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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第10章 エミリア
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168:Розалия 5-й месяц 12 дня

 飾り気のない、計器に囲まれた無骨な操縦席に座ったシモンは、計器に目を走らせ、操縦桿を握る。シモンは外部カメラに映し出される、目まぐるしく変化する景色に惑わされる事なくボクサーを操り、シモンに手綱を握られたボクサーは、まるで1頭の狼と化したかの様に、荒涼とした大地を疾走していた。


 絶え間なく振動し、変化する数値と映像に気を配りながら、シモンは思う。


 …静かだな。


 それは決して、今シモンが座る操縦席を指した言葉ではなかった。ボクサーは道なき道を進むが故に絶えず振動し、ボクサー自体が発する駆動音も決して無視できるものではない。時折、計器が発するアラートが耳を打ち、静寂とは無縁の環境だった。にも関わらずシモンは、今自分が、とても静かで寂しさに囲まれた場所に独りでいる様に思えて、仕方がなかった。


 いつ以来だろう、独りだと思うのは。


 操縦桿を右に切りながら、シモンは考える。自分が独りだったのは、一昨年の暮れに柊也と出会う前、あの合同クエストの前まで遡った。




 柊也に出会う前のシモンは、一匹狼だった。獣人の並外れた力強さと反射神経は単独という不利を補い、むしろ周りと歩調を合わせる必要がないために、「疾風」という素質を存分に発揮する事ができた。勿論、彼女は隠者ではなかったので、クエストの内容によっては他の者と臨時パーティを組んで活動する事もある。だが、それは全て一時的なものであり、クエストが終了した後、その者達との関係が継続する事はなかった。彼女の突出した実力と類まれな美貌は、周りの者達にとって羨望の的であり、彼女は、臨時パーティを解消した後に言い寄ってくる者達の下心に、ウンザリしていたのである。


 だから彼女にとって、孤独は恐怖ではなかった。――― あの洞窟までは。


 あの洞窟で彼女は悪魔に憑かれ、独り残された。そして、彼女は生まれて初めて、孤独に恐怖を感じた。自分が泣いても、叫んでも、助けを呼んでも、誰も応えてくれない。闇夜と静寂に囲まれ、彼女はただ赤子の様に泣き叫びながら、闇雲に手を伸ばし、救いを求める事しかできなかった。


 あの時から、彼女の殻は割れ、彼女は孤独に怯える様になっていた。そして彼女の殻に開いた穴は、それ以降、暖かい左手に覆われ、彼女は孤独から守られる様になっていた。




 今も彼女の殻の穴は、左手に覆われている。しかし、彼女はここ数日、左手との間から吹き込む隙間風に凍える様になっていた。


 今も「父」は、彼女のすぐ傍にいる。別に「父」と喧嘩しているわけでもない。だけど、だけど…。


 思い悩むシモンの耳に、「父」の声が聞こえてくる。


「シモン, syokuji ni shiyou. Kuruma wo tometekure」


 自分の名前に続く、全く意味のなさない音の羅列。「父」との間に吹き込む様になった、冷たい隙間風。彼女は「父」の方を向き、「父」の指が指し示す言葉を見て、頷く。


「わかった。トウヤ、すぐに行く」


 彼女は急いでブレーキを踏み、背を向けて車外へと出ようとする「父」を追いかける。…自分が独りぼっちで遺されないように。




「Sate…, kyou ha nani ni shiyouka…」


 座椅子に胡坐を組んでペーパーボードを眺める柊也を前に、シモンは座布団に正座し、判決を待つ被告の様に緊張していた。そんな彼女を前にして、裁判長は無情な判決を下す。


「エミリア no kankatuchi ni hairu mae ni menyu wo tukutteokeba, konna kurou mo nakattandagana…」


 そう判決理由を述べ、裁判長が並べた料理を目にして、シモンはがっくりと項垂れた。


 お、お肉がない…。


 あまりにも惨い裁判長の仕打ちに湧き上がる涙を堪えたシモンの前に、ペーパーボードが差し出される。


「Gratin, spaghetti, pizza」


 主文を耳にしたシモンは、裁判長から乱暴にペーパーボードをひったくる。


 お肉じゃない、お肉じゃない、お肉じゃない。


 涙目でペーパーボードを書き殴るシモン。すると、控訴の声が裁判長に届いたのか、シモンの目の前に待望の料理が並べられた。


「チョコレートパフェ!トウヤ、愛してる!」


 シモンは歓喜の声を上げると、早速チョコレートパフェとの間に立ちはだかる、お肉じゃない料理の退治に取り掛かった。




 食事が終わり一息つくと、今度はセレーネが操縦桿を握り、ボクサーが再び動き始める。シモンは後部座席に回り、柊也と並んで座った。


「…」


 シモンは柊也と並び、前方の壁を眺めながら、五感を研ぎ澄ませて柊也の様子を窺う。柊也は揺れる車内では本を読む気にならないようで、退屈そうに欠伸をしていた。


 何か、話しかけてくれないかな…。


 シモンは期待を込めて念を送るが、柊也には届かず、話しかけてくる様子が一向に見られない。痺れを切らしたシモンは柊也との接点を求め、口を抑えていた左手を掴み、自分の手元に引き寄せた。


「N?doushita, シモン?」


 柊也から何か声をかけられたが、シモンは気にせず、目の前に広がる柊也の左手指を屈伸させる。やがてシモンは左手を指差し、柊也に疑問をぶつける。


「トウヤ、これ、何て言うの?」

「E?nandatte?」

「これ、何て言うの?」


 シモンの質問が通じず、柊也は間の抜けた返事をするが、シモンは辛抱強く相手を見つめ、目で訴える。すると、得心がいったのか、柊也が答えを返した。


「…Te?」

「テ?」

「Te」

「Te」


 柊也の言葉をなぞる様にシモンが言い返すと、どうやら正解に辿り着いたようで、柊也が首肯する。そうか、これはトウヤの国の言葉では、「Te」と言うのか。柊也に一歩近づいた様な達成感を覚えたシモンは、今知った単語を忘れまいと、何度も呟きながら柊也の手を触る。やがてシモンは、「Te」の先に伸びた「指」の呼び方を知りたくて、今度は柊也の指を摘まんで、問い掛けた。


「これは、何て言うの?」

「…Yubi? Hitosashi yubi」

「ヒトサシ ユビ」

「Yubi」

「Yuibi?」

「Sousou. Hitosashi yubi」

「Hitousasui yuibi」

「Iya, sore ha naka yubi」


 何か違っていたらしい。柊也が頷いてくれない。


 どうも柊也の国では、指1本1本に違う名前があるようだ。手足の指に20種類もの名前がある事に、シモンは呆れる。ボクサーの様な頑丈な馬車を作る未知の世界の、予想もした事もない法則を知り、シモンは思わず溜息をついた。


 シモンは、左手の5種類の指の名前を覚えるのに挫折すると、柊也の腕を掴み、故郷の歌を口ずさむ。


「…あなたの逞しいその手で、私を捕まえて下さい…」

「Doushita, シモン?…Sore, uta ka?」

「…私は、あなたに捕らわれるのを夢見て、逃げているのです…」

「Ya ubegayu, mechtaya? byt'…Nannido takaina, oi」


 私がこの歌を唄う日が来るとは、思わなかった。シモンは口ずさみながら、感傷に浸る。


 獣人の社会は、実力が全てを決する。女達は力の強い男の下に集まり、男の庇護の下で一夫多妻を形成する。この歌は、女達が意中の強い男に攫われる事を夢見て唄う歌だった。


 そんな獣人社会においても、傑出した実力を持つシモンは異端だった。故郷には彼女を凌駕する男がおらず、力づくで奪おうとする男達を片っ端から返り討ちにしたシモンは、失望とともに故郷を飛び出した。自分を組み伏せる事もできない男達に、この身を委ねるつもりはない。その信念を胸に人族の社会へと飛び込んだシモンは、自分を凌駕する男が現れるのを待ちながら、自己の研鑽に勤しんだ。


 だが、そんな彼女が身を委ねた相手は、強い男ではなかった。彼は彼女より遥かに弱く、その一本しかない手は、彼女が払えば吹き飛びかねないほど、頼りなかった。しかし今や彼女は、何よりもその頼りない手に組み伏せられ、全てを求められたいと願っていた。


 私は、弱くなったのだろう。彼女は男の手の温かさを胸に感じながら、思う。かつての私であれば、独りで行動する事に、何の不安も躊躇いも覚えなかった。だが、今の私は、このひ弱な手が傍に居なければ、何もできなくなってしまった。この手が居なくなったら、私はきっと泣きじゃくり、迫り来る恐怖から逃げ惑うのだろう。


 しかし、嫌ではなかった。今や彼とは言葉を交わす事もできなくなり、心には冷たい隙間風が吹き込む。だがその分、彼は彼女を、頻繁に、強く求めるようになった。彼女は、彼が毎晩のように注ぎ込む情熱を余すことなく受け入れ、その余熱に縋りついて震える心を温め、暖を取っていた。




「น้าシモン ได้มาถึงแล้ว. ตื่นได้แล้ว…」

「ううん…お姉ちゃん、もうちょっと…」

「แ, แป๊บนึง น้าシモン!?」


 耳元をくすぐるあどけない声に、シモンは微睡んだまま腕を伸ばして声の主を抱き締め、頬ずりをする。驚いた声を上げて身を捩る「姉」をしっかりと掴まえたまま、シモンは甘え、その温もりを堪能した。


 やがて諦めたのか、大人しくなった「姉」の温もりを存分に味わったシモンは目を開け、深い愛情を込めて声をかける。


「お早う、お姉ちゃん。起こしてくれて、ありがとう」

「มันไม่สามารถช่วยได้ น้าシモン…」


 シモンの笑顔を真っ向から受け止めた「姉」は、赤くなった頬を膨らませ、そっぽを向く。その姿にシモンは得も言われぬ庇護欲を覚え、「姉」と手を繋いだまま、ボクサーの外へと歩み出した。


「姉」。「父」との旅路で彼女に齎された、新しい家族。


 シモンは、この新しい家族に対し、「父」に迫るほどの深い愛情を覚え、心を許していた。「姉」は、頼りない「父」よりも更にか弱く、身長はシモンの首にも届かない。力量で言えば、明らかにシモンが守る方の立場である。だが実際は、彼女は「父」と同じくらい、この「姉」に精神的に依存し、エミリアの地に入ってからは、この二人に甘え切っていた。


 二人がボクサーから降りると、すでにテントの設営を終えていた柊也が、ペーパーボードをなぞりながら声をかける。


「Yuusyoku ni suruzo. Hutari ha nani ga tabetai?」


 ペーパーボードを横切る指先を目で追ったシモンは頷き、セレーネとともに、今度こそ自分の望みを叶えて貰うべく、裁判長に強く訴えた。


「Oniku」

「Ebi」

「…Omaera, nande soko dake nihonngo ga tuujirunndayo」




「Nani wo miteirunnda?Hutari tomo…」


 脇から流れる柊也の声にも気づかず、シモンは漆黒の空を見上げ、自分の真上で繰り広げられる誕生の宴を眺めていた。


 力強く輝き全てを導く、父たる太陽。父の後を追いながら淡く地表を照らす、母たる月。父と母から生まれた、星という無数の子供達。そして父と母の交わりによって年に数回、光の線を引いて産み落とされる、新しい星々の産声。


 獣人社会で言い伝えられる、天空の愛の営み。故郷では、この天空の下で、多くの男女が互いの想いを激しく行き交わせているはずだ。シモンは、その営みを目の当たりにして、かつて感じた事のないほどの熱い想いが、心臓から全身へ伝播していくのを覚える。


 呆然と見上げていたシモンの肩が叩かれ、シモンは期待と緊張で身を固くし、肩を叩かれた方向を向く。彼女が今最も欲しい相手が、見えない右手で缶ビールを掲げ、笑みを浮かべていた。


「Sekkakuda. Ippai yaruka」


 そっちじゃないのに…。


「ああ、いいよ。喜んで付き合おう、朴念仁」

「มันไม่สามารถช่วยได้ น้าトウヤ…. กรุณากลั่นกรอง」


 シモンは、伝わらないのを良い事に「父」に憎まれ口を叩き、二人とともにボクサーの中へと入って行った。




「シモン, セレーネ, Kyou mo otsukaresama」

「今宵の、太陽と月の愛の営みを讃えて」

「คืนนี้ พระเจ้าサーリア ฉลองการนอนหลับอย่างสงบสุข」


 三人はお互いの言葉を唱えて杯を掲げ、酒盛りが始まる。


 シモンは、体の中で燃え続ける炎を消火しようと、アルコールを次々に流し込んだ。しかし、アルコールは炎を鎮めるどころか、鼓動を早め、血管に乗って炎が全身へと広がっていく。


「…」


 シモンは、波打つ鼓動で心臓が跳び出さないよう膝を抱え、この炎を唯一鎮める事ができる男に視線を送る。しかし、男はシモンの視線に気づかず、仰向けになったまま、一人で天空の営みを眺めていた。


 パパの馬鹿馬鹿馬鹿!


 シモンは膝を抱えたまま、行き場のない怒りを尻尾に籠め、哀れなボクサーに何度も叩きつける。すると、向かいで酒を飲んでいたセレーネが腰を上げ、上部ハッチを開けてボクサーの中へ入って行った。セレーネを見送るために身を起こしていた柊也と、目が合う。


「…」

「シモン?」


 なーんーで、気ーづーかーなーいーの!


 心の叫びを尻尾に籠め、ボクサーを滅多打ちにするシモン。すると、ようやく合点がいった柊也が苦笑し、腰を上げてシモンの許に歩み寄った。


「パパの馬鹿」

「Gomen na, シモン, kidsukanakute. Warukattayo」


 柊也に身を預けたまま、シモンは今までの鬱憤を晴らすかのように、柊也を尻尾で引っ叩く。明らかに笑いを堪えながら頭を下げる柊也を見て、不貞腐れかけたシモンだったが、柊也の顔を見つめた途端、抑えきれない衝動が顔を出す。


「パパ…愛してる」

「E?Nannte ittannda?」


 シモンの想いは言葉に阻まれ、「父」に届かない。この想いを、抑えきれないこの想いを、どうにかして伝えたい。必死に頭を巡らせるシモンの脳裏に、一つの言葉が浮かぶ。エミリアの管轄地に入り、言葉が通じなくなってから「父」が繰り返す様になった、あの言葉。毎晩、「父」が耳元で囁き、その都度体が痺れる、あの言葉。きっとあれが、私が「父」に抱き、伝えたい言葉。彼女は本能的に確信を抱き、閨で繰り返し紡がれる言葉を擬え、呟く。




「パパ…Ai shi teru…」




「Ore moda. Aishite iruyo, シモン」

「…ぁ…ん…」


 笑いを堪えていた柊也が、突然シモンに覆い被さり、唇を荒々しく奪った。シモンは突然の変貌を歓喜とともに迎い入れ、押し寄せる熱情に自分の想いを乗せて、相手に送り返す。二人は冷たく硬い鋼板をも溶かす勢いで己を焦がし、互いに熱を交換して、次第に高まっていった。




 ***


「…Nande, konnna tokoro de nete irunda?」


 柊也に続いて梯子を下りるシモンの耳に、柊也の呟きが聞こえて来た。ボクサーの中へと降りたシモンは、後部座席に腰を下ろしたまま、だらしなく上を向いて眠るセレーネの姿を見て、噴き出しそうになる。


 お姉ちゃんたら…。


 シモンは、胸中に湧き上がる熱い想いを感じながら腰を屈め、セレーネの背中と膝裏に腕を通すと、横抱きに抱え上げる。そして、その白く柔らかな頬にそっと口づけをする。


「お姉ちゃん、ありがとう。私に気を遣ってくれて…」


 そして、後ろを振り向いて柊也を誘惑すると、鼻唄を歌いながら、テントへと歩を踏み出した。


「お姉ちゃんとの愛も、確かめないとね」

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