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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第10章 エミリア
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172:何があろうとも

「エミリア no maine system made, ato mikka ka…. Mou sukoshida」

「トウヤさん、エミリア様がどうしたんですか?」


 シルフとの会話を終えた柊也の呟きを聞き、セレーネはレンゲに乗せた小籠包を頬張りながら尋ねる。口の中に濃厚なスープが広がり、その熱さに思わず口を開閉させるセレーネの前で、柊也は左手の指を3本立てて、言葉を繰り返した。


「エミリア」

「…3日?エミリア様のお住まいまで、後3日って事ですか?」


 頬張り過ぎてひりついた舌と手を動かしながら、セレーネは柊也の言いたい事を確認するが、どうにも話が通じない。セレーネは追求を諦め、海老入り蒸し餃子に箸を伸ばした。トウヤさんの表情を見る限り悪い話ではなさそうだし、多分3日って意味なんだろうな…。


 この日2台並べられたちゃぶ台の上は様々な点心が所狭しと並び、乾燥した大地に負けまいとテントの中で湯気を立てている。その他に北京ダックやよだれ鳥、フカヒレスープ等が並べられ、大海老のマヨネーズ和えとチリソース煮に囲まれたセレーネは、感無量だった。




 あの夜、シモンとセレーネは柊也に何が起きたのか知ろうと身振り手振りで問いかけたが、柊也はついに口を割らず、結局何があったのかは、わからないままだった。ただ、その日の柊也は、何かから逃避するかのように激しく二人を求め、セレーネはまるで母親の胎内に逃げ戻ろうとする赤子の様な姿に云いようのない悲しみを覚え、その小さな体で柊也の執心を迎い入れた。


 翌朝になると柊也は落ち着きを取り戻し何事もなかったかの様に振る舞ったが、ふとした時に生じる沈黙には、何か張り詰めた空気を漂わせていた。そしてシモンがすぐに反応して柊也に何かしら声をかけ、その都度柊也が何もなかったかのように反応して、その空気が霧散するのを繰り返していた。


 シモンの行動は、セレーネから見れば、父親の苦悩を敏感に嗅ぎ取って自分なりに父親の気を紛らわそうと知恵を絞る娘そのものだった。その「妹」のいじらしい姿にセレーネは庇護欲を覚えていたが、「妹」に手を貸す事はなく、二人のやり取りを一歩離れた所で見守っていた。それは柊也に対しても同じであり、彼女は「母」「姉」として「父」と「妹」のやり取りを見守り、二人が彼女を求めた時だけ両手を広げて受け入れる、という姿勢を貫いていた。




 セレーネの隣で同じく小籠包を頬張っていたシモンが、空になったレンゲを眺めている。少しすると、シモンは顔を上げ、レンゲを指差しながら、はす向かいに座る柊也に声をかけた。


「トウヤ Что ты скажешь это?」

「Renge」

「ре, н, ге?」

「Re, n, ge」

「Re, n, ge」

「Sousou, umaizo シモン」

「Ari gato, トウヤ」


 頻繁に繰り返される様になったシモンの質問に柊也はすぐに反応し、シモンが指差した物の名前を答える。シモンは、その呼び方を理解すると礼を言い、柊也から貰ったメモ帳を開き、口ずさみながら書き込んでいく。


 やがて、メモ書きが終わったシモンは手元に置かれた湯呑みを呷って飲み干すと、湯呑みを持った手を柊也の前に突き出した。


「トウヤ, Cha」

「Aiyo, Chotto matte na」


 シモンの言葉に柊也は頷き、急須を傾けて湯呑みのお茶を注いでいく。お茶が並々と注がれると、シモンは湯呑みを手元に引き寄せながら、礼を言う。


「Ari gato, トウヤ」

「Douitashimashite」

「Dou?itaши маши те?」

「Aa…, Kore ha nannte ittara iinda…?」


 柊也の返事にシモンがぐちゃぐちゃな発音で反応し、柊也が答えに窮している。あの夜から目の前で頻繁に繰り返されるようになった光景を見て、セレーネは心の中で応援する。


 シモンさん、頑張って。


 あの日から一歩引いて見守る事を選んだセレーネとは対照的に、シモンは一歩踏み込む様になった。彼女はことある事に柊也に呼び名を尋ね、発音しづらい柊也の国の言葉で話そうとした。それは、少しずつ離れていく父親に追いつこうと、泣きべそをかきながら必死に走る娘の姿だった。




 ***


 形の整った鋭敏な耳が地面の軋みとファスナーが走る音を捉え、シモンはゆっくりと目を覚ます。寝返りを打つと、そこに居るはずの男の姿はなく、男の向こう側に身を横たえたセレーネが、静かに寝息を立てていた。


 テントの外でガサゴソと音が鳴り、やがてプルタブを引く音が聞こえて来る。シモンは横たえていた身を起こし、静かにテントの外へと出た。


 周囲は漆黒の闇に閉ざされ、テントに取り付けられているランタンが、僅かに周囲を照らしている。昼間もうもうと砂埃が立ち込め、太陽の光に容赦なく射抜かれ干乾びていた大地は、束の間の休息を貪るかのように静まり返っている。寒暖差が激しいエミリアの地では、夜は毛布を重ねないと厳しい日もあったが、その日は気温がそれほど下がらず、心地良い冷気がシモンをくすぐっていた。


 シモンが微かな音を頼りにテントの角を曲がると、柊也がビーチチェアに寝転がり、缶ビールを口にしていた。シモンが柊也の許に近づくと、彼はシモンの方を向き、缶ビールを上に掲げる。


「シモン, nemurenai noka?Omae mo nomuka?」


 お姉ちゃんに怒られるよ?


 そう思ったシモンだったが、口には出さず、隣のビーチチェアに腰を下ろしながら小さく頷く。


「Sake, Sake」

「Aiyo」


 シモンの答えに柊也は缶ビールを取り出し、シモンへと手渡す。シモンは膝を抱えるようにビーチチェアの上に座ると、膝の上で缶ビールのプルタブを開け、ちびちびと飲み始めた。


「…」


 二人は黙ったまま西の空を眺め、ビールを少しずつ飲んでいる。その視線の先には、半円になった月が煌々と輝き、一足先に寝静まった太陽を追いかけるように少しずつ高度を下げていた。


「シモン」


 やがて、西の空を眺めながら柊也が呟き、シモンは缶ビールから口を離して柊也の方を向く。柊也はなおも西の空を眺めたまま、独り言を呟くかのように言葉を続ける。


「Omaetachi ga issyo ni ite kurete, hontou ni kansya shite iru. Ore niha tokubetsuna chikara ga arukamo shirenaiga, syosen bukiyouna kataude no otoko da. Hutari no tasuke ga nakereba, kono tabi mo dekinakatta darou. Hontou ni arigatou」

「トウヤ…」


 柊也の呟きを聞いたシモンは、心を締め付けられる。柊也の言葉は小さく、長すぎて、彼女には意味が全くわからない。だが、彼女の鋭敏な五感が捉えた彼の息遣いや言葉の抑揚から、彼女は彼が何を言いたいのか、はっきりとわかった。




 これは、彼の、私達二人に対する、――― 懇願。




 何かを失い、退路を断たれた彼が、私達二人だけは離すまいと縋りついた言葉。不器用で、感情を素直に出さない「父」が、「娘」に見せた弱音。


「…シモン?」


 シモンは傍らに缶ビールを置いてビーチチェアから降りると、柊也の足元に佇む。背後で輝く半月の前に立ち塞がり、ビーチチェアに横たわったままの柊也を見つめ、口を開く。


「パパ…, Ai shite ru」


 私は、あなたを愛している。私はいつまでも、あなたと一緒に居る。


 シモンはゆっくりと柊也の許に近づくとビーチチェアを跨いで膝立ちになり、柊也の上に馬乗りになる。ビールを片手にシモンの顔を見上げ動かなくなった柊也の目を真っすぐに見つめ、たどたどしい口調で覚えたばかりの柊也の国の言葉を連ねる。


「Watashi, issyo. Itsumo issyo」


 私は、離れない。何があろうとも、離れない。私は、あなたと一心同体。私こそ、あなたから離れられない。


 シモンはビーチチェアの縁に両手をついて、柊也の上に覆い被さる。背中に流していた銀の髪が、肩から零れて滝の様に降り注ぎ、柊也の胸元に流線を描く。


「Watashi パパ issyo. Zutto issyo」

「シモン…」


 間近に迫る柊也の顔を見据えたまま、シモンは目をゆっくりと閉じ、口を開いて舌を広げる。やがて、暗闇の中に佇むシモンの舌に雷が走り、雷は瞬く間に全身へと広がってあらゆる内臓が起動し、熱を帯びる。


 シモンは暗闇の中で稲光に乱打されたまま自らを解放し、二人の乗ったビーチチェアは軋みを上げながら、いつまでも蠢いていた。

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