157:逢瀬
ガリエルの第1月。ハーデンブルグの後方に広がる田園地帯は、収穫の時を迎えていた。
沿道に広がる畑では、農民達が腰を屈め、根菜や芋類の収穫に勤しんでいる。また、所々に生える木々には大きな実が生り、芳醇で甘い匂いを振り撒いていた。時折、鳥達がおこぼれに与ろうと果実を啄み、農民達は鳥達に横取りされないよう竿を振って追い払い、急いで果実をもいでいた。
その田園地帯を貫く一本道を、1頭の騎馬が東に向けて歩を進めていた。黒一色の、艶やかな毛に覆われた馬の歩みは力強さに溢れ、戦馬としての威容を存分に表している。その馬を操る男の全身も引き締まった筋肉に覆われ、馬上の姿は平服にも関わらず物々しい雰囲気を醸し出していた。
男は一人ではなく、小柄な少女を伴っていた。少女は男の前に跨り、少女の体を挟み込むように手綱を持つ男の腕の温かさを意識しながら、沿道の風景を楽しんでいる。やがて少女は後ろを振り向き、自分と同じ黒髪と黒い瞳を持つ男の顔を横目で見上げながら、声をかけた。
「オズワルドさん、本当に二人だけで出掛けちゃって、大丈夫なんですか?」
オズワルドは目の前で体を捻り自分を見上げる少女に笑みを浮かべ、落馬しないよう背中に手を添えながら優しく答えた。
「大丈夫だ、ミカ。フリッツ様にもちゃんと許可を得ている。それに出掛けると言っても、田園地帯周辺の散策だけだ。身の危険はないし、いざとなったら私が守るから、安心してくれ」
「別に心配しているわけじゃないんです。けど、ほら、今の私ってゲルダさんや女性騎士さんとか、大抵周りに誰かいるじゃないですか。そもそも、レティシアが居ないとか、北伐ではぐれた時以来じゃないかな?」
「そうだな。君は何処へ行くにしても、いつもレティシア様と一緒だからな」
美香は上の空で呟いた後、我に返ると顔を赤らめ、慌てて前を向く。前回の「北伐ではぐれた時」の事を、思い出していた。オズワルドは、そんな美香の動揺に気づかず、周囲に注意を払いながら田園風景を楽しんでいる。
二人は、ハーデンブルグの後方にある渓流へと向かっていた。
前々日にオズワルドからピクニックのお誘いを受けた美香は、レティシアにも声をかけたのだが、意外な事に、レティシアが断った。
「いいわよ、ミカ。たまには二人で行ってきなさい」
「え?レティシア、来ないの?」
レティシアの予想外の言葉に、美香が驚きの声を上げる。それに対し、レティシアは溜息の入り混じった笑みを浮かべ、諭すように答えた。
「せっかくオズワルドが二人きりで誘っているんだから。そこに私がついて行ったら、野暮ってものよ」
「え!?オズワルドさん、二人きりのつもりだったの?」
そりゃそうよ。私がそう仕向けたんだから。
レティシアは、目と口で三つの円を描いた美香の顔を見ながら、内心で呟く。四六時中一緒に過ごし、美香が寝たきりとなった時にはレティシアが献身的な介護を続けた事で、美香は以前にも増してレティシアに心を許し、二人の関係はより一層親密になっていた。それについて、レティシアは純粋に喜び、美香への愛を深めていたが、それとは別に、一向に進展のない美香とオズワルドとの関係にやきもきしていたのである。レティシアは、美香が望むのであれば美香と二人だけの愛を育みたかったが、美香がオズワルドに心を寄せている以上それを成就させ、レティシアでは与えられない幸せを美香に齎したかった。
レティシアはオズワルドをけしかけて間を取り持つと、ゲルダや女性騎士達にも手を回し、ピクニック当日は二人だけで行動できるよう、お膳立てを計ったのである。にも関わらず、その意図が美香に伝わっていない事にレティシアは呆れ、美香に人差し指を突き立てた。
「ミカ、オズワルドに伝言を頼むわ。『これは戦よ。機を見て一気呵成に攻め立てないと、陥ちるものも陥ちないわ。後がつかえているんだから、もたもたするようなら、私が先に貰っておくわよ』って言っておいて」
「え、ちょっと待って!?」
「あ、覚え切れないか…。紙に書いておこうか?」
「書かなくていいから!」
***
「…って言われて、渡されたんですけど…」
「…」
目の前で紙を広げ、仏頂面のまま動かなくなったオズワルドを、美香は肩を竦めて上目遣いで様子を窺いつつ、心の中で後悔する。何で私、手紙を渡しちゃったんだろう。魔が差したとしか思えない。これじゃ、私が誘っているみたいじゃないか。
悪魔の誘惑に負け、迂闊な行動を取ってしまった自分を呪いつつ、美香は次第に顔を赤くし、身を縮こませる。心の中で葛藤を続ける美香の前で、やがてオズワルドが顔を上げると周囲を見渡し、ポケットに手紙を仕舞いながら口を開いた。
「しかし、此処はいつ来ても変わらないな。川のせせらぎが心地良く、心が癒される。若い頃、非番の時によく来たものだ」
スルーしちゃうんだ。
オズワルドの強引な話題転換に、美香は口を窄める。いや、決して期待していたわけじゃないんだけど。…ないんだけどぉ!
何故か落胆した自分を慌てて否定する美香を余所に、オズワルドは近くの枝ぶりの良い木に近づくと、蔓状の植物に連なる紫の楕円形の果実を幾つか毟り、美香の許へと戻って来た。
「あ…、アケビだ。私、まだ食べた事ないんですよね」
「ミカの故郷ではアケビと言うのか。こちらでは、ラカンと呼ばれている。この時期の、山のご馳走だ」
その独特の形状を目にした美香が、記憶を頼りに呟き、オズワルドが答える。オズワルドはラカンと、馬に括り付けた背嚢から木のヘラを取り出し、美香に手渡した。
「このヘラで掬って食べるといい」
「あの、オズワルドさん。種って食べられるんですか?」
「いや、硬いだけだからな。面倒だが、吐き出した方がいいぞ」
そう言うと、オズワルドは皮を割って剥き出しとなった果肉にかぶりつく。やがて口をもごもごと動かすと美香に背を向け、種を吐き出した。
美香はオズワルドの所作を眺めると、近くの岩に腰を下ろし、膝の上にラカンを置いて皮を割る。ラカンの実が縦に割れ、中から白く細長い果肉が現れた。美香は木のヘラで果肉を掬い、口へと運ぶ。口の中にすっきりとした素朴な甘みが広がり、美香は顔を綻ばせた。
暫く味を堪能していた美香だったが、果肉が溶け去ると口の中に無数の種が残る。美香は少しの間逡巡していたが、やがてオズワルドから顔を背け、スイカの種のように種を噴き出した。河原に黒い種が飛び散り、美香は童心に戻って、次第に種を遠くへ飛ばし始める。
その間、オズワルドは川の浅瀬に簡素な籐の筒を幾つか沈め、美香の許へと戻って来た。豪快に種を飛ばしていた美香だったが、オズワルドの視線に気づくと慌てて膝を揃え、ヘラを使って行儀良くラカンを口に運んだ。
「どうだ、美味いか?」
「はい。軽くて、どんどん口に入っちゃいますね。種がちょっと面倒ですけど」
お淑やかに答える美香を見てオズワルドは笑いを噛み殺すと、ラカンを口に運びながら薪を集め始める。
「少しすれば魚が取れるはずだ、そうしたらお昼にしよう。後で火を起こしてくれるか?」
「はい、わかりました。ジャベリン系でいいですか?」
「いや、もっと火力を抑えてくれ」
川のせせらぎと、枝のそよぎ、小鳥の囀りが調和を奏でる中、二人は互いの存在を感じながら思い思いの時を過ごし、静かに楽しんでいた。
日が傾き、もうすぐ夕日へと移ろうとする頃、二人はハーデンブルグの帰途についていた。美香はラカンや様々な果物を詰めた鞄を抱え、オズワルドに背を預けたまま、機嫌良く鼻唄を歌う。
「美味しかったぁ…やっぱり豊かな自然は良いですね。レティシアにも沢山お土産ができたし、喜んでくれるかな?」
「ああ、勿論。ラカンはレティシア様もお好きだからな、持ち帰ったらきっと喜ぶぞ」
「そうなんですね。後で、二人で種の飛ばしっこしようっと」
すでにお淑やかさをかなぐり捨てた美香が、オズワルドの前で期待に胸を膨らませる。気取られないよう、静かに笑みを浮かべるオズワルドの前で、美香が鼻唄を止めて、呟いた。
「…せっかく果物の一番美味しい季節なのに、マティアス様もデボラさんも戻って来ないんですね。お二人とも、いつまでヴェルツブルグに逗留されるんでしょうね」
「ああ…」
美香の問いにオズワルドは顔を引き締め、やがて努めて平静に答えた。
「これでもディークマイアー家は、エールシュタイン有数の名家だからな。ヴェルツブルグに逗留すれば、参加しなければならない催しも数多くある。去年は北伐もあってヴェルツブルグに向かえなかったからな、その分忙しいのだろう」
「…」
オズワルドの説明に、美香は前を向いたまま、沈黙する。だが、やがて美香は決意を固め、オズワルドに答えた。
「…オズワルドさん」
「どうした?」
「私に、そこまで気を遣わないで下さい」
驚いたように目の前に座る少女を見つめるオズワルドの前で、美香がゆっくりと振り返り、オズワルドを見上げる。
「私、ハーデンブルグの人達が、みんな好きなんです。フリッツ様も、アデーレ様も、マティアス様も、デボラさんも。ニコラウスさんやカルラさん、ゲルダさんや大隊長の皆さんも。騎士さん達や街の人達も。…そして、オズワルドさんも、レティシアも。私、みんな大好きなんです」
「そんな人達がみんな私を気遣い、私の気を煩わせないよう、内心の不安を押し隠し平穏を装っている。私が再び寝たきりにならないよう、私の身を案じ、私の見えないところで奔走している。誰もが私を温室の中に押し込め、私の目を塞いで、荒れ狂う外の嵐から私の目を背けようとしている」
「オズワルドさん…私にも、手伝わせて下さい。ハーデンブルグを、大好きな人達を守る戦いを、手伝わせて下さい」
「…ミカ…」
美香の真っ直ぐな視線を受け、オズワルドは硬直する。
二度に渡るハヌマーンとの戦いを経て、ハーデンブルグの人々は美香の身を案じ、美香に負担を与えまいと、悪化の一途を辿るハーデンブルグの状況を美香に伝えなかった。それはつまり、美香を特別扱いし、ハーデンブルグの人々とは一線を画すという事。ハーデンブルグにとって、自分は未だに「他人」。美香は、そう考えた。
好きなのに。私は、この人達がこんなにも好きなのに。私は未だに、この人達と一緒になれない。
「オズワルドさん、お願いします。私にも手伝わせて下さい。私の居場所は、此処にしかないんです。だから、私にも手伝わせて下さい」
「ミカ…」
オズワルドの目を見据える美香の目に涙が溢れ、一筋の線を引いて流れ落ちる。
「オズワルドさん…」
やがて、美香はオズワルドを見上げたまま、溜まった涙を押し流すかのように目を閉じ、オズワルドも目を閉じると、二人はゆっくりと唇を重ねる。
「…ん…」
次第に橙色に染め上がる景色の中、黒に彩られた1頭の馬と2人の男女が動きを止め、地面に長い長い一つの影を描いていた。
――― そして、翌ガリエルの第2月、ついにその日が訪れた。