171:赤く輝く月の下で
灼熱の太陽が傾き、まるで力尽きるかの様に橙色に変色しながら地平に沈みこもうとする頃、変わり映えのない荒野の真ん中に1台の8輪装甲車が佇み、埃だらけの巨体を横たえている。その車体の陰には三人の男女が身を潜め、沈みゆく日の最後の攻撃から己を守っていた。
柊也は、教室にある様な小さな背もたれの付いた椅子に座り、丈の長いケープを首からかけ、てるてる坊主の様な格好でじっと動きを止めていた。その後ろにはセレーネが立ち、長くなった柊也の髪を2本の指で挟み、ヘアカット用のハサミで次々にカットしていく。その動きは手慣れたもので、セレーネが操るハサミは淀みなく動き、柊也の髪は綺麗に切り添えられサッパリと仕上がっていた。
「上手いもんだな、セレーネ。一括りにするのも何だが、やっぱりエルフは、総じて手先が器用なんだな」
「อย่าขยับศีรษะของคุณ น้าトウヤ」
柊也が前を向いたまま感心し、その反動で動いた頭をセレーネが押さえる。その二人の傍らでは、午後の運転を終えたシモンがビーチチェアに身を横たえたまま、三人になってからセレーネにお株を奪われてしまった仕事を、恨めしそうに眺めていた。
「น้าトウヤ, โค้งไปข้างหน้าเพื่อสระผม」
セレーネが柊也の後頭部を押し出しながら呟き、前屈みになった柊也の前に移動する。そして、傍らに設えた机の上にあるミネラルウォーターのペットボトルを開けると、柊也の後頭部に振りかけ始めた。
「うおぉぉぉ、冷てぇぇ…。気持ちいいなぁ…」
外気との寒暖差で、肌を伝う常温の水に冷たさを感じた柊也は、思わず声を上げる。セレーネはペットボトルを置くと続けてシャンプーを垂らし、細くしなやかな指を柊也の髪の毛に差し入れて、両手で揉み始めた。
「มีสถานที่ที่คันไหม?」
「右耳の後ろ辺り」
「Вы оба поняли слова друг друга?」
さも当然の様に行う二人のやり取りに違和感を覚えるシモンを余所に、セレーネは再びペットボトルを手に取り、シャンプーの泡を洗い流す。そして柊也の頭を抱えて起き上がらせると、タオルで髪の毛を拭き、続けてドライヤーで乾かし始めた。
「ขอโทษที่ทำให้รอ. มันเป็นอย่างไรอย่างนี้?」
「ああ、サッパリした。ありがとう、セレーネ」
「ยินดีต้อนรับ, น้าトウヤ」
最後に手鏡を掲げたセレーネに、柊也は椅子から立ち上がりながら礼を言い、セレーネの頭を優しく撫でる。セレーネは柊也の手の動きに目を細めながら笑みを浮かべると、後ろを向いてシモンに声をかけた。
「ขอโทษที่ทำให้รอ. มานี่สิ, น้าシモン」
「Прошу вас, старшая сестра」
柊也と入れ替わる形でシモンが椅子に座り、セレーネが結い上げられたシモンの髪を解き始める。シモンの銀の髪は、長い時間結い上げられていたのにも関わらず癖もなく流れる様に広がり、思わずセレーネは溜息をついた。そのままシモンの髪の毛を切り揃え始めたセレーネを尻目に、柊也はテントの骨組みを取り出し、地面に置きながら二人に声をかけた。
「散髪が終わったら、食事にしよう。二人は、何が食べたい?」
二人は、ペーパーボードの上をなぞる柊也の指先を追って頷き、思い思いの希望を口にする。
「お肉」
「カニ」
「シモン、何でそんなにネイティヴなんだ?それとセレーネ、お前はどこでレパートリーを増やしたんだ?」
***
「しっかし、ここは何にもいないなぁ…まあ、その分危険もないから、構わないんだが…」
網の上で脂を滴らせるカルビをひっくり返しながら、柊也が独り言を呟く。ちゃぶ台の中央には七輪が置かれ、ハラミやらタンやらホルモンやら、様々な部位の肉が並べられ、煙を上げていた。七輪の周りにはご飯とキムチとチョレギサラダ、カルビスープが並び、セレーネの脇には塩茹でされたタラバガニが一杯、仰向けに転がっている。セレーネは焼肉そっちのけでタラバガニの解体に勤しみ、シモンはセレーネの欠けた穴を率先して埋めながら、時折柊也の目を盗んで生肉を摘まんでいた。
柊也は焼けたカルビとご飯を頬張りながら、シルフに声をかける。
「シルフ、この辺りの生物の分布はどうなっているんだ?」
『はい、マイ・マスター』
柊也の呼び掛けに応え、もうもうと煙の立ち込める七輪の上にシルフが姿を現わす。
『エミリアの管轄地は、ほぼ全域が砂漠地帯であり、陸上生物はほとんどおりません。乾燥に適応した一部の小型動植物が生息するのみとなります』
「それは、エミリアのセーフ・モードが原因か?」
『その通りです、マイ・マスター』
柊也の問いにシルフは頷き、説明を続ける。ちなみにシルフは日本語で話しているため、シモンとセレーネは理解できず、黙々と食事を続けている。
『システム・サーリアとシステム・エミリアは、各々スリープ・モードとセーフ・モードにより、環境保護機能が働いておりません。それでも、サーリアの管轄地の環境破壊はそれほど深刻ではありませんが、エミリアの管轄地は全域で砂漠化が進んでおり、セーフ・モードを解除する他に改善の目途は立たないと推測されます』
「エミリアのセーフ・モードを解除しても、問題はないのか?」
『いいえ、エミリアのセーフ・モードを解除した場合、管轄地全域の平均気温が推定で9.7℃低下します。そのため、サーリア同様、モードの解除は推奨いたしません』
「どっちにしろ、詰んでいるという事か…」
シルフの回答を聞き、柊也は顎に左手を当てて考え込む。
どうもこれまでの話を総合すると、ロザリアの地で機能していた魔法は、環境保護の側面もあった様に思われる。ロザリアの管轄地は豊かな自然に覆われ、人族は中原三国を中心に文明圏を築き、大きく繁栄している。
それがサーリアの管轄地に入ると途端に木々が疎らになり、大草原とはじめとする草原や低木が多くを占めるようになった。勿論、サーリアのメインシステム周辺をはじめ、樹木の生い茂る地域も存在したが、振り返って見ると、ロザリアに比べ、サーリアの管轄地は緑が乏しい様に感じられる。
その傾向がエミリアの管轄地に入った途端、より顕著になる。エミリアの管轄地では緑がほとんど見当たらず、赤茶けた大地と照り付ける太陽の光だけが何処までも続いている。エミリアの管轄地に入ってからは、ほとんど雨にも見舞われておらず、空気が乾き切っていた。
魔法には水や風を制御する力が備わっており、サーリアとエミリアの地では、それが封印されている。だから、これだけ環境破壊が進んでいるのではないか?柊也は、中原で目にした魔法の力が氷山の一角であった事を知り、思わずため息をつく。物思いに耽る柊也に、シルフが声をかけた。
『それと、マスターに緊急のご報告があります』
「どうした?シルフ」
『現在、局地的に急激な二酸化炭素濃度の上昇が確認されております。早急にこの地域から退避する事を、推奨いたします』
「シルフ、そこから1mほど横に動いてみてくれ」
『二酸化炭素濃度低下。安全を確認いたしました』
***
「น้าトウヤ, น้าシモン!ดูสิมันสวยมาก!」
「どうした?セレーネ」
上部ハッチから顔を覗かせたセレーネに呼び掛けられ、シモンは梯子を伝い上へと登る。そして、上部ハッチから顔を覗かせたシモンは、そのままの体勢で暫くの間動きを止め、東の空を眺めていた。
そこには、丸く、赤く灼けた大きな満月が、天空で瞬く星々の中で明るく輝いていた。獣人社会で伝えられる、数多くの子供達に囲まれた、母なる月。その月が、何処も欠ける事のないまま赤く灼けた時、それは天の反対側に居る父たる太陽から愛の告白を受けて頬を染め、歓喜に酔いしれている時と言われていた。今頃、故郷では多くの男達が意中の女達の下に押し寄せ、女達は寝所を整えて男達の来訪を待ち望んでいるだろう。シモンは故郷で経験した事もない、云い様のない期待が胸の中で膨らみ、鼓動が早くなるのを感じる。
「シモン、doushita?Nanika attanoka?」
「あ、すまない、トウヤ。今すぐに登る」
車内でシモンが登り切るのを待っている柊也の声が聞こえ、シモンは慌てて梯子を登る。下を向いた際に柊也の視線が合ったが、途端に鼓動が跳ね上がり、シモンは逃げるように視線を逸らした。
シモンは梯子を登ると上部ハッチの前に佇み、セレーネとともに赤い月を眺める。シモンは視線を月に向けたまま、背後から聞こえて来る梯子を登る音に集中し、心の中で自分の髪型を確認する。うん、今日は特にトウヤの好きな、メッシーバンだ。きっと私が前に居れば、目が釘付けになるはず。シモンは内心で頷き、「父」が自分の背後に佇む事を期待し、じっとその時を待った。
やがて、背後で梯子を登り切り、上部ハッチに踏み入れた足音がシモンの背後で動きを止める。期待を裏切らずそのまま動かなくなった「父」にシモンは可笑しくなり、その姿を一目見ようと横を向いて背後の様子を窺った。
「…トウヤ?」
「…」
背後に居た「父」は、シモンのうなじに目もくれず、東の空に目を向けたまま、愕然とした表情で動きを止めていた。
「トウヤ?どうしたんだ?一体、何があったんだ?」
「…Nannde imamade kidsukanakatta…Tsumari, souiu koto nanoka…?」
「น้าトウヤ?เกิดอะไรขึ้นกับคุณ?」
二人の異変に気づいたセレーネも後ろを振り向くが、柊也は二人の問いに答えず、満天の星空を見渡して何かを探し回った後、シルフを呼び出す。
「Sylph」
「Yes, my master」
「トウヤ、教えてくれ。何か問題が起きたのか?」
「น้าトウヤ?」
柊也はシモンとセレーネの問い掛けに答えず、深刻な表情でシルフに何かを確認している。柊也の国の言葉でやり取りされるその会話が全く理解できず、シモンは止むを得ず敵襲に備えて身を固め、周囲の様子を窺った。しかし、シモンの鋭敏な五感をもってしても、何も異常は検知できない。
やがて、背後から上がった音にシモンが振り向くと、シルフとの会話を終えた柊也がボクサーの上に胡坐をかき、座り込んでいた。その1本しかない手で左右のこめかみを押さえ、俯いたまま微動だにしない。
「…トウヤ?」
「น้าトウヤ?」
二人の問いに柊也は反応せず、三人は赤く輝く月と満天の星空の下で、そのまま暫くの間動きを止めていた。