4人掛けの馬車にはリアナ一人が座り、ミゲルを含むエルフ全員が車外に出て、不測の事態に備えていた。




 2日後、一行はトラブルに見舞われる事もなく無事サンタ・デ・ロマハへと到着したが、一泊しただけですぐにモノへと向かって出発する事となった。


「ミゲル殿、我々が彼女に対し、何かできる事はないか?」


 出立の挨拶に訪れたミゲルに対し、フレデリクが控えめに尋ねたが、ミゲルは首を横に振った。


「今、彼女が望んでいる事はただ一つ。一刻も早く大草原に戻る事だけだ」

「そうか…」


 ミゲルの答えを聞いて沈痛な表情で俯くフレデリクに対し、コレットが言葉を引き継ぐ。


「フレデリクさん。今、私達人族が彼女に対し『何かをしてあげる』という考え自体が、おこがましい事なのかも知れないよ。今、彼女は必死に目を瞑り、今なお押し寄せる恐怖と戦っているんだ。彼女が恐怖に打ち勝ち、目を開けて私達を見る事ができた時、初めて私達は彼女に対する贖罪の機会を持てるんだ。…長命なエルフの事だから、もしかしたらその機会は、私達が生きている間には来ないかも知れないけれども…」

「…」


 コレットの言葉を受け、フレデリクの表情が一層険しくなる。場に広がる重苦しい空気を振り払おうと、ミゲルが口を開いた。


「何はともあれ、あんたや友誼派の協力のおかげで、彼女を救出できた事は確かだ。我々エルフは、その行動に感謝の意を表する。フレデリク殿、カルロス殿、後の火消しをよろしく頼む」

「ああ、任せてくれ。すぐにでも新王の布告を出し、国内の不満を抑えよう」

「ミゲル殿、我々ができる事があれば、何なりと申し出下さい。我々は、エルフの皆さんと再びかつての友誼を交わせる日が来る事を、お待ちしております」

「ああ、いずれまた会おう、フレデリク殿、カルロス殿」


 こうして、ミゲル達エルフ一行は、モノの森へと出立した。




 ***


 周囲に生い茂っていた木々が段々と疎らになり、次第に低木から草原へと移り変わる大自然の中を、1台の馬車と騎馬の一団が、北へ向かって歩んでいた。騎馬は、1騎を除いて全てエルフの男達で占められ、彼らは周囲に気を配りながらも、刻一刻と故郷に近づくに従って張り詰めていた神経を緩めていく。次第に緩やかな雰囲気となる一団の中で、馬車と、残りの1騎だけが、取り残されたかのように重苦しい雰囲気を漂わせていた。


 馬車には、リアナと、護衛として同乗を受け入れてくれたミゲルが乗り、二人は4人掛けの馬車の中で壁側にへばり付くように互いの距離を開け、対角線上に座っている。リアナは毛布を頭から被ったまま俯き、ミゲルは窓枠に肘をついたまま緩やかに変化する車窓の風景を漫然と眺め、互いに一言も喋らなかった。


 やがて日が高く上り、光が南から射し込む様になった頃、流れていた風景が止まり、周囲を守るエルフ達が馬を降りる。馬車の周りで控えめな会話が交わされる中、馬車の扉がノックされ、開いた。


「ミゲル、食事を持ってきたよ」

「ああ、悪いな、コレット」


 昼食を差し入れに来たコレットに対し、ミゲルは礼を言って料理を受け取るが、反対側に座るリアナは壁にへばり付き、身を固くしてコレットの一挙一動を監視している。その、警戒感を露わにするリアナを前にして、コレットはリアナの分の料理を座席の端の方に丁寧に置く。


「…用意したのは、私じゃないから…安心しておくれ…」

「…」


 コレットの言葉に、リアナは応えず、ただ黙ったままコレットの挙動を見つめている。その隔意と警戒に満ちた視線を向けるリアナを、コレットは伏し目がちに眺め、寂しそうに笑う。


「…それでいいんだ。あなたは、自由なんだ。あなたはもう、誰の目も憚る事なく、自由に嫌悪する事ができるんだ…どうか、二度と自分を抑えないで下さい…」


 そう答えたコレットは小さく頭を下げると扉を閉め、静かに馬車から離れて行った。


「…リアナ、少しでも良いから、食事を摂ってくれ。まだ、先は長い」

「…」


 コレットが去った後も扉を見つめ続けていたリアナに、ミゲルが声をかける。リアナはそれでも暫くの間扉を見つめていたが、座席に置かれていた料理を手元に寄せ、膝の上に乗せた。


「…」


 エルフ特有の薄いパンと干果、チーズが添えられた料理を口に運ぶリアナの姿をミゲルは静かに眺めていたが、やがて下を向いて唇を噛むと、彼らしからぬおずおずとした口調で、リアナに語りかける。


「…リアナ…君に頼みがあるんだ…」

「…ミゲル様?」


 チーズを運んでいた手を止め、顔を上げたリアナの前で、ミゲルは料理を膝の上に置いたまま、俯いている。やがて彼は俯いたまま、怯える様な、リアナの顔色を窺う様な声色で、頼み込んだ。


「…少しでいい。少しの時間でいいから、彼女と、コレットと、話をしてくれないか…?」




「…ミゲル様…」


 リアナが、真意を質す様にミゲルの名を呼ぶ。その声に呼応するかの様に、ミゲルは下を向いたまま言葉を続ける。


「…君が人族を嫌悪するのは、良く分かる。正直、俺も同じ気持ちだ。何人かの例外を除き、俺も彼らと懇意にしようとは思わない。…だが、彼女は、その例外的な一人だ。彼女は、我々エルフの事を、心の底から案じてくれている」

「…」

「…リアナ。モニカとエリカの二人を、知っているか?」


 リアナは、ミゲルの独語にも似た告白に黙って耳を傾けていたが、ミゲルの口から出た名前を聞き、初めてその瞳に光が宿る。


「…双子ちゃん?あの、モノの愛らしい双子ちゃん?ミゲル様、双子ちゃんは無事なんですか!?」

「ああ、二人は、あの厄災を無事に免れる事ができたよ」

「…そう…双子ちゃんが…良かった…」


 ミゲルから二人の無事を聞き、リアナは攫われてから初めて、喜びの涙を流す。久方ぶりに湧き上がった熱い感情に浸るリアナの耳に、ミゲルの声が流れてくる。




「…あの二人の命を救ったのは、コレットだ」




「…え?」

「そして、彼女は今あの二人の姉となり、二人は、彼女を命懸けで守ると、サーリア様に誓っている」

「…双子ちゃんが…?」


 続けざまに放たれたミゲルの言葉に、リアナは呆然とする。


 サーリアの誓い。


 エルフであれば、その誓いが如何に神聖なものか、誰もが知っている。そのサーリアの誓いを、年端もいかないはずのモニカとエリカの二人が、コレットに対し立てているというのだ。その事実に衝撃を受けるリアナに、ミゲルが追撃をかける。


「…それは二人だけではない。この俺も、彼女を命懸けで守ると、サーリア様に誓っている」

「…ミゲル…様…」


 三人ものエルフから、命懸けの誓いを受ける人族の女性。生まれてこれまで聞いた事もない事実に、リアナは絶句する。そのリアナに、ミゲルの絞り出すような懇願が聞こえて来る。


「…それほどまでに我々エルフに慕われている彼女が、謂れなき罪を背負い、苛まされている。彼女のせいではない、何ら彼女に責のない罪を自ら背負い、君への贖罪を繰り返している。…俺には耐えられない。何ら彼女に機会を与えずして、この状況が続く事が、俺には耐えられない。…だから、頼む。少しの間でいい、彼女との会話の時間を与えてくれ…この通りだ…」

「…」


 数々の衝撃に見舞われ、呆然とするリアナ。そのリアナの前で、ミゲルの燃え上がる様に逆立つ髪が、力なく揺らいでいた。

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